のび太の新恐竜に見る変化

あんたも自粛解除以降、映画館に行ったかい?

映画館ってのは密閉空間に見えて20分で館内の空気がまるごと入れ替わるくらいの換気をしているので密閉空間とはならないらしいんだよね。

しかも、席が一つおきになっているので密接も起きない。
ただ、この一つおきってのは映画館の収益能力を確実に落としてしまうので、なんか別の方法を考えないとまずいやつだけれどさ。

そんな中で、今回俺が見に行ったのはのび太の新恐竜。
そう、ドラえもんの映画だ。

今回はこののび太の新恐竜についてできるだけネタバレせずにその魅力を振り返ってみる回だ。

ドラえもん50周年なんだってさ。
ちっと付き合ってくれよな。

ドラえもんが50年愛され続けている意味

ドラえもんって言わずもがなだけれども、スーパーコンテンツじゃんか?

俺たちオッサンがガキンチョのころからず~っと人気を保っている。
びっくり仰天なのが、原作者の藤子・F・不二雄さんが亡くなった後も脈々と作品が作り出され続けているってことだと思うんだよな。

俺たち日本人はのび太のダメっぷりもスネ夫のねちっこさもジャイアンの横暴さもしずかちゃんの優しさもドラえもんのある意味での律儀さも全部世界観として共有している。

世界観を共有すれば作品は自然と作り出されていく。

今のドラえもんは言わばオフィシャルに認められた二次創作みたいなもんだもんな。
でも、二次創作だと俺たちは思っても感じてもいない。
ただ、そこにあるのは確かにドラえもんというコンテンツなんだよな。

のび太の新恐竜という作品

で、今回ののび太の新恐竜ってのは、藤子・F・不二雄さんは当然だけれども全く関わっていない作品だ。

でもそこに登場するのび太は俺たちが子供の頃に見たのび太の恐竜と同じ様に誰かに寄り添っていて、相変わらず罰ゲームに目でピーナッツを噛むとか言っていた

目でピーナッツ噛むとか鼻でスパゲティ食べるとかはホントドラえもん以外では見ることのできない表現だよなぁ。

それでも俺たちが子供の頃にみたドラえもんとはまた別のドラえもんだった。
決して何かが劣化しているってわけじゃない。
確実に時代に対応したドラえもんだったって思うんだよ。

のび太が変わるってこと

俺たちがガキンチョのころ、のび太ってキャラクターが絶対しないことがあった。
それは目に見える形で成長するってことだ。

のび太は映画で実に多くの経験をしている。
おめー夏休みのたびにこんだけの経験してたら、ぜってー人間的に成長せざるを得ないだろってくらいの経験をしている。

それでものび太は安定の0点を取り続けるし、かけっこものろま。
事あるごとにジャイアンやスネ夫にいじめられて、しずかちゃんに慰められ、ドラえもんに泣きつくって構造だ。

基本的なこの構造は変わらないんだけれども、今回ののび太の新恐竜で俺が「変わったなぁ」って思うシーンがあった。

のび太が逆上がりを出来るようになるんだよ。

のび太は結構いろんなことが出来る。
あやとりに射撃、それに一瞬で睡眠できるとか現代社会においては無敵とも言える技を持っていたりする。
ただ俺の記憶する限り、のび太はもともと出来ることは結構あるけれど、新しく何かを出来るようになるってシーンは思いつかないんだよ。

今回ののび太の新恐竜で、のび太は自分よりも弱い存在に寄り添うために自分も努力して逆上がりを出来るようになるという約束をする。

約束をして成し遂げる。
これって地道な努力をして成果を残すっていう意味だと今までなかった表現だと思うんだ。

のび太の恐竜ではたしかにぴーすけのたまごの化石を掘り当てたけれど、あれは努力の結果というより偶然の産物だし、のび太の大魔境で巨神像の衛星画像を見つけたのはペコだ。

努力で結果をひねり出すってのはのび太にはなかった要素だと思うんだよ。

多分、この要素は今回ののび太の新恐竜という作品のテーマのためのものだったんだと思う。
今回のテーマは「ヒトは誰かを守ろうとする時に力を発揮する」ってことなんだと思う。

今回ののび太たちは本来絶対の正義であるタイムパトロールにすら逆らおうとする。
今まであれだけ敵対していた時空犯罪者になってしまうと言われても何のためらいもなく「守る」ために行動する。

今の世界は明らかな危機に見舞われている中で、のび太の新恐竜が「守る」物語だったってのは時代に寄り添った作品作りだって俺は思ったんだよね。

なあ、あんたはどう思う?

ドラえもんというコンテンツの様に俺たちも時代に対応していけると思うかい?

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