『ただスウィングすれば良い』

『感覚派であれば~』、『理性派なら~が良い』

専門家によると、『物事には理屈や言葉では言い表せない境地がある』そうだ。

私には身近なことで強い感情といった、理屈や言葉では言い表しづらい感覚には抗いがたい部分がある。

以前読んだ本によると、ヒトの発達の歴史上、『感情は究極的には理性に勝る』そうだ。

これは『脳が成長する過程で、感情が理性に関する部分よりも先に出来て、大きくなるから』なのだそうだ。『理性の成長は後追いになる』し、『脳の部分的な大きさからしても、感情優位で完成(?)する』そうだ。


『ヒトは究極的には感情に負けてしまうもの』。では表現したいものやそれを伝える場面において、理性的な論理や言葉といったもの(技術)は然程要らないのだろうか?


・『要らない』ことにして、表現やおもいを伝える。

・『要る』ことにして、それを使って伝える。


私は理性による技術は『要る』と考えている。

ヒトに圧倒的な力が生む勢い(感情)に敵わない面があれど、選択肢は多くあるに越したことはない。

専門家の方々が云われる。『限界はある』。

だけれど私は可能な限り、日頃からそこに近付けておくことは必要なことだと考えている。


もし行い、考えることが面倒なゆえの無策で物事にあたるとして、それを『ストレート』だと好意的に受け取って良いものか。

伝える側として、その一点のみで伝わるという淡い期待を持つ事は、相手を気楽に考え過ぎるようにも思う。

理性的に行う、ということを嫌って避けたがる人はいる。
しかし、何度も良い結果を出していて、感覚派を主張するその人には嘘があると感じる。


いくつかの漫画でも描かれていることだけれど、ヒトが他の生物と異なり、勝ることのある点は、理性があり、用いることが出来る点だ。

本能的な癖で不利な状態を招いているのなら、意識的に癖を制御して、状況を改善することが出来る。

狩りの場面で獲物に本能や無策で突っ込んでいくばかりでは学びも遅くなる。

自分や相手の癖や習性を知って対応することで、得たいものを手にする確率を上げることが出来る。


最終的には誰しもが感覚派なのだ。
感覚と理性については、理性の限界まで近付いて、最後で分からなくなったときに感覚的にお任せする、それ位で良い。


実際、そういったことわざがあった気がする。
とあるゲーム会社名の由来と似ていた気がする。

何だっただろうか・・・。

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