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録音作品の「外の世界」への想像力をかきたてるジャズ&オーディオ・アンソロジー『ジャズの秘境』より、「深海の二重奏〜ビル・エヴァンス&ジム・ホール『アンダーカレント』の暗流する低音」をためし読み公開

 本日8月16日はジャズピアニスト、ビル・エヴァンスの誕生日です。

 そこでこのたびは、好評発売中の『ジャズの秘境 今まで誰も言わなかったジャズCDの聴き方がわかる本』(嶋護 著)に収録の一編、「深海の二重奏〜ビル・エヴァンス&ジム・ホール『アンダーカレント』の暗流する低音」を特別ためし読み公開いたします。

ジャズの秘境

 稀代のギタリスト、ジム・ホールとの名セッションが堪能できる『アンダーカレント』はいかにして誕生したのか。本作が帯びる“水”のイメージとは。CDで本作をお持ちの方は、ぜひ聴きながらご一読ください。

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深海の二重奏 ビル・エヴァンス&ジム・ホール『アンダーカレント』の暗流する低音

文=嶋 護

ビル・エヴァンスとギタリスト

 自分が昔に録音したレコードを聴き返す習慣は、ビル・エヴァンスになかった。しかし、晩年に考えを変えたのは、そこから学べることがあると思うようになったためだった。
「だって昔はやっていたが今はやらなくなったことがあるから。その逆もある。それでね、最近は、昔のレコードを聴いているときでも、自分の演奏を、他人が聴くように客観的に聴けるようになった。で、自分の演奏をたくさん聴いている」亡くなるひと月前のインタビューで、エヴァンスは理由をこう語った。
 ローリー・ヴァホーミンから直に聞いた話だが、晩年のエヴァンスは日本製のラジカセ(1970年代後半に流行した巨大なタイプ)で、自分のライブや自宅での練習(ジャズやクラシック)を録音していた。自宅にいるときは、そのカセットテープを詰め込んだショッピング・バック(レジ袋)を傍に置き、ヘッドホンで長い時間聴いていた。(エヴァンスの亡くなったあと、カセットはすべてマーク・ジョンソンに譲られた。)
 エヴァンスが最後に耳にした自分の演奏は、亡くなった日にアパートから出かける前、ローリー・ヴァホーミンがかけたレコードで、おそらく『アンダーカレント』だった。「おそらく」というのは、ローリーが「ビルとジム・ホールが共演したアルバムのひとつ(one of Billʼs albums with Jim Hall)」とだけ言っていたからだ。
 これは、「ジム・ホールとのアルバム」と言えば誰もが『アンダーカレント』を思い浮かべることを前提にした発言だと考えて問題はないだろう。ビル・エヴァンスとジム・ホールが共演したアルバムは全部で7枚あり、録音順に並べると、次のようになる。

 ジョン・ルイス 『拳銃の報酬*』(ユナイテッド・アーティスツ、1959年7月録音)
 ジョン・ルイス 『ジャズ・アブストラクションズ』(アトランティック、1960年12月録音)
 ビル・エヴァンス&ジム・ホール 『アンダーカレント』(ユナイテッド・アーティスツ、1962年4&5月録音)
 ビル・エヴァンス 『インタープレイ』(ヴァーヴ、1962年7月録音)
 ビル・エヴァンス 『ルース・ブルース』(マイルストーン、1962年8月録音)
 ゲイリー・マクファーランド 『ゲイリー・マクファーランド・オーケストラ・フィーチャーリング・ビル・エヴァンス』(ヴァーヴ、1962年12月&1963年1月録音)
 ビル・エヴァンス&ジム・ホール 『インター・モデュレーション』(ヴァーヴ、1964年4&5月録音)
 *同じレーベルにあるモダン・ジャズ・カルテットの演奏したレコードとは別のサウンドトラック盤(UAS 5061)

 ジム・ホールとの共演は以上ですべてだが、このあとエヴァンスとスタジオで録音を残したギタリストは3人いる。しかし、そのなかのふたり(スティーヴ・ブラウンとサム・ブラウン)はオーケストラ・セッションで顔を合わせただけで、実質的には1976年5月録音の『クインテッセンス』(ファンタジー)で共演したケニー・バレルしかいない。
 ケニー・バレルとエヴァンスは古い顔馴染みで、1958~9年に録音されたリヴァーサイドのチェット・ベイカー・セッションや、1978年のニースやモントルーのジャズ・フェスティバルでも共演していた。バレルはアーシーな表現から抑制の効いた演奏までを楽々とこなすヴァーサタイルなスタイルの持ち主で、エヴァンスとの相性がとても良好だったことは疑いがない。しかし、ジム・ホールとの場合のように絶妙なケミストリーまでは期待できないだろう。
 そもそも、エヴァンスが『インター・モデュレーション』を最後にギターとのデュオ・アルバムを作らなかったことや、ローリーが寝たきりになったエヴァンスを元気づけるためにかけたレコードが『アンダーカレント』だったことは、エヴァンスがジム・ホールと作ったふたつのデュオ・アルバムにいかに満足していたかを物語っているのではないだろうか。

スタジオとピアノ

 エヴァンスは、リヴァーサイドへの初録音でありファースト・リーダー・アルバムでもある『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』以来、リーダーであるかサイドマンであるかを問わず、リヴァーサイドの録音セッションにはリーヴス・サウンド・スタジオを使っていた。
 これはリヴァーサイドがリーヴスと契約を結んでいたためだった。リーヴスは、スタジオが空いている夜中の録音セッションで格安のディスカウント料金をリヴァーサイドに提示し、リヴァーサイドは、それに飛びついたのだった。リーヴスのコントロール・ルームは、セロニアス・モンクのリヴァーサイド盤『セロニアス・ヒムセルフ』のジャケット写真で見ることができる。
 しかし、歪みが一面にまとわりついた『エブリバディ・ディグス・ビル・エヴァンス』を聴けばわかるように、リーヴス/リヴァーサイドのピアノ録音にはいろいろな問題がつきまとっていた。その原因の多くは、スタジオや機材の問題以上に、ジャック・ヒギンズとレイ・フォウラーという、リヴァーサイドの録音をしていたミキサーにあった。
 ルディ・ヴァン=ゲルダーもそうだったが、彼らはピアノを録音するとき、狭いスタジオに置かれたピアノの音を大きくして目立たせるために、マイクを楽器のすぐそばに近づけて、さらに録音レベルを上げ、仕上げにコンプレッサーやイコライザーを過剰に用いた。
 しかし、彼らが使っていた西ドイツ製ノイマンのマイクは、もともと楽器から距離を置いて周りの空間の音も拾いながら使うように設計されていた。加えて、当時のアメリカのマイク・プリは、低出力のアメリカ製マイクを基準にしていたので、ノイマンの高出力に到底耐えられなかった。その結果、ヴァン=ゲルダーやヒギンズやフォウラーが録音したピアノの音は変形し、潰れ、歪んだ。
 リヴァーサイドはこのあと、リーヴスとの契約が切れると、今度はプラザ・サウンド・スタジオを使うようになった。しかし、ヒギンズとフォウラーはそのままリヴァーサイドの仕事を続けたので、問題はいっこうに解消されなかった。
 問題はピアノ自体にもあった。1959年12月、ビル・エヴァンスはプラザ・スタジオで『ポートレイト・イン・ジャズ』を録音したが、スタジオ備え付けのピアノが気に入らず、すっかりいやになってしまった。それが直接の原因かどうかは不明だが、その後エヴァンスは実に13か月にわたって、ほかの会社に録音はしても、リヴァーサイドには一度も録音しなかった。
 エヴァンスがようやくリヴァーサイド録音に復帰したのは1961年1月で、ジュリアン・キャノンボール・アダレイ(1928年9月生〜1975年8月没)との共同リーダー作、『ノウ・ホワット・アイ・ミーン』のセッションだった。
『ノウ・ホワット・アイ・ミーン』は、大手のベル・サウンド・スタジオで録音された。スタジオ使用料はリーヴスやプラザより嵩かさんだが、リヴァーサイドはふたりのスターのために財布の紐を緩めた。エヴァンスは、ベル・サウンド・スタジオのピアノに満足し、立て続けに同じスタジオで自分のトリオのアルバム、『エクスプロレイションズ』も録音した。
 その数か月後にエヴァンスは、ヴィレッジ・ヴァンガードで伝説となるライブ録音を行なった。しかし、1961年7月6日にスコット・ラファロが突然の事故で命を落とすと、そのショックに打ちのめされ、しばらくのあいだピアノに触ろうとすらしなかった。
 エヴァンスが録音に復帰したのは、同年10月のマーク・マーフィのリヴァーサイド・セッションだった。そのセッションで、エヴァンスは、プラザ・スタジオのピアノをいやいやながら弾いた。その後は、リヴァーサイドのほかにも、エピック、アトランティック、オーディオ・フィデリティの録音セッションでサイドマンを務めた。
 1962年4月4日には、やはりプラザ・スタジオで初めてのソロ・ピアノ録音セッションも経験した。しかし、士気は上がらず、お気に入りのピアノではなく、ヘロインからも抜け出せずという体たらくでは、たいした仕上がりになるはずもなく、4曲を録音したところで録音は打ち切りになった。
 同月24日、エヴァンスは、ユナイテッド・アーティスツ・レコードの誘いを受けて、ジム・ホールの録音に参加するために、マンハッタンのサウンド・メーカーズ・スタジオを初めて訪れた。これが、『アンダーカレント』を生み出すことになるセッションである。

ふたつのセッション

 奇妙なことに、『アンダーカレント』は、かつては録音日が1959年5月15日とされていた。マイケル・カスクーナとマイケル・ルプリもディスコグラフィーに、「『ドリーム・ジプシー』と『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』は1959年5月録音」と記していた。エヴァンスは5月12日にボブ・ブルックマイヤーズと『アイボリー・ハンターズ』を録音している。そのレーベルがユナイテッド・アーティスツだったので混同されたのだろうか。それでも3日違うが。
『アンダーカレント』は計2回のセッションで完成した。第二回のセッションは1962年5月14日と、ややあいだが空いているが、ペッティンガーの伝記によれば、2回のセッションは最初から予定されていたことだったという。
 ジム・ホール(1930年12月生〜2013年12月没)は、2010年のインタビューで、「『アンダーカレント』や『インター・モデュレーション』を録音したときに、コンセプトを明確にするためのリハーサルをしたか」を訊かれると、それを否定し、「一度か二度、エヴァンスのアパートに行って軽く打ち合わせした程度だった」と答えた。「打ち合わせ」と訳した英文は go over
で、「チェックする」くらいの意味である。
 この発言からは、打ち合わせがあったのが、第一回セッションの前だったのかあとだったのかは、はっきりしないが、もはや関係者は全員他界し、確認のしようもない。
 第一回のセッションでは3曲が取り上げられたが、完成したアルバムに収められたのは、最後に演奏した1曲「アイ・ヒア・ア・ラプソディ」だけだった。ボツになった2曲(「星へのきざはし」と「ぼくはセンチになったよ」)は1988年にブルーノートから発売されたCDのボーナス・トラックとして初めて公開されたが、それを聴くと、ふたりのインタープレイはまだ不発で、あいだに隙間を感じさせる。
 それが、第二回のセッションでは互いの隙間に相手を呼び込みながら陰陽太極図のような重なりを見せるようになっている。この変化を見ると、「打ち合わせ」は、3週間も離れたふたつのセッションのあいだにあったのではと想像したくなってしまう。
 5月のセッションでは全部で5曲、7テイクが残された。4月に演奏された3曲は、どれも第二次大戦前のスタンダードで、ジャズや映画が好きなアメリカ人なら知っているような曲だったが、第二回のセッションでおきた変化は、この日の選曲にも見ることができる。
 5曲のうち、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」「ダーン・ザット・ドリーム」の2曲は、第一回セッションを引き継いだスタンダード・ナンバーである。これは完成したアルバムのトップとラストに置かれた。
 それから、ミステリアスに展開するワルツ「ドリーム・ジプシー」。この曲については、ジュディス・ヴィーヴァースという作曲家の来歴も含め、何ひとつ情報がない。

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ジョン・ルイスの影

『アンダーカレント』の本質を読み解く鍵は、残りの2曲、「スケーティング・イン・セントラル・パーク」と「ローメイン」に籠められている。
 ここでもう一度、エヴァンスとホールの共演歴を確認したい。ふたりの最初の出会いは、ハリー・ベラフォンテ主演、ロバート・ワイズ監督の映画『拳銃の報酬』(原題『Odds Against Tomorrow』)の音楽録音セッションだった。作曲者のジョン・ルイス(1920年5月生〜2001年3月没)は、言うまでもなく、モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)のピアニストである。
 ルイスは、この日スタジオでオーケストラの指揮に回り、代わりにピアノを任せたのがエヴァンスだった。その22人編成のオーケストラのなかにジム・ホールもいた。そして、このセッションで演奏した曲のひとつが、「スケーティング・イン・セントラル・パーク」だった。
『アンダーカレント』録音セッションで、「スケーティング・イン・セントラル・パーク」は一番最後に演奏され、あっさりとワン・テイクで完成した。エヴァンスは、ジョン・ルイスを真似てポツポツと間を開けた単音で旋律を弾き、ルイスへの敬意を表している。
 もう1曲の「ローメイン」はジム・ホールの作品だが、初演(初録音)者はモダン・ジャズ・カルテットだった。アルバム『ピラミッド』(アトランティック)のラストを飾っている。録音日は1959年8月で、『拳銃の報酬』セッションのわずか1か月後。「ローメイン」はそもそもジョン・ルイスがジム・ホールに委嘱した曲だったのかもしれない。ジョン・ルイスはジム・ホールをとても気に入っていて、多くのセッションに呼んでいた。
『アンダーカレント』に収められたヴァージョンでは、テーマのあと、まずホールがソロをとる。続いて、MJQ風の対位法によるふたりの絡みがあり、その後にエヴァンスがソロを弾く。
 このように、「ローメイン」と「スケーティング・イン・セントラル・パーク」は、ジョン・ルイスという共通分母を有する曲であることが明らかになった。さらに、共演リストからはもうひとつの可能性も見えてくる。
『拳銃の報酬』の次にふたりが共演したのは、アルバム『ジャズ・アブストラクションズ』のための録音セッションだった。このアルバムは、1960年12月19日と20日の2日間で録音され、ジャケットのトップには「ジョン・ルイスが送る現代音楽」と大きく謳われている。
 ところが、ジョン・ルイスは演奏はしていないし、20日にはスタジオにもいなかった可能性が高い。というのも、この日はセッションがダブルブッキングになっていて、ルイスは『ジャズテットとジョン・ルイス』(アーゴ)の録音セッションにコンダクターとして参加していたのである。
 19日に録音されたのは「アブストラクション」「ギターと弦楽器のための小品」の2曲だが、どちらの曲もピアノ・パートはない。しかし、ジョン・ルイスがダブルブッキングになった20日はピアニストが必要だった。スタジオはふたつともニューヨーク市内だったので、ルイスが時間をずらして両方のセッションに立ち会った可能性は残るが、20日に『ジャズ・アブストラ
クションズ』の録音セッションに呼ばれてピアノを弾いたのがビル・エヴァンスだった。
「アブストラクション」の導入部では、ホールを含む7人の弦楽器奏者たちが演奏している。彼らは短い断片をやりとりしながら、やがてオーネット・コールマンやドラムスを含んでリズミカルな合奏に入っていくのだが、面白いことに、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」のホールによるオブリガードは、「アブストラクション」で彼が見せた現代音楽っぽい旋律の切断と対位法的な受け渡しを彷彿させるのである。
 念のために言っておくと、エヴァンスは「アブストラクション」には参加していないし、ましてや、ふたりが、「『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』のテーマは『アブストラクション』でいこう」と打ち合わせたなどと主張したいわけではない。それは、いくらなんでも度が過ぎている。
 とはいえ、少なくとも、ビル・エヴァンスとジム・ホールの1回目と2回目の共演をお膳立てしたのはジョン・ルイスであったことと、3回目の共演になった『アンダーカレント』の5曲中少なくとも2曲がジョン・ルイスにゆかりのある曲だということは抜き差しならない事実である。(4回目の共演盤である『インタープレイ』のベーシストは、モダン・ジャズ・カルテットのパーシー・ヒースだが、それは数える必要がないだろう。)
 そもそも、『アンダーカレント』のような、いわゆる「室内楽ジャズ」と呼ばれるジャンルを、1950年代に確立したのがジョン・ルイスその人であったことを忘れるわけにはいかない。人によっては、「ドリーム・ジプシー」で滑らかな強弱の増減を繰り返すジム・ホールの名技に、ミルト・ジャクソンへのオマージュを感じることもあるかもしれない。
 ホールは1991年のインタビューで、「『アンダーカレント』や『インター・モデュレーション』を作る前から、ぼくはビルの演奏に影響を受けていた。やってみたら、ぼくらは簡単に合わせられることがわかった」と語っている。そのふたりを引き合わせ、ふたりが共有する音楽の背景を与えたのが、ジョン・ルイスであった。『アンダーカレント』は、ジョン・ルイスという名の影に覆われた作品だと言っても過言ではない。(なお、エヴァンスは亡くなる5か月前にハーヴァード大学のサンダース劇場で開いたコンサートのなかで、ルイスと3曲のピアノ・デュオを演奏している。)

ビル・シュワルトウ

『アンダーカレント』が録音されたサウンド・メーカーズは、この前年の1961年1月にマンハッタンにオープンしたばかりの新しいスタジオだった。チーフ・エンジニアはビル・シュワルトウ(1926年生〜1985年没)という。彼の前歴は、かのフィル・ラモーンが1959年にA&Rレコーディング・スタジオをオープンしたときのチーフ・エンジニアだった。シュワルトウがA&R在籍時に手がけた有名な録音には、レイ・チャールズやミルト・ジャクソンのアトランティック盤がある。
『アンダーカレント』を製作したレーベル、ユナイテッド・アーティスツは、もともと同名の映画会社がサントラ盤を発売するために設立した会社である。前述した『拳銃の報酬』も、ユナイテッド・アーティスツが配給した映画だった。
 ユナイテッド・アーティスツ・レコードは、当初からジャズ録音にも積極的だった。エヴァンスが参加した、アート・ファーマー『モダーン・アート』やボブ・ブルックマイヤー『アイボリー・ハンターズ』をはじめ、ミルト・ジャクソン『バグス・オパス』、アイリーン・クラール『バンド・アンド・アイ』などのレコードを製作した。
 これらのプロデュースはジャック・ルイスが担当したが、1962年のある時期、ユナイテッド・アーティスツでは、アラン・ダグラス(1931年7月生〜2014年6月没)がプロデューサーとして一連のジャズ・レコードを製作した。『アンダーカレント』も、そのなかの1枚だった。
 ダグラスは、のちに1970年代半ばから20年間、ジミ・ヘンドリクスの未発表音源を様々な編集盤として出したことで悪評を買ったが、1960年代は、このあともFMレコードやダグラス・レコードで、エリック・ドルフィーやジョン・マクラフリンのアルバムをプロデュースしていた。また、1969年には、マイルス・デイヴィス、ジミ・ヘンドリクス、ポール・マッカートニー、トニー・ウィリアムズというカルテットでレコードを作ろうと動いたこともあった。(これはポール・マッカートニーが休暇中だったために返事がなく、実現しなかった。)
 ダグラスがプロデュースし、シュワルトウが録音したユナイテッド・アーティスツのディスクには、ほかにデューク・エリントン『マネー・ジャングル』、ケニー・ドーハム『マタドール』がある。
 しかし、シュワルトウのサウンド・メーカーズ録音では、ジャズではないが、アルバート・グロスマンをプロデユーサーとして、ワーナー・ブラザース・レコードが出したピーター・ポール&マリーの一連の録音の方がはるかに有名だろう。
 ピーター・ポール&マリーは言うまでもなく、「花はどこへ行った」や「パフ」で知られる、3人組フォーク・グループである。彼らの初期のアルバム3枚『ピーター・ポール&マリー』『ムーヴィング』『イン・ジ・ウィンド』は、サウンド・メーカーズで生まれた。
  ピーター・ポール&マリーのピーター・ヤーロウは、近年、これらデビュー当時の録音を振り返って、次のように述べた。
 スリートラック・レコーダーは技術的な制約が大きく、現代のようなダビングの繰り返しは不可能だった。しかし、そんな昔の録音にも恩恵があった。「大切なのは、スタジオの演奏が、現実のライブで客を前にしたときと同じ種類の興奮を感じさせたことだった」「初期のスリートラック録音では、今日のように多層的に、あの声とこの声を重ねるとか、ストリングスをオーバーダブするとかいうのは無理で、テイクの編集に頼るしかなかった」「ビル・シュワルトウは編集の天才だった。シュワルトウは卓越したエンジニアで、フィル・ラモーンの先生でもあった」
 シュワルトウが編集の名人だったことはほかにも証言がある。彼が編集したマスターテープを実際に手にした人は、そのつなぎ目を聴いても、編集の痕跡がまったく感じ取れないことに驚嘆したという。
 プロデューサーのグロスマンは、ピーター・ポール&マリーの3人の声を真ん中に集めるのではなく、ステレオの左中右に広げて並べることを提案した。「その結果、初期の(引用者注:シュワルトウが録音した)レコードでは、3人のあいだを歩くことができるようなサウンドになった」
 ピーター・ヤーロウはシュワルトウの録音には「ライブ的な性質」があると言ったが、それこそが真骨頂にほかならない。数年前にオーディオ・フィデリティからSACDとして再発されたファースト・アルバムと『イン・ジ・ウィンド』(ともに廃盤)では、その驚くべきサウンドが実感できる。スタジオ空間と3人がそこにぽっかりと現れるような感覚は、ゾクゾクするほど圧倒的だ。

揺れ動く低音

 だが、それに比べ、『アンダーカレント』の録音は問題が山積みだ。そう考える人は多いだろう。
『アンダーカレント』は、コレクター泣かせで有名な一枚でもある。オリジナルのユナイテッド・アーティスツ盤を聴いても、ステレオだろうがモノだろうが、再発盤より少しはましな程度で、のっぺりと平面的な音はあるべき迫力に欠けている。
 おまけに、いわゆる「耳」マーク(筆記体のP=ブルーノートと同じプレス工場のサイン)のある盤は、サックス・ラベルだろうと黒ラベルだろうとノイズと歪みがつきまとう。「耳」がなくても、プレスティッジの一部の紫ラベル盤のようにノイズまみれの盤もある。
『アンダーカレント』でシュワルトウは録音をしくじったのだろうか。
 そうではない。ダイナミックなピアノと呟くようなギターの組み合わせが録音エンジニアにとっていかに難物であろうと、シュワルトウは『アンダーカレント』を目をみはるようなサウンドにしてみせた。
 しかし、その真価の全貌を聴くには、オリジナル盤でも再発盤でもなく、1986年に東芝EMIが世界に先駆けて出したCDを、大型の良質な装置で聴く必要がある。しかも、フルボリウムで。
 デジタルに変換された『アンダーカレント』のマスターは、少なくとも3種類が存在する。まず世界で初めてCD化された東芝EMIの1986年リバティー盤。次に、マルコム・アデイ(エヴァンス晩年のヴィレッジ・ヴァンガード・ライブを録音したエンジニア)による1988年ブルーノート盤。そして、ロン・マクマスターによる24ビット・リマスタリングの2002年ブルーノート盤。
 後二者は、それぞれのマスタリング・エンジニアがオリジナルの3トラック・マスターから新たにデジタルの2チャンネル・マスターを製作したことが明記されている。ほかにもいろいろあるかもしれないが、それらは後二者のいずれかを基にしたヴァリエーションのはずだ。
 3つのCDのなかでも、1986年盤の音は、文字通り次元が違う。異常と呼んでもいい。演奏が始まると、楽器の音もさることながら、スタジオの巨大な空間がさあっと目の前を覆い尽くし、空気がグラグラと揺れ動き、地震か津波のようにリスナーをぐいぐいと圧迫する。特に5月セッションの5曲に顕著で、「ホログラフィックに揺れ動く空気」という、世にも珍しい音響を聴くことができる。
 振動と風圧が遠慮なく押し寄せるなか、エヴァンスの弾くピアノは中央の奥で左右にどっしりと広がる。低音域が右、高音域が左から聞こえる。その前方中央に、ジム・ホールがいる。ギターの胴体の厚みとそこから生まれる共鳴。弦の共振。柔らかでスイートなトーンが、ピシリと決まったギターの音像から活き活きと送り出される。
 乗り物酔いに弱い人がこのCDを聴くときには、比喩や冗談ではなく、嘔吐に備えた用意が必要になる。もちろん、低域が十分に再生される装置が前提だが。マルコム・アデイやロン・マクマスターがこの異常な大量の低音をマスタリングで切ったのも当然の処置だろう。なぜなら、これは常識的には立派なノイズ以外の何ものでもないのだから。
 そこからは、オリジナル盤の音がなぜ冴えないのか、その理由も見えてくる。1962年にこのレコードのカッティングを担当したエンジニアは、カッティング・マシンの前で、さぞかし頭を掻きむしったことだろう。こんなマスターテープが回ってきても、当時のレコード・カッティング技術と機材では、低音も高音もバッサリと切り捨てるほかに選択肢はない。そして、その結果、バランスを致命的なまでに失った音が残るのは必然だ。かわいそうなカッティング・エンジニア!

水の音楽

 ところで、『アンダーカレント』の幻想的なジャケット写真は、収められた音楽とあまりに完璧な調和を見せている。しかし、この写真は『アンダーカレント』のために撮られたオリジナルではなく、ファッション誌に載った古い写真の流用だった。初出は「ハーパーズ・バザー」1947年12月号で、女流カメラマンのトニ・フリッセル(1907年3月生〜1988年4月没)が撮影した。彼女がこの作品にあたえたキャプションは、「真夏の夜の夢」といった。

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ビル・エヴァンス&ジム・ホール『アンダーカレント』ジャケット写真

 彼女は亡くなる前に、多くの自作の著作権を放棄したので、この写真も今日では許可を得ずに使うことができる。近年多くの本やレコードに、この写真が時には改変されて用いられているのはそのためである。
 トニ・フリッセルが写真を撮影した場所は、フロリダ州に今もあるウィーキー・ワチー・スプリングス・ステート・パークという公園だった。水泳興行師のニュート・ペリー(1908年1月生〜1987年11月没)が道路沿いに、泉を覗くことのできるアトラクション小屋を建て、人魚の扮装をしたスイマーが空気の出るゴムホースで息を継ぎながら泉のなかで踊るショーを始めたのは、写真が撮られたのと同年だった。写真で水中に浮かんでいるモデルも「人魚」のひとりなのかもしれない。
 また、光と水の揺れを描写した裏ジャケットは、ユナイテッド・アーティスツ・レコードのアート・ディレクターをしていた画家のフランク・ゴウナの作品である。ジャケット全体のデザイン担当には、彼とアラン・ダグラスの名がクレジットされている。
 このようなデザインから「暗流」や「意識下」を意味するタイトルにいたるまで、このアルバムに「水」にまつわるイメージをあたえたのは、アラン・ダグラスだったと見て間違いないだろう。
「それこそは、ダグラスがスタジオでシュワルトウの録音したマスターテープを聴いたからだ、あの驚くべき低音の動きに湖底の水の揺らぎを連想した結果にちがいない」。そう言えれば話は手っ取り早いのだが、現実には、当時のスタジオのモニター・スピーカー(おそらくアルテック)の性能で、あの深海を思わせる振動とその動きが再現できたかと考えると疑わしい。とい
うより、間違いなく無理だった。
 現実はその逆なのだろう。ダグラスとシュワルトウは、スタジオでホールとエヴァンスの幻想的で沈思的な演奏を耳にした。その演奏が、ダグラスにフリッセルの写真を選ばせ、シュワルトウに、暗流渦巻く海の底を思わせる立体的大空間を収録させた。
 おそらくシュワルトウは、自分がこんな低音を記録したことに自覚がなかったとさえ思われる。彼は低音を記録しようと考えたのではなく、ビル・エヴァンスとジム・ホールのあいだでエンパシーが飛び交うその場(スペース)を収録しようと考えた。その帰結として、半ばアクシデントのような巨大な低音が入る結果になったのだろう。
 だが、原因はいずれにせよ、1962年当時のレコードにこんな低音を入れるのは技術的に絶対に無理だった。仮に可能だったとしても間違いなく針飛びを誘発するので、商業的に許されるわけもなかった。そんな意識下の暗流で終わるはずだったサウンドが、CDの無邪気なマスタリングを通じて、図らずも現実の音として剥き出しになってしまった。これは、そういう事件である。
 とはいえ、十分な低音が再生できる現代のオーディオシステムでその音を愉しむことには、もちろん何も問題がない。
 水の音楽といえば、ジョン・ルイスが『拳銃の報酬』以前、初めて音楽を手がけた映画は、水の都ヴェネチアを舞台にしたロジェ・ヴァディム監督の『大運河(グランド・カナル)』(1957年)だった。その演奏は、モダン・ジャズ・カルテットが担当した。ヴァイブラフォンをフィーチャーした室内楽ジャズのクールな感触に、ヴァディムは水との親和性を求めていたのかもしれない。
 なお、『アンダーカレント』1986年版CDに収録されているのはレコードと同じマスター・テイクの6曲のみで、「星へのきざはし」などのボーナス・トラックや別テイクはひとつも収録されてはいない。CDはたった30分で終わる。
 1988年盤CDは、ふたつの別テイクをマスター・テイクに並べて置き、未発表曲2曲を途中に挿入しているが、かと言って、10トラックは録音順に並べられているわけでもない。さすがに批判があったのだろう、2002年盤CDでは、ボーナス・トラックはマスター・テイクが終わったあとにまとめて置かれるようになった。

悪名

 サウンド・メーカーズ・スタジオでエヴァンスが『アンダーカレント』を録音したのは、ラファロの事故から9か月が過ぎ、立ち直りつつある時期だった。その半年前にエヴァンスはトリオの新たなベーシストにチャック・イスラエルを迎えたが、エヴァンスはなかなかこのトリオで録音スタジオに入ろうとはしなかった。
 エヴァンスがスタジオ入りを渋ったのは、トリオの成熟を待つという音楽上の理由だけではなかったはずだ。リヴァーサイドが1956年にマンデル・ロウの紹介を通してエヴァンスと契約したとき、エヴァンスは一般には、まだ無名のピアニストに過ぎなかった。しかし、1958年にマイルス・デイヴィスのコンボに加入したことで、エヴァンスは一躍大きな脚光を浴び、その結果、人気と待遇のあいだには深刻な溝が生じることになった。
 当時のアメリカで、マイナーレーベルが録音セッションでリーダー・アーティストに支払うギャラは定額制で、サイドメンの時間給はジャズ・クラブの出演料といい勝負だった。しかも、スタジオで時間を超過して演奏しても、その分の払いなどなかった。それどころか、レコード会社が、宣伝費やスタジオ使用料や、時には制作費などあれこれ名目をつけて経費を増やし、アーティストへの支払い額を減らすのは日常茶飯事だった。信じられないことに、レコード録音をしたら、ギャラを貰うどころかいつの間にか借金が出来ていた、そんな事態も珍しいことではなかった。
 この点では、ブルーノートもプレスティッジも大した違いはなく、ミュージシャンに十分な支払いなどはしていなかった。それでも、リヴァーサイドがなかでも悪名高かったことはその界隈では知られていた。
 リヴァーサイドは、ミュージシャンへの支払いが渋いだけではなかった。たとえば、ヴィレッジ・ヴァンガードにいるエヴァンス・トリオの有名な写真がある。3人がテーブルを囲み、その横でオーリン・キープニューズがドリンクの注文を帳面につけているが、あれは、3人が注文したドリンクや食事の代金を経費としてギャラから差っ引くために記録していたのだった。しかも、帳面は二重帳簿になっていて、ミュージシャンは実際より高い払いをさせられる仕掛けだった。
 こんな有様なので、一般論としても、マイナーレーベルに所属していて儲けることができたのは、腕のいい弁護士を雇えるスター・プレイヤーくらいだった。当時この悪習に加担しなかったレーベルのオーナーは、ノーマン・グランツなどきわめて例外的にしかいなかった。かと言って、RCAやコロムビアのようなメジャーレーベルは、基本的にモダン・ジャズに関心がなかった。マイルスがコロムビアと30年間の長きにわたって契約を更改し続けたのは、まさに例外中の例外だった。
 エヴァンスがラファロの死後、なかなかリーダー・アルバムを作らなかったのには、こんな環境に嫌気がさしていたことがあったとしても不思議ではない。
 それでも、エヴァンスはサウンド・メーカーズのピアノや設備にとても満足したようだった。『アンダーカレント』の録音を完了した3日後、彼はトリオの復帰セッションのため、再びサウンド・メーカーズを訪れている。さらに、月末の29日と翌月5日にサウンド・メーカーズで録音を続け、『ムーンビームス』『ハウ・マイ・ハート・シングス』という2枚のトリオ・アルバムを完成させた。
 エヴァンスはそのあと、7月にはトミー・ノラ・スタジオで『インタープレイ』、8月には未発表に終わった『ルース・ブルース』と、リヴァーサイドの録音セッションを矢継ぎ早に続けた。
 この反転した動きは、ひとつには、キープニューズもはっきりと指摘していたように、エヴァンスがヘロインを買うためにどうしても現金が必要になったからだった。ちなみに、『アンダーカレント』から『ルース・ブルース』までの5タイトルのうち、トリオ・アルバムを除く3タイトルすべてにジム・ホールが参加しているのは目を引く。
 録音を量産し出した理由はもうひとつあって、エヴァンスにリヴァーサイドとの契約枚数を早く消化する必要が生じたためでもあった。それ以前からエヴァンスは、インパルスのセッションで知り合ったプロデューサーのクリード・テイラーに公然と接触し、テイラーが当時運営していたヴァーヴへの移籍を画策していた。『インタープレイ』と『ルース・ブルース』セッションのあいだには、早くもヴァーヴへ録音を始めていた。
 まもなく、ヴァーヴとリヴァーサイドのあいだで話し合いがもたれた。結局、ヴァーヴはエヴァンスの契約の残りを金銭で買い取り、11月にはさっそく、録音済みの『エンパシー』を、エヴァンスが「リヴァーサイドのご厚意により出演」する形で発売した。
 リヴァーサイドには、翌1963年のうちにアルバムをあと2枚録音する権利が残った。キープニューズは、2枚のうち1枚は、あのヴィレッジ・ヴァンガード・ライブの続編という思いを籠め、当時のレギュラー・トリオのライブ盤に。もう1枚は、まだ作ったことのなかったソロ・ピアノ・アルバムにすることを決めた。
 前者は5月に録音された『アット・シェリーズ・マン・ホール』となり、後者は、1月に録音は終えたものの未発表に終わった。後者のスタジオは再びサウンド・メーカーズで、録音ミキサーはシュワルトウだった。このセッションが陽の目を見たのは1984年で、エヴァンスのリヴァーサイド全録音を集めたコンプリート・ボックスに収められていた。

暗流

 1963年12月、リヴァーサイドの経営者であったビル・グロウアーが心臓病で急死すると、1964年夏、レーベルは任意破産に追い込まれた。カタログはABCレコードが引き継ぎ、キープニューズはその後の数年間をフリーランスのプロデューサーとして過ごした。
 1964年には、サウンド・メーカーズ・スタジオも歴史の暗流に飲み込まれた。この年に出た数枚のレコードを最後に、ビル・シュワルトウとサウンド・メーカーズ・スタジオの消息はふっつりと途切れている。
 不思議に思って訊き回ったところ、あるアメリカの著名な録音エンジニアから情報が寄せられた。当時シュワルトウはまだ30代半ばだったが、酒を手放せず、重度のアルコール依存症になってしまった。とうとうスタジオの仕事を続けられなくなり、ついにホームレスとして生涯を終えたという。

※転載にあたり、画像を追加しています。

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〈書誌情報〉

ジャズの秘境

『ジャズの秘境
今まで誰も言わなかったジャズCDの聴き方がわかる本』
嶋 護=著
四六・並製・424ページ
定価(本体2,200円+税)
ISBN: 978-4-86647-112-9
https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK269

優秀録音はあなたのすぐそばに眠っている――

ビル・エヴァンス最期の日々を追いながら、マスタリングによる音色の差異を喝破する〈絞殺された白鳥の歌〉ほか全16章を収録。
録音作品の「外の世界」への想像力をかきたてる“耳”からウロコのジャズ/オーディオ・アンソロジー。
故・菅野沖彦氏(オーディオ評論家)への追悼文も収録。

《目次》
絞殺された白鳥の歌――ビル・エヴァンス最期の日々~『コンセクレイション』『ザ・ラスト・ワルツ』
深海の二重奏――ビル・エヴァンス&ジム・ホール『アンダーカレント』の暗流する低音
ルディ・ヴァン=ゲルダーとロイ・デュナンは間接音にいかなる対処を試みたのか――知られざる録音史の探究
一休み、一休み――録音スタジオの最高峰、サーティース・ストリート・スタジオとフレッド・プラウトの名技が生んだ『タイム・アウト』
ストレイト、ノー・チェイサー、バット・リミックス――装置の限界に挑戦。セロニアス・モンクとスタインウェイの鬩ぎ合い
ゼロ年代版『カインド・オブ・ブルー』?――21世紀を代表するSACD
ライジング・スター・フロム・フクイ――あなたはユウコ・マブチを知っているか?
カナダからのオファー――ポール・デスモンド晩年の冒険
ウィー・リメンバー・ボックスマン――レイ・ブライアントの隠れた宝物
ノーマン・グランツをめぐるワン、ツー、スリー――フレッド! エラ!! オスカー!!!
パリの二分法――バルネ・ウィランの優秀録音を見分けるには
ジャズとマフィアと戦闘機――baaaadなテナー・プレイヤー、ボブ・キンドレッドの優秀録音
モーションからエモーションへ――セシル・テイラー・ファン必聴のスーパー・セッション『ネイルド』
ビル・エヴァンス:ファースト・トリオのベストCDを探る
ルディ・ヴァン=ゲルダー/シグネイチャー・サウンド――ルディ・ヘイツ・ヴァイナル?
「長々と説明をありがとう」~あとがきに代えて

著者略歴
嶋護(しま・もり)
群馬県出身。音楽全般やオーディオについての執筆と翻訳を手がける。著書に『菅野レコーディングバイブル』『クラシック名録音106究極ガイド』『嶋護の一枚』、訳書に『JBL 60th Anniversary』(以上ステレオサウンド刊)など。

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