『虐待』の認識の違い
あるところ、親子間で虐待があった。
子にはストレス等が残った。
親には恐らく発達障がいがあった。
そして親は機能不全家庭で育っていた。
その親に子が産まれ、親になった。
親は真剣に子のことを考えて、育ててきた。
ある日、子が間違えた言動をとった。
親は怒り、叱った。直接叩きはしないけれど。
そういった事態が、親の気が済むまで際限なく、連日繰り返された。
子は年齢を重ね、家を出た。そして一般社会が待つ。
上の話に戻る。
間違いという基準は、誰にとっての視点だろうか?
そして、親の考えた子のためとは、実際の子の姿と重なるだろうか?
発達障がいの特徴の1つとして、主観以外の視点を持ちにくいという想像力の問題がある。
加えて、機能不全家庭で育った親が精神的に自立出来ていない場合は自身のメンタルやアイデンティティが不安定ということが見られる。物事を見る基準が気分次第で安定せず、ブレやすい。
更にまずいことに、厳しく育てられた人は他の人に支援を頼むことがしづらい。それは物事を自分1人でする事として受け取りやすいからだ。
キャパシティオーバーでも、泣き寝入りのままになっていることが多く見られる。もちろん当人はそれを不満に思っている。
当人の価値観もある。
子の現在を見ると、安心感が薄く、幸せとは言いづらいものが残る。
親は一生懸命子育てをやってきた。
『虐待はなかった。』
しかし、子には虐待と同じ結果の名残りができている。
『虐待はあった。』
余談として、それから。
生き残った子には人として生きる義務が残っている。一般社会で食べて行かなければならない。今でもこれから幸せを目指そうとしている。
横ではこれまで自己実現や楽しみ、幸せを追求してきた人が結婚して家庭を持っていく姿も見える。
子は彼(女)等に相手にされない。
子は自身の人生においてビギナーだ。
今からでも始めなければならない。大人の年齢になった現在、子に自身の将来性や可能性の程度が見えない筈はない。
それでも。
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