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追悼 アラン・ドロン “太陽の男”は、いくたびもよみがえる

アラン・ドロンの訃報が届いたのは、不滅の名作『太陽がいっぱい』の製作から65周年、そして2018年の俳優引退から6年目を迎えた2024年夏。昨年から、市川崑研究でも知られる森遊机氏に、ドロンについての書籍の執筆と資料収集を依頼していた矢先。ドロンについて日本では、これまできちんとした研究本が出ていないのではないか、それが私と森氏との共有認識でした。以下、森遊机氏による追悼文を謹んで掲載いたします。
(編集部 稲葉)
※タイトル上の写真は、『冒険者たち』(67)撮影時のスナップより。

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 2024年8月18日、アラン・ドロン氏が逝去した。享年88。
 同氏についての書籍を作っているさなかの訃報だった。
 世紀の二枚目、フランス映画界最後の大スターなど、“冠”にはこと欠かない氏は、1935年11月8日生まれ、星座はスコルピオ(蠍座)。不遇な家庭環境のもとで幼少年期をおくったという。
 1960年代から70年代にかけての全盛期に、日本では、女性人気が圧倒的。一方で、「あまり演技の巧くない美男」「気どり屋」「全男性の敵」などと皮肉なレッテルが貼られてもいたし、ビジネスに貪欲(主演映画の権利料が高額)、フランス暗黒街との関わりなど、あまり良くないイメージがあったのも事実だ。
 とはいえ、マリアンヌ・フェイスフル共演の『あの胸にもういちど』(68年12月日本公開)から『ブーメランのように』(76年12月日本公開)まで、実に9年連続で日本の“お正月映画”の番を張るなど、そんな海外スターは他にいようもない。

 以前、業界仕様(?)のマニアックなフリーペーパー(月刊「てりとりぃ」)に、「アラン・ドロンのことだけを」というコラムを、50回ほど連載したことがある。
 ドロン氏にまつわることだけを書く、という意味のタイトルだったが、「よくそんなに続けられるね」と、何人もの知人に呆れられた。訳すと、「普通、ドロンについて、そんなに書くネタがないでしょ?」という意味だ。間違いなく。
 だが、往年のフランス娯楽映画が好きな筆者にとって、20世紀後半から21世紀までを駆け抜けた同国の映画人として、氏ほど興味深い存在はなかなかいない。
 特異な個性の持ち主=“代わりのいない人”。そこに、深い敬意をおぼえる。

 今、ドロン書籍を一緒に作っている、DU BOOKS(ディスクユニオン)の旧知の稲葉編集長から届いた訃報に、「ああ、やっぱり夏か……」とため息が出た。
 畢生の名作『太陽がいっぱい』(59)の日本公開は、1960年の夏(6月)。そのあまりの成功ぶりに、以降、外国映画の邦題は、文字どおり『太陽』がいっぱいに。
 そして、もうひとりの“太陽の男”=石原裕次郎氏が旅立ったのも、やはり夏(87年7月)だった。
 『太陽の季節』で鮮烈にデビューした裕次郎氏は、押しも押されぬ大スターの地位に甘えず、『太平洋ひとりぼっち』『黒部の太陽』といった実現困難な大作を製作主演した点、デルボー・プロ、アデル・プロと自身のプロダクションで主演作を作り続けたドロン氏と似ているし、若いころから「映画俳優は男子一生の仕事にあらず」と語っているのも同じ。
 太陽の男たちは、夏に現れ、夏に去ったのだった。

『太陽がいっぱい』日本初公開時のポスター

 『ル・ジタン』(75、東映洋画部配給)の公開時、東映のエース・深作欣二監督がパンフレットに寄稿しているが、「『太陽がいっぱい』『若者のすべて』『冒険者たち』など、彼の主演作では好きな作品は多いのだが、彼自身の面影は私の内部に大した痕跡を残さなかった。」という一節、そういう見かたもあるだろう。
 ただ、大向こうを狙った娯楽大作から小ぢんまりしたアート作品まで、時代の流れに沿って生まれたドロン映画群は、多岐にわたってファンを飽きさせなかったし、そこにおいて、本人の性格や資質、演技力うんぬんは、さして問題にならない。
 ミニシアターではなく、有楽座、日比谷映画劇場、丸の内ピカデリーといったS級ロードショー館にフランス映画の新作が堂々とかかっていた時代――ドロン作品はやはり大輪の華であり、アップダウンの激しい氏の生きかたもまた、知るほどに興味深いものだった。

 「沸騰する話題! 不死鳥の如く甦った黄金の男ドロン」「何か知ってる――脅迫に似た太陽の光がまぶしい!」とは、『太陽が知っている』(68)の、日本公開時の宣伝コピー。
 一国を揺るがす大スキャンダル“マルコヴィッチ殺人事件”の疑惑の渦中にいながら、完全犯罪サスペンスものに主演する度胸もすごいが、映画の出来ばえを上回るコピーワークと、黒いサングラスを強調した怪しげなヴィジュアルで大ヒットに結びつけた手腕は、全盛期の日本ヘラルド映画ならでは。
 この「不死鳥」というキーワードは、10年後、『チェイサー』の日本公開時(78年11月)にもふたたび登場する(「……いくつかの人生の難関を、常にのり切って、不死鳥の如く甦ったスターとしてのドロンを見ていると……」という、映画評論家・白井佳夫氏がパンフレットに寄稿した一文)。

『太陽が知っている』日本初公開時のポスター

 70年代も後半、ドロン映画の興行成績が下降線をたどる中、“起死回生の快作”というふれこみで公開された同作は、モーリス・ロネ、ミレーユ・ダルク共演の犯罪アクションで、テナーサックスの名手スタン・ゲッツ(とロンドン交響楽団)が演奏する音楽も渋く、手ごたえのある作品だったが、お客の入りは良くなかった。
 以降、ドロン映画の日本配給は滞りがちで、長いブランクが生じる。
 もっとも、当時のわが国の世相は、もはやドロン氏個人の奮闘の域を超えており、アメリカ西海岸の風が吹きまくる中、滋味のあるフランス映画、ひいてはヨーロッパ的なるものへの関心は下がる一方。83年、6年ぶりに来日した氏も、TV出演時に、「アメリカ映画ばかりじゃなくて、フランス映画も輸入してくれるとうれしいんですけどね」という意味の発言をしている。

 10代のころ志願兵としてインドシナ戦争を体験した氏は、60年代半ばのインタビューで、最も忌み嫌うものは戦争、家族を失うこと、と答えている。  初めて製作主演した『さすらいの狼』(64、仏題『L’insoumis』=脱走兵、徴兵忌避者の意味)は、アルジェリア戦争を背景にした社会派の佳作だが、地味なモノクロ映画で興行的には不成功。大事なプロデュース第一作に、あえてそういう困難な題材を選ぶあたり、やはり、並の神経の持ち主ではない。

 ジュリエット・グレコ、ロミー・シュナイダー、ナタリー・バルテルミー(ナタリー・ドロン)、ミレーユ・ダルク、歌手のダリダ、アンヌ・パリローと、女性遍歴の賑やかさでは、稀代の色事師のロジェ・ヴァディム監督やセルジュ・ゲンスブールにひけをとらないが、60年代半ば、勇んで遠征したハリウッドでは、ついに人気が出ずじまい。180cm弱の長身痩躯も、屈強なアメリカ人俳優たちの中にあっては、どこか頼りなげに見えた。

 筆者が最も愛するドロン主演作は、1967年の『冒険者たち』。
 好きが昂じて、二十歳のころ(81年)、ロケ地となった要塞島(仏・シャラント県にあるフォール・ボワイヤール)を訪ねた。“聖地巡礼”ブームどころか、ネットも携帯もない当時、鞄ひとつで異国の果てをひとり旅するのは、かなりの冒険だった。
 生前のドロン氏に会うことは叶わなかったが、この旅のおかげで、同作を撮った名匠ロベール・アンリコ監督には、二度お会いできた。

『冒険者たち』日本初公開時の試写状

 そして――「よみがえる」ということで言えば、ハリウッド撤退後の帰国第一作、この『冒険者たち』こそが、最初の転換点=復活作なのだった。
 「アメリカに行きやがって」とバッシングしていたプライドの高い仏映画界とファンも、同作での気負いを捨てた自然体の好演を観て、風向きを変える。
 続いて、『サムライ』(67)『さらば友よ』(68)『シシリアン』(69)と、フィルムノワールの秀作、ヒット作を連打。その前後の、“マルコヴィッチ事件”からの生還は、前述した『太陽が知っている』の逆転的成功に繋がってゆく。

『サムライ』日本初公開時のプレスシート

 『ボルサリーノ』(70)のジャン=ポール・ベルモンド、『帰らざる夜明け』(71)のシモーヌ・シニョレ、『暗黒街のふたり』(73)のジャン・ギャバン、『フリック・ストーリー』(75)のジャン=ルイ・トランティニアンなど、自前で製作主演する際、大物共演者を異様なまでに(役の上で)立てるのも、ドロン映画の大きな特徴だ。
 自ら製作した西部劇『ベラクルス』のラストシーンで、格上の大スター、ゲイリー・クーパーを引き立て、結果、自分も得をするバート・ランカスター(『山猫』63、『スコルピオ』73でドロン氏と共演)を思わせる、古風かつ才たけた映画人だったのだろう。

 その風貌と、演じてきた役柄から、酷薄なイメージのあるドロン氏だが、意外に義理堅い人情家でもあり、特に、刑余者や、社会的立場の弱い者、窮地に立つ無名の人間に対する手厚いふるまいの数々は、日本のファンにもひっそりと伝えられてきた。

 映画以外の話題にもこと欠かず、レナウンの紳士服「ダーバン」のTVCMは一世を風靡したし、ダリダとデュエットした〈あまい囁き〉も大ヒット曲となった。

〈あまい囁き〉を収録したダリダのLPレコード


 近年、ビジネスとして成功した男性用香水「サムライ」も、発売当初(90年代末ごろ)は、渋谷駅近くの仮設店舗にぽつねんと座る親切な初老の女性が、ひとりで販売していたのを覚えている。
 やがて「サムライ」は売れはじめ、女性用コスメにも進出。しかし、それがドロン氏のプロデュースであること、かつての秀作『サムライ』や、『レッド・サン』(71)で共演した氏の尊敬する名優・三船敏郎氏(=“侍”)のイメージを背負っていることも、今や知らない人のほうが多いのだろう。
 没後いっせいに出た仏本国の大手新聞、雑誌の第一面には、“Le Dernier Samourai”(最後のサムライ)という見出しが散見されたというのに、日本では、そこがほぼスルーされていたのは残念。
 そう考えると、親日家のドロンと三船の共演で企画された幻の日仏合作『青い目のサムライ』は、どんな形であれ、当時作られるべきだったと思う。

ドロンと三船敏郎(『レッド・サン』製作記者会見の広報写真)

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 どこまでもストイックで野心的、妥協のない生きかたを貫いたドロン氏。
 あげく、生き急いだ事業家の主人公が過労で突然死するというセルフ・パロディー映画『プレステージ』(77、当初の邦題案は『太陽よ、急げ!』)まで自演してしまうとは、度量が大きいのか、特殊な自意識の持ち主なのか……?
 生まれながらのエリートで愛嬌たっぷりのベルモンドに比べて、本国で「フランス人らしくない」と言われた氏の主演作には、沈鬱なトーンの作品が多い。ゆえに本来、太陽の男より、“月の男”と呼ばれるべきなのかもしれない。
 そうした矛盾や清濁もあわせ飲んだ、映画の愉しみの大いなる担い手――自己の人生を懸命に生きた人だったと言うほかはない。
 アラン・ドロンは、いくたびもよみがえるだろう。これからも。

                      2024年9月5日 森 遊机

森 遊机 (Yuuki Mori)
1960年、神奈川県出身。上智大学文学部英文科卒。フランス映画社、パイオニアLDC(ジェネオン エンタテインメント)などに勤務。著書に『完本 市川崑の映画たち』『光と嘘、真実と影』『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』など。『鈴木敏夫×押井守対談集 されどわれらが日々』(DU BOOKS・2024年刊)などを編集。アラン・ドロン関連書籍(題名未定/DU BOOKS・2025年刊行予定)、『海がきこえる THE VISUAL COLLECTION』(トゥーヴァージンズ・10月下旬刊行予定)などを編集・制作中。
X(旧Twitter)ID:@ym_belmondo

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