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心に残る“映画の劇場用パンフレットの文章”たち。 『映画の感傷 山崎まどか映画エッセイ集』から「鑑賞のスーベニール」を全文公開!

 現在、新型ウイルス感染防止のため、多くの映画館が休業中です。新作映画の公開も延期されています。そんな危機的な状況にある映画を救おうと、「ミニシアター・エイド基金」や「SAVE THE CINEMA」も多くの支持も集めています。
 映画は、映画館までの道のり(デートなら待ち合わせも)、上映を待つまでの時間つぶし、ロビーのフライヤーやスタッフお手製の映画評スクラップを眺めたり、映画館以外ではめったに買わない(?)ポップコーンとコーラを買っちゃったりといった、鑑賞までの過程も楽しいもの。上映後も、真っ暗な劇場から外に出た瞬間、ふと街並みがそれまでとは変わっているような感触、帰りの電車ではパンフレットを読み返して余韻に浸る、そんな贅沢な映画鑑賞の時間の流れがいち早く戻ってきますように。
 今回は、『映画の感傷 山崎まどか映画エッセイ集』より、劇場パンフレットの魅力が綴られた、「はじめに 鑑賞のスーベニール」の全文を、著者の了解を得まして、ここに公開いたします。

鑑賞のスーベニール

 この本に収録されているエッセイの多くは、映画公開時の劇場用パンフレットに私が寄稿したものだ。
 映画のパンフレットの仕事は好きだ。雑誌やインターネットに映画の話を書くのも楽しいが、パンフレットに掲載するコラムやエッセイを頼まれると、その作品へのコミットが深まるような気がして、背筋が伸びる。「この映画のパンフレットに書けたらいいな」と思った作品について依頼をもらうと、その映画と両想いになれたようで嬉しい。もちろん、そんなのは幻想だと分かっているけれど。
 ”映画の劇場用パンフレットの文章”には、独特なものがある。映画のパンフレットに載せる文章は基本的に見た後に読んでもらうことを前提としているので、その映画を見てもらうために書くレビューと違って、自由度が高い。もしかしたら映画が始まる前に客席でパンフレットを読んでしまうという人もいるかもしれないが、できれば映画が終わって劇場が明るくなるまでは、待った方がいい。しかし、パンフレットは映画の関連商品ともいえるものなので、純粋な批評かといわれれば、また違う。
 私には私なりの”映画パンフレットの文章”に対する考え方がある。映画の背景や本質が伝わるものを書きたい。と、同時になるべく感傷的に、エモーショナルに書きたい。


 初めて映画のパンフレットに文章を書いたのは、2002年。フランス映画社によるゴダールの『ウィークエンド』(67)の再映と『フォーエヴァー・モーツァルト』(96)のロードショーの時だった。その両方のパンフレットに書かせてもらった。その次が確か『アップタウン・ガールズ』(03)。ブリタニー・マーフィ演じるお金持ちのわがまま娘だったヒロインが無一文になって、ベビーシッターとして働き始めるという話で、彼女が相手をする子役がダコタ・ファニングだった。そのファニング扮するアッパー・イーストのお金持ちの少女が家出する先がコニー・アイランドで、モリス・エンゲルとルース・オーキンが撮った『小さな逃亡者』(53)に連なる作品だと書いた。こういう、小さくて他愛のない映画について丁寧に書かせてもらえる媒体は、その作品のパンフレットしかない。
 今まで、八十本近い映画のパンフレットに原稿を書いてきた。20代の私からすると、信じられないような話である。映画はずっと好きだったが、長い間、自分は気楽な観客なのだと考えてきた。映画について自分が何か書けるなんて大それたことは、20代後半になってテキスト・サイト(Romantic au go! go!)を始めるまでは考えたこともなかった。


 劇場公開する映画の出演者やクリエイターの情報、制作秘話、インタビューを載せた日本のパンフレットのような媒体は、他の国に類を見ないものではないだろうか。少なくとも、外国の映画配給会社がパンフレットを作って販売しているという話は聞いたことがない。この国だけの文化なのかもしれない。
 劇場で映画を見始めた10代の頃は、気に入った作品のパンフレットはかならずといっていいほど買っていた。その映画についてのくわしい情報が特に欲しかったというよりも、好きな映画ならばパンフレットを持っていて当たり前だと思っていたからだ。美しいスチール写真が掲載された小さな冊子は、映画館で映画を見たことに付随するスーベニールのようなものだ。ブロックバスターの映画の派手やかで大きなものよりは、上映館の名前が入っているミニ・シアター映画のパンフレットが好きだった。今はもうなくなってしまったシネマ・ライズのパンフレットには、その映画に出てくる料理を再現する連載のコーナーがあって、いつも楽しみにしていた。ミニ・シアターのパンフレットは劇場ごとに個性があって、映画館でしか買えない雑誌を購入するような感覚に近かった。
 20代になってからは、古い映画のパンフレットを古本屋で探すようになった。60年代映画のブームの時で、たまたま立ち寄った地方の古本屋で、『魚が出てきた日』(68)やディーン・マーティン主演の『サイレンサー』シリーズ(66〜68)といったマイナーな映画のパンフレットを見つけて、興奮したことがある。前者は2011年のリバイバル・ロードショーでようやく見た。ギリシアの島での核兵器をめぐる騒動を描いたブラック・コメディで、試写で見た直後に東日本大震災が起きたので、忘れられない映画になった。007のお気楽な模倣の『サイレンサー』シリーズは四作全てをテレビ東京の昼のロードショーで見ている。オープニング・タイトルが凝っていて、サントラの音楽が洒落ていて、60年代ファッションに身を包んだ美女がたくさん出てくる。そんな映画に再評価が集まっていた時代だ。テレビの深夜に放映されて、興奮して録画したゴア・ヴィダル原作の『マイラ』(70)、今はなき御茶ノ水のレンタル・ショップ「ジャニス」で輸入版のVHSを何度も借りて見たラス・メイヤー監督の『ワイルド・パーティー』(70)。気に入った旧作映画の日本公開時のパンフレットを古書店で探すのが楽しみになった。
 90年代はリバイバル・ロードショーも盛んで、スタイリッシュなデザインのフライヤーやパンフレットが付きものだった。私自身はなくしてしまったものも多いけれど、90年代のリバイバル上映に関連するこうしたエフェメラには、もうプレミアが付いているはずだ。
 河原晶子、川本三郎、海野弘、芝山幹郎、滝本誠、川勝正幸、小西康陽。
80年代から90年代にかけて、私が熱心にパンフレットのコラムやエッセイ、評論を読んでいた時に好きだった書き手たち。単に映画に関する情報を補完するだけではなく、その映画の背後にある世界、その映画から広がっていく世界を感じさせてくれる素晴らしい文章がたくさんあった。
 何よりも忘れられないのは、日比谷シャンテでリバイバル上映されたジャン・ルノワールの『黄金の馬車』(91)のパンフレットに掲載されていた岡崎京子の「転倒する黄金の映画」と題されたエッセイだ。これがもう、素晴らしかった。何か特別な知識を持って書いているというのではないけれど、あの映画のエッセンスを見事にとらえた文章。私が『黄金の馬車』を見ていた時に動いた感情が、放物線となってここに焼きつけられている。映画館から帰る電車の中で読みながら、波のように映画の残像が押し寄せてきた。ひとりのアーティストの作品に対しての、別のアーティストからの魂の返答みたいな文章で、これ自体が作品になっている。単なる映画に対する感想ではない。いわゆる映画評論家でも、シネフィルでもない人の書いた映画に関する文章で、心に残るものがある。私もこういうものが書きたい、とつい思ってしまうような文章だ。武田百合子が書く映画の話がそうだし、ヒルトン・アルスのエッセイもそうだ。岡崎京子が書くものもそう。ヴィエラ・ヒチロヴァーの『ひなぎく』(66)のフライヤーに寄せた彼女のコメントもすごかった。20代の時は、私がいつか映画のパンフレットに書くことがあったならば、「転倒する黄金の映画」のような文章を書きたいと思っていた。今も変わらない目標としてそれはある。


 しかし、今のこの時代に映画館で売るパンフレットの存在意義とは何だろう。映画のくわしい情報や、俳優や監督、スタッフのインタビューならばインターネットでいくらでも手に入る。映画の画像や映像もそうだ。映画会社からオフィシャルで提供されるスチール写真とは違う、映画ファンが好きにキャプチャーした画面やGⅠFやミームがネットには溢れている。そもそも、映画館で映画を見る必要がない。テレビ放映やDVDレンタルを待つまでもなく、ネット配信で次から次へと新作映画が押し寄せてきているではないか。
 でもそんな空前のサブスク時代だからこそ、映画の記憶を留めること、手元に残すことが大切に思えてくる。好きな映画がいつも配信されているとは限らない。配信会社の都合で映画はネットから消えていく。いつも手に届くと思って後回しにしているうちになくなってしまったり、膨大な作品群に埋もれてしまったり。誰でも簡単に手にできるようになって、映画はより儚くなったのだ。だったらソフトを買えばいいかというと、そういうことでもない。VHSからレーザーディスク、DVD、そしてブルーレイへ。ソフトの形態はどんどん変わっていく。どんなにソフトをコレクションしても、いつかはハードが壊れて使えなくなってしまう、そしてハードそのものの製造が中止されればそれで終わりだ。映画を完全に手にすることなんて、きっとできないのだ。観客に残るのは、映画の記憶でしかない。ただ作品の記憶ではなく、それを見た時の自分や、見に行った場所や、映画が終わった後に見た風景を含む、その人だけの思い出だ。映画は観客の個人的なものになり、誰からも奪われない。映画のパンフレットは、その記憶を喚起する装置として機能するものであって欲しい。単なる映画鑑賞を、固有の経験に変える何かであって欲しい。
 どんなに自宅のいい環境で映画が見られるようになっても、映画館で見る作品にはやっぱり特別なものがある。ささやかでも、不完全でも、胸が締めつけられるようなシーンが一つあればどうしようもなくその映画を愛してしまう。他の観客と共に映画を見ていて自分の中にひそむセンチメントが刺激される時、映画館の暗闇に見えない紙吹雪が降り注ぐ。それは私だけのものではない、誰かの感傷が降らせるものなのかもしれない。劇場の中の暗闇が晴れると、それは消えてしまう。ポップコーンの残骸やチラシと共に床に散らばるゴミにさえならない。そんな瞬間を閉じ込めることができたら素敵だ。スノードームを逆さにしてキラキラと作り物の雪を降らせるように、誰かの映画の記憶を呼び戻すことができたら。
 映画のパンフレットに文章を書く時は、いつもそんなことを考える。

※転載にあたり、一部、改行などの体裁を変更しています。

『映画の感傷』(帯なし)

映画の感傷
山崎まどか映画エッセイ集

山崎まどか 著

見開き-1

見開き-5

<おもな内容>
はじめに 鑑賞のスーベニール

1 映画の彼女とわたしたちの傷あと
 
はじめてのルノワール―『ピクニック』
どうしようもない私たちの物語―『タイニー・ファニチャー』
不器用な女子を祝福する「ハ」―『フランシス・ハ』
レディ・バードのきらめく傷あと―『レディ・バード』
アメリカのコメディエンヌたちの最前線―『ブライズメイズ 史上最悪のウエディングプラン』
勝ち組女子のその後―『バチェロレッテ あの子が結婚するなんて!』
コメディのロマンティック・ヒーロー、エイミー・シューマー―『アイ・フィール・プリティ 人生最高のハプニング』
ガールズ・ワールドの共通言語―『ビューティフル・デイズ』
17歳をめぐる名作たち―『17歳』
愛らしいアマチュアリズムが胸を締めつける―『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』
少女たちが貪る甘美な悪夢―『ネオン・デーモン』
今を生きる私たちに贈る彼女のストーリー―『コレット』
ラス・フォン・トリアーが大嫌い―『メランコリア』
少女の普遍を描いたダークなおとぎ話―『イノセント・ガーデン』
いつか、その夢から覚めたとき―『ガール・オン・ザ・トレイン』
20世紀の女たちへ―『20センチュリー・ウーマン』
男のいない女たちの世界―『The Beguiled /ビガイルド 欲望のめざめ』
まるっきり山岸凉子のマンガみたい―『ブラック・スワン』
光が差す方向に、少女たちは走る―『裸足の季節』
彼女と、彼女に見捨てられた町の物語―『さよなら、退屈なレオニー』

2 映画はファッションと街で見る
タータン・チェックのプリーツ・スカートよ永遠に―『クルーレス』
アメリカ女子大生ファッション・クロニクル
いま、最もオシャレな映画監督は誰?
「コッポラ二世」、実はロマン派―『チャールズ・スワン三世の頭ン中』
映画人からファッションを学ぶ
純白であるほど罪が深い、ホワイト・スーツの美学
ファッションから浮かび上がる
60年代南部の女性たち―『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』
アルモドバル監督が描く憧れの女優たち―『抱擁のかけら』
オスカー・アイザックが着ていたコート―『アメリカン・ドリーマー』
ファッション・ショーのために見る映画
ブログによって広がる「ささやかだけど豊かな小宇宙」―『ジュリー&ジュリア』
イースト・ヴィレッジでエリナ・リグビーを探す―『ラブストーリーズ コナーの涙』『ラブストーリーズ エリナーの愛情』
映画愛に溢れたニューヨークのファンタジー―『マイ・ファニー・レディ』
映画の中に残されたブルックリンの奇跡―『スモーク』
ニューヨークと自然史博物館とデヴィッド・ボウイ―『ワンダーストラック』
丸の内と若尾文子が輝いていた時代のコメディ―『最高殊勲夫人』
東京女子が素敵な映画

3 思春期というアメリカ映画の神話
ジョン・ヒューズならどうする?―『すてきな片想い』
思春期前夜のスランバー・パーティ―『アメリカン・スリープオーバー』
今をときめくコメディアンたちがみんなで過ごした、あの夏―『ウェット・ホット・アメリカン・サマー』
永遠の少女と大人になってしまう少年の悲しみ―『モールス』
新たな青春映画のスタンダード―『きっと、星のせいじゃない。』
ねえ、暗闇の中にいる君
映画の中のティーンエイジャーのお部屋
正統派ビーチ映画としての『スプリング・ブレイカーズ』―『スプリング・ブレイカーズ』
ジョン・ヒューズの「1958年の夏休み」
奇妙な救世主、カットニス・エバンディーン―『ハンガー・ゲーム FINAL:レボリューション』
スモールタウンのアメリカ的なイノセンス―『マンチェスター・バイ・ザ・シー』
フィクションとノンフィクションの境目―『アメリカン・アニマルズ』
ループする思春期―『ヤングアダルト』
大人になれない世代のための、新しい青春映画―『ヤング・アダルト・ニューヨーク』

4 未熟なロマンス、大人のロマンス
ハッピー・エンドのために~ロマンティック・コメディ映画における12のルール
恋のゲーム、神様のゲーム―『夏の夜は三たび微笑む』
拝啓 ティモシー・シャラメ様
まなざしだけがふたりをつなぎとめる―『ポルト』
メイク・ミー・ブルー―『ムーンライト』
バリー・ジェンキンスの恋人たち―『ビール・ストリートの恋人たち』
ウィーン・パリ・東京 九年間のディスタンス―『ビフォア・サンセット』
まだそこから先がある―『ビフォア・ミッドナイト』
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大人になりきれない、今時の大人の恋愛―『おとなの恋は、まわり道』

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山崎まどか
コラムニスト。女子文化全般、海外カルチャーから、映画、文学までをテーマに執筆。 著書に『オリーブ少女ライフ』(河出書房新社)『女子とニューヨーク』(メディア総合研究所)『イノセント・ガールズ』(アスペクト)『優雅な読書が最高の復讐である』(DU BOOKS)、共著に『ヤング・アダルトU.S.A.』(DU BOOKS)、翻訳書にレナ・ダナム『ありがちな女じゃない』(河出書房新社)など。











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