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愛しいネガティブなエネルギー

 ポジティブなことを話すような人間じゃない。
 世の中には悪意が満ちているように感じてしまう。それと同じくらいに善意もあると知ってはいても、悪意を敏感に察知してしまう。きっとそういう性質なのかもしれない。そのおかげで自分への悪意を回避できているのかもしれないけれど、最近は嫌なニュースを見すぎて疲れてしまったようなところがある。
 でも、たとえばドラマに悪役が登場することは嫌いではないから不思議だ。ネガティブな漫画もどちらかというと好き。どうやら創作物であればネガティブ要素も許されるみたいだ。

 多分、その悪意に理由や背景、物語が見えてくるかどうかというのは重要なのだろう。悪いニュースに対して、いつも「どうしてだろう?」という疑問が湧くけれど、どれだけ調べてもその答えは無いし、報道では語られない(そもそも知らないのだから当然か)。
 とは言うものの、明確な答えが知りたいわけではない。知りたいのは、人の空気感というか、感情が湧き上がる瞬間や防衛反応とか、そういうやつ。息をしているかどうか、かもしれない。その点で言うと、報道の中の嫌な人には息遣いを感じなくて、だから嫌なのかもしれない。まるで機械的に悪いことをしているかのように感じてしまう。
 事実しか報道されないというのはこういった側面がある。誤解が無いように事実しか言えないのかもしれないし、矛盾した葛藤は人には理解されないから聞いてもらえないのかもしれない。けれど、丁寧にそんな一つ一つの葛藤を僕は聞いておきたいから、そういうものを教えてほしい。それが聞けないのなら、広く報道なんてしないでほしい。

 何を面白いと感じるのか、人によって違うから不思議だ。あからさまな強者の悪意は何も面白くないのに、弱者の悪意(防衛本能?)は愛しいとすら思う。
 中高生の愚かな行為を大っぴらに否定する人がいるけれど、正直やめてほしい。愚かな行為をするような時期だし、そこに潜む葛藤がこれからの自我を作っている。
 けれど同時に、その人たちと深く関わりのある人は、その子達を否定するなり、諭すなり、見守るなりしてほしい。道を間違わないように、間違っても正すなり、偽善ぶって嫌われるなりしてほしい。
 たった一瞬で極端に変化してしまう心を、ただそばで見守るような人がいてほしい。

 はっきり言って、思春期の戯言に付き合うのなんて面倒だ。損しかない。
 だからそんな時期の子に近づいてくる大人なんてその若さを搾取するような人間ばかりだと思う。そんな気がする。戯言を甘言で受け入れて、心を許させて、体を許させる。
 自分がめんどくさい人間だと自覚があるのなら、その状態の自分に近づいてくる大人をあまり信用しないでほしい。ましてやその葛藤や面倒な部分を耳障りの良い言葉だけで全て受け入れるような大人はだめだ。フラットに、否定と肯定の両方を持っている人がいい(否定だけのやつもただのポジショントークかマウントだからやめた方がいい)。

 僕は、いまだに戯言を言う立場から抜け出せないでいるのだけれど、こんな人にも近づかない方がいい。いい加減もういいだろうというのに、まだくだらないことを考えているなんて、ろくなやつじゃない。さっさと大人になれよと思う。フラットな意見を言えるようになれよと思う。
 僕は、おそらく戯言に肯定しつつ、でも大人気なく、その内容に違うと思ったら否定するのかもしれない。自分の中で腑に落ちていないことを受け入れることはできないから、違いを許すことはできない。
 でも、聞かせてほしいとは思っている。受け入れられないくせに、わがままだけれど、一つずつ知りたいとは思ってしまう。少なくとも「人を殺したんだってね。最低な人間なんだろうな」と言うような人にはなりたくない。できれば「それはどういうこと?」と聞いてみたい。
 本質的には理解し合えない存在同士だけれど、ゆっくりと、苦い顔をしながら咀嚼することはできる気がするし、それをしないのは気持ちが悪い。

 自殺してもいいはずなのに。人を殺してもいいはずなのに。自由に歌ってもいいはずなのに。暴れ回ったり、走り回ったり、そんな内側の衝動や欲求はどこにいくのだろうか。たまにそんなことを考える。

生きているだけでいいや。