合理と非合理に見る、価値のあるなしのお話

自分が発達障がいを持ってるという視点で日頃過ごしていると、血の繋がりのある家族にもその傾向が見られることがある。

高齢になった家族本人が私に話していたことだ。

ある日ジムに行ったら、「今日は天気が良いですね。」と話しかけられ、「外を見たらわかるじゃない。」と返したとか、

お年寄りの「いやー、私はいつまで生きられるでしょうかねぇ。」に対して、「そんなことで悩んだって仕方ないですよ。それよりも今日一日何しようかな、という心持ちで今日を過ごす方が良いじゃないですか。」など。


唐突だけれど、私は人の話には単純に分けて、2通りの目的があると日頃考えている。

少し理屈っぽくなる。

1つは『ただ自分の話を聞いて欲しい』もの。

もう1つは『アドバイスが欲しい』もの。

前者は挨拶、世間話や日常会話などが該当する。ただ共感や、相づちを求めてるケース。

後者は相談ごとが該当する。具体的な答えなどを求めてるケースだ。

2つに分けて受け取るには、親密度も関係してくる。


家族の話に戻す。

家族の話した場面など聞いてみると、ジムでよく顔を合わせる人ではあっても、名前は出てこない人らしい。

自分がそこで交わされる会話を想像してみたのだけれど、上の話を見ていると、世間話だと考えられた。ジムでパッと会っていきなり人生相談とは少し考え難かったからだ。

単に相手がからかってる可能性もあるけれど。


家族は話しかけられて返事するにあたり、その意味や目的を考えたそうだ。それに対して答えた。

つまり、「天気が〜」に対しては『自分に天気を訊ねている』ことの答えを、

「いつまで生きられるか〜」に対しては『自分に生き方の相談』の答えを伝えた。

家族にとっては日常の世間話1つ1つが自分への意味のある質問に映る。それに対して、回答を返している。真面目なのだろう。


私は人の会話の目的があるとして、2通りに分けられると考えていると書いた。

それで考えた場合で想定すると、ここまで読まれた方がいたとしたら気付かれていることと思う。

ジムでふと会った方が話したという「天気が〜」も、「いつまで生きられるか〜」も、家族に答えやアドバイスを求めてる会話では恐らくない。

私が考えたところ、家族はそぐわない返事をしたことになる。

家族の話を聞いていると、人のするものごとに意味や目的がある、という前提の視点があることに気付いた。


これを私は自分たちの発達障がいに見られる特徴の1つだと考えている。

嘘やテキトーであることを明かして話せば、家族は冗談だと受け取る傾向にある。真剣に感情的になることもある。曰く、冗談には人を和ませる意味があると考えているそうだ。私自身も昔からそう思っていた。

家族は良くも悪くも、自分の思う『合理性』一択でものを考える傾向にある。一方で、『非合理的なこと』には『テキトー』か感情的になる。

家族の合理、非合理を分ける違いは『自分の求める価値の有無』だ。それはその人が考える『生産性』のことだろうか。


私は家族も通して、自分たちが生きる社会に対する視点に、了見の狭さや危険性を感じた。

同時に家族の生きづらさも。


私は何かしらの事件の加害者の話を見ると、似た様なものを想像させられる。

個人的価値観でそれにそぐわない者に対して犯罪を犯す者。

今も昔も、人によってものごとの価値の判断基準は違うというのが一般認識だと思う。

本当にどんな観点なのかはわからないけれど、労働下でもない場合も含めて、『アリ、ナシ』を『合理性』のみで判断して決めること自体がナンセンスだと思う。

その『合理的』も、判断基準も、そもそもその2択の平面的な問題(?)も、言うまでもなく個人的な観点だ。しかも視点が人の上に立っている。

『アリ』、『ナシ』と判断している当事者にとって、その主語はどこにあるのだろう?

家族は平面的な考え方の原因を見る度に、「TVゲームで『はい、いいえ』の選択肢に慣れているから、そういう思考になる」と話す。私は人がそうできているとは思えないけれど、家族にとっては間違いない根拠なのだろう。

私は家族の意見をどうこうするつもりはない。ただ、近くにいる家族が人の危害になることを実行しようとしたら止める。


私は意味のないものを無だと片付けがちな思いに対して、思考停止しないように努めている。

『合理的はアリ』 or 『非合理的はナシ』、では人の価値は1人分も決められない。

日常会話も人付き合いもそれだけでは成立していない。その理由は理屈のみでは説明できないと考える。

自分の狭かった了見を押し広げていく努力が私たちには要る。

『非合理的』な生きづらい範囲も思考次第できっと広げられると思っている。

私は周りに教えて貰うようにしている。



ここからは余談になる。

私は物覚えの体感が非常に良くない。

慣れない人付き合いの上で上手く話せないという失敗を繰り返す。ヘコんではまた、似た状況に失敗を重ねる。

先日、友人の1人に喜ばれた。

人に感謝出来るようになったね、と。

私の人との付き合い方は今一つのままだ。

分野は違っていても、長く生きて続けることで1つは成長出来る。

家族は自身の運動の話で、1つ成長出来たことが人生のどの過程においても達成できたこと、たとえ人生がどこで途絶えても、成長感で満足出来る、という話をしていた。

私は正直、まだそこまでの価値観には遠く及ばない。いつ自分の人生が途絶えても怖いままだ。

ただ非合理的な失敗を重ねてきた私の昔も捨てたものじゃないな、昔からの付き合いである友人たちに喜ばれたのを感じて、そう思い始めている。

少なくとも、今の私たちにとっては価値が左程無かったところに価値が出来たのかもしれないと考えている。

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