悲しみを共有したいヒト
あんたも、色々なヒトが亡くなってしまうってニュースを見て、色々と感じているんじゃないかい?
木村花さんのニュースも志村けんさんのニュースも、俺たちは様々なヒトの死のニュースに触れて、その都度感情を揺り動かされているよな。
で、そのヒトたちの死のニュースと同列にテレビからは新型コロナウイルスで昨日は何人亡くなりましたってのも報道してくれている。
そこで、ふと思う。
感情が動いていない。
同じ様にヒトが亡くなりましたってニュースなのに、昨日の新型コロナウイルスで亡くなってしまったヒトの人数は、全く俺の感情を動かしていないことに気づいた。
そう書いちまうと、「なんて冷たいやつだ」ってあんたは言うかもしれないけどさ。
今回は、ヒトがヒトの感情を動かすってことについて考えてみる回だ。
結局の所、自分がなにをどうするべきなのか。
ちっと思考の整理に付き合ってくれよな。
悲しみを背負うこと
今回この事を考えるきっかけをくれたnoteがある。
ウーマンラッシュアワーの村本さんが書いているこのnoteだ。
この中で村本さんはこんな事を言っている。
電車に飛び込んで自殺したニュースは「何万人に影響があった」と迷惑をかけられた人の数を報道する。その死んだ奴が自分の親父なら?大切な人なら?なんでそうだと思わなくなったんだ。
出典:村上さんの上記note
ちょっとハッとさせられる文章だよな。
さっきも書いたとおり、俺は毎日の新型コロナウイルスで亡くなられた皆さんの人数について数字以上の感情を抱かなくなっている。
村上さんは知らない誰かを悼む自分でありたいと言っている。
そこで、ちょっと考えてみる。
その世界は本当に俺たちが望む世界なんだろうか?
多分、今の世界とは比べ物にならないくらいに優しい世界だよね。
すべての死と寄り添って生きていく世界。
でもさ、その世界の重みに俺たちは耐えることが出来ると思うかい?
俺は自身を持って言える。
そんな世界の悲しみを感じてしまったら、俺なんか生きていけない。
それほど丈夫には出来ていないんだよ。
でも、多くの悲しみに耐える自分ではいたいとも思う。
では自分に問いかけてみよう。
俺たちは、ほんの一握りのヒトの悲しみしか背負うことが出来ない。
その前提での問だ。
「お前は誰の悲しみを共有したいのだ?」ってさ。
悲しみを共有したいヒト
誰かの悲しみを自分の悲しみのように感じる。
それって本来は辛いことだよな。
でも、たしかに俺には「そのヒトが悲しんでいたら一緒になって悲しんでいたい」ってヒトがいる。
家族だったり友人だったり仲間だったり。
そう言うヒトの悲しみは自分の悲しみであってほしい。
あんたにもそう言うヒトっているだろう?
じゃあ、いったいその「そう言うヒト」ってのはどういうヒトなんだ?
色々と考えてみて、一番近い言葉は俺の中では「笑顔を共有しているヒト」だった。
一緒になって喜んだことのあるヒトの悲しみは一緒に感じていたい。
そう思ったんだよね。
笑顔を共有するためにすること
だとするとだよ?
俺の周りの世界を優しくするために俺たちがするべきことってのは、俺やあんたの笑顔をできるだけ多くのヒトと共有するってことだよな。
そのためにはなにをどうすればいいんだろう?
多分、最初にやらなきゃいけないのが「自分がいつ笑っているのか」をキチンと整理しなきゃいけないのかもしれない。
前にもこんなnoteを書いたんだよ。
俺たちオッサンはついつい自分の「好き」を脇に追いやっちまう。
そうなっちまうと、どうしたって自分の笑顔ってのはどっかウソっぽくなっちまうよね。
だから、まず自分の「好き」をキチンと見つけ直すことから始めないとな。
この新型コロナウイルスによって変わってしまった世界では、全く元通りの世界には戻らないとは思う。
でも緊急事態宣言も解除になって、俺たちは少しづつ誰かと会って話すってことが出来るようになっていくんだと思う。
だからさ。
もし俺があんたと会うことが出来たら、ニカって笑ってこう言おう。
「好きは取り戻せたかい?」
そして、俺たちは「好き」を思う存分共有すればいいよな。
そしたらきっと、村本さんの言う優しい世界にちっとは近づくってもんだよな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはどれだけのヒトと「悲しみ」を共有できるんだろう?
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