見出し画像

平和行進2020

コロナウイルスパンデミックの中、縮小した形で今年の沖縄戦慰霊の日へ向けた行脚を6月23日に終へ、さて、今年の広島への行進はどうしようかと考えていた。
今年は少数で歩き、宿を人に頼まず、テントを張りながら歩いた。
東京-広島の平和行進も「今年は出来ないかもしれない」と電話で聞き、では、一人で九州から広島まで行脚しようかと思案していた。
しかし、東京-広島の行進が日数を減らし、東京を半日だけ歩き、名古屋から歩くという事を聞き、一人、二人で歩くのも有り難いが、久しぶりに東京-広島の行進に参加させて頂こうと思い立ち、兵庫県から参加させて頂くことになった。

沖縄に修行の場を移し七年近くが経つが、基本は出家一人の生活となり、サンガとしての生活が出来ないことに不足を感じることもある。今回の東京-広島の行進は出家が常時六名以上居たので、大変有り難く感じた。


昨年の夏には、まさか新型ウイルスの世界的蔓延によって世界がこのように激変してしまうなどと誰が想像できただろう。
諸行無常の世の中においてはまさに、明日さえもこの世界がどのように変容していくのかは誰にもわからないものだ。そういった事からも、”今”をしっかりと生きていかなければならないのだ、ということを強く気づかされる。

コロナによって不安と恐怖に陥った社会は、”感染予防対策”が社会的優先事項として掲げられ、それに従わない事は社会のルールに従わない事であるという”同調圧力”がテレビ、ラジオ、新聞等に溢れ、更には、街の至る所にもそのような掲示が溢れている。
感染予防対策は必要だが、それに従わない者は批難するような行為というのは、社会全体がなにか恐ろしい方向へと向かっていくのではないかと心配しになる。
”コロナを恐れるな”ということではないが、その為に私たちが手放すものは何なのかを忘れてはいけないと思う。

そのような社会的空気の中、平和行進団は歩いているときは殆どマスクも付けず(暑くて逆に熱中症になるので)、大きな声でお題目を唱えながら歩いた。
大きな声を出すと唾の飛沫が飛ぶということで、大きな声で喋ることも憚れるようになってしまった今の社会で、この様に歩けたことは意味のあったことだと思った。

仏教サンガとは、そもそも社会の中の主流派ではなく、異質的組織である。
日本の社会は同調圧力が強く、均質の中の異質を嫌う傾向が強い社会である。
そんな中、空気を読まずに歩く集団がいるということは、ひとつの、社会に対するアンチテーゼであり、メッセージであると強く感じた。

感染しない事を優先するあまり、人としてあたりまえの生き方を忘れてしまわないようにしたい。
日本人は兎角、周りの人と違う事を恐れる傾向が強く、それが良い結果をもたらすこともあるが、必ずしも良い結果だけでなく、その事がストレスとなり精神を病んでしまうことさえある。
「日本の教育は社会的義務の行使は厳しく教えるが、個人の権利行使については教えない」と誰かが言っていたのを思い出す。

今回歩かせて頂いて、改めて感じたことがある。
それは、平和行進で車道を歩くことは、交通の迷惑だったり、歩行者に申し訳ないことではなく、国民としての正当な権利の行使である、ということだ。
現在の政治制度や社会風土の中では、政府や公的決定権を持つ人たちに対して、何も訴えないということは、”現状を是認しいますよ”というメッセージになってしまうからだ。

一方、己の悟りを大事にする仏教修行者が政治や社会制度を批判したり、関わるべきではないと言う人もいる。

平和行進広島県

さて、世界では経済活動を止めて感染拡大防止対策を徹底したことによって、これから歴史上最悪の大恐慌が起こると予測されている。

アフターコロナ、ニューノーマル、ウィズコロナという造語が世間を席巻し、嫌でも耳にするが、どこからともなく降ってくる言葉達に溜飲を下げて、なんとなく納得してしまうことは避けたい。
人間は自分で悩み、苦しみ、そして、答えを探し出すべきであり、その為にこそ仏法が有用であるのだ。

コロナのパンデミックが起こる以前から、私たち人間の社会はニューノーマルを求められていた。
核兵器廃絶も原発廃止や石炭火力発電廃止も、今までずーっとニューノーマルを求められてきていた事を横目に、コロナの時だけニューノーマルと叫ぶのはずるい。

人間の経済活動・自然破壊。

気候変動によって、南米アマゾンの大規模火災、オーストラリアの広大な叢林地帯の消失、ジャカルタ、アッサム、中国、朝鮮半島などの大雨洪水(もちろん日本でも)が至る所で起きている。

コロナパンデミック前から、もはや平穏な「日常」など存在していなかったのだ。

現代の資本主義社会は深く突き詰めていくと、自分は何のために毎日一生懸命働いているのか分からなくなるのではないか?もちろん、家族を守り、食べさせるために働くが、その代償として地球に住む者達が失ったもの、そしてこれから起こる大いなる環境の変化は取り返しのつかないものだろう。
自分の仕事が何の役に立ち、世界にどんな影響を与えているか、考えると怖くなってしまうのではないだろうか?

次から次へと必要なモノが増えていき、際限なく仕事も増えていくのだろうが、立ち止まって考えてみれば、無くてもよいモノはたくさんある。
「持っているモノをみんなで分け合えば誰も困らない」ということをどう具現化していくか?
これこそ仏法がもつ経済理念であり、「布施」という考え方と実践がどれほど個人と社会にとって重要であるか、今一度仏教者が示すべきだと思う。

被爆者の平均年齢が83.31歳ということです。
今回、兵庫県と岡山県で被爆者の方達とお話する機会を得た。被爆者手帳という物を初めて見せて頂いた。戦後75年という月日、放射能被害によって早く逝ってしまわれた方々、生き残った者への差別、保証を求めた国との裁判、そして核兵器のない世界をずーっと求めて来られた事に想いを馳せてみると、頭がグルグルと回ってくる。

未だに人類は核兵器を廃棄できずに、私たちが住む、唯一の被爆国である日本国はアメリカの核の傘に守られていて、核兵器禁止条約に署名さえ出来ないでいる。いたたまれない。

被爆者の方達と私たちとの間には、いかんともしがたいほどに、核兵器廃絶への想いにギャップがあると思う。

彼らと会い、語り、彼らを見ているうちにそんなふうに感じた。

被爆者岡山県


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?