映画えんとつ町のプペルが描く夢
あんたもなんかの作品を見直して感情が揺り動かされれることってあるかい?
映画のえんとつ町のプペルをamazonプライムで見られる様になったので、見直してみたんだよ。
前にも何度かこの映画については触れているんだ。
まあまあ書かせてもらっているんだけれども、物語の演出としては結構な課題を抱えている作品だと言うのが俺の感覚なんだよね。
その上で、今回見直してみて、改めて感じたことがあるんだ。
夢ってなんだろ?ってさ。
今回は映画えんとつ町のプペルを見直した上で感じた夢ってものの存在について考えてみる回だ。
ちっと、夢っていう価値観について考えてみようぜ。
下を見るな。上を見ろ。
この映画の中で、象徴的なセリフがある。
「下を見るな。上を見ろ。」って言う主人公ルビッチに書けられた父親のブルーノの言葉だ。
これってさ。
上ってものが象徴的に「価値あるもの」として扱われているセリフなわけだよな。
まず大前提として、夢ってのが何かってことを言葉にしとかないと話が進まないよな。
この上って言葉は夢と繋がる言葉だと思うしね。
で、夢って言葉を辞書的に調べてみる。
1は要するに生理現象そのものだから、映画えんとつ町のプペルで扱われている夢とは違う意味だよな。
文脈的には2の指し示している「将来実現させたいこと」ってのが映画えんとつ町のプペルで描こうとしているものだってことなんだろう。
ポイントは夢の意味である3~5についてはネガティブな意味だってことだな。
それが「上を見ろ」というセリフに凝縮されている様に感じるんだよね。
夢という言葉が持つ意味
改めて辞書を見てみると、夢って言葉が持っている意味ってワリカシネガティブな意味が多いんだね。
1が物理的な生理現象を意味しているからポジティブでもネガティブでもない。
2が唯一のポジティブな意味。3~5は基本的にネガティブな意味で捉えられると思うわけよ。
しかも、2の意味は「将来実現させたい」って願望でしか無いから、同時に「現実からはなれた空想」でもありえるし、「心の迷い」でもありえて、「はかない」ことにもなり得る。
だからこそ映画えんとつ町のプペルという作品は「願え」と言っているんだと思うんだよね。
「願い」続ける才能
でだ。
この「願い」ってのは実に継続することが難しい。
だってそれが「現実からはなれた空想」や「心の迷い」や「はかない」ことじゃないって事前には証明できないんだもんよ。
「願い」が実現するって信じ続けるのってある種の才能だと思うわけだ。
あるヒトはその「願い」を実現するための計画を立案して、その実現の確率を上げることで願いを維持するし、あるヒトは「願い」そのものを繰り返し念ずることで維持をする。
どっちの方法を取るにしても、そこには才能が必要だと思うんだ。
もちろん経験によって技術として才能を補完することは出来るかもしれないけれども、「願い」を維持したいって思えるコトそのものが才能だと思ったりするわけよ。
西野亮廣さんはその才能を持っているヒトを非難するなって思いを持って映画えんとつ町のプペルを作ったんだと思うんだ。
その才能を持つ側のヒトとしてね。
ポイントは「願う才能を持ったヒト」が「願う才能を持たないヒト」を批判するって構造だと思うんだ。
だって、世の中の多数派はどっちだって考えると「願う才能を持たないヒト」なんじゃないかって思うじゃん。
映画えんとつ町のプペルという作品が「願う才能を持たないヒト」が作った作品なら、多分もっと多くの共感を生んだんだと思うんだ。
でも「願う才能を持ったヒト」が作ることによって、あの作品を見て「お前馬鹿だな」って言われた気分になるって構造が生まれている気がするわけだ。
しかも、ルビッチの持つ「夢」には客観的に共感できる要素が描かれなかった。
厳密にはルビッチの夢ですらなくて、父親ブルーノの夢をトレースしているだけだもんな。
なあ、あんたはどう思う?
夢をポジティブに捉えられる才能に嫉妬を感じさせてしまうのは、えんとつ町のプペルって作品を貶めてしまった気がしないかい?
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