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政治・宗教や姓について話にくいとされている風潮はどこから来るか(後編)


こんにちは。

サービス開発・会社起業にむけて活動中のてつおです。

同タイトルの前回記事からの続きになります。併せてどうぞ。

まず自分なりの結論から書かせていただこうと思います。
(文字で全てを伝えようとすると、思ったより長くなりそうだし、読んでる方もしんどいかななんて思いまして。
でも端折って書くと違ったニュアンスで伝わるとちょっとななんて二律背反的なマインドでお届けします。)

結論:何が間違いで何が正解なのかというジャッジをくだそうとし過ぎ。
   見る立場やタイミングでも捉え方は変わるという事を前提に議論
   し続けていく状態が正常だと定義する。

日本の決められた事をしっかりやる。
決められた答えを求める。
という今までの教育がそうさせているのかなと仮定してます。

誰が何を信じているかは基本的に自由だし
明確な正解なんて無いと思ってます。

それこそ、自分から見た正解なんて誰かからみたら
「そんなの甘いよ。間違ってる。」
といわれてしまうかもしれない。

大事なのはそう言われても良いと思える事。

この考えが絶対に正しい!
とは思わずに、

「今のところ自分はこれが正しいと思っているけど、もしかしたらもっと良い考え方や正解に限りなく近い形はあるのかもしれない」

こう考える事で第三者からの意見も柔軟に取り入れる事ができるスタンスを保ちつつ、
「議論し続ける状態が正解に近づく唯一の方法」
と定義する事が良いと自分は考えています。

いまのところ、この考えで大体の事は上手くいくのでは
と思ってます。

しかしまぁこの考え方もある事象の時は正しくない場合もあるかもしれませんし、時代が変わればまた捉え方が変わるかもしれません。

それでいいんです。

反対意見が出る事こそがいいんです。

議論する事を恐れない世の中。

これが正解だと決めつけて、誰かが誰かを叩く事が無くなる世の中。

そんな理想を思い描いてます。

以上。ではまた。

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