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「ニート」に学ぶ別れの流儀

さびしさは痛切ではなく、花の香りのように仄かに漂っていて、見つめようとするとたちまち色褪せるのだった。

これは、絲山秋子さんの「ニート」という短編小説(の続編の「2+1」という短編)のクライマックスに出てくる一文である。
私はこの一文を読むたび、絲山秋子という人の圧倒的な凄さを痛感するし、プロの物書きの方と自分との差を感じて唸ってしまう。この美しさ。さびしさを、花の香りに例えるなんて。

誰か大事な人との別れを経験した後、さびしいという気持ちを抱きながらも、仕事があって、生活があって人との関わりがあって、頭のどこか片隅にさびしいという気持ちはずっとあるけれど、例えば一日の終わりに、そのさびしさと向き合おうとしても、いざ見つめると不思議と輪郭がぼやけてしまう。それを自ら言葉にしたことはなかったけれども、こうして第三者に表現してもらうことによってその感情は姿を現し、その共感に、救われる。

「ニート」という小説は、文字通り、ニートの男性が出てくる。主人公である小説家の女性が、生活が困窮して行き詰まってしまったニートの男性を経済的に援助する。そしてその続編の「2+1」では、経済的に援助したにもかかわらずその後また生活に行き詰まってしまったその男性を自分の住むシェアハウスに居候させる話である。
説明だけ読むととてつもなくどうしようもないのだけれど、私にはこの小説が好きすぎて気が狂いそうになる時期が何年かに一度やってきて、今がちょうど何度目かのその時期なのでこれを書いている。

私はずっと、若い頃から、少女漫画みたいな恋愛が出来なかった。付き合う前にきちんと告白があって、誕生日と記念日にはプレゼントをくれるような。泣いて喧嘩しても、ちゃんと仲直りして続けていけるような。付き合っている相手を、家族に紹介できるような。明るい将来を、夢見ることが出来るような。
一度だけ、若い頃不倫めいたことをしていた時期にテレビドラマで不倫の話(ブルーもしくはブルー)を観て、いらいらしてテレビを蹴り飛ばし、当時まだアナログだった小さくて立方体のような形のテレビ(本当に小さかった。16インチくらい。貧乏学生はそのぐらいが分相応だと思って買ったやつだった。)が床に落ちた。ちなみに、壊れなかった。さすが昔のものは丈夫である。今の薄いテレビだったらきっと粉々である。ここは笑うところである。
そんな経験をしてもなお、なぜか私は爽やかで笑顔が素敵で歯がキレイな好青年よりも、くたびれた服を着て変な髪型をして歯並びが悪くて、謎なこだわりを持った、宵越しの金は持たないだの今夜酒が飲めるだけの金が稼げればいいだの言っているような男にどうしようもなく惹かれてしまっていたのだった。(そんなこと言う奴現実にいるの?と思われるかもしれませんがいたんです。)

と、そんな具合に壊滅的に男を見る目がない私はこの小説に出てくるニートの読元君がとても好きなのだった。
主人公と、二人で幸せになればいいのに。と、読んでいる間いつも思う。何度読んでも思う。けれど、そんな甘い話ではないのだ。そしてこの一文。

要するにキミは自分からは手を出さないが据膳は絶対に食うのだ。

良い。もうとてつもなく良い。大好き。どうですか、このだめっぷり。この一文で、「キミ」こと読元君のどうしようもなさがありありと分かる。
キミが据膳を絶対に食うのは、「コーヒーを淹れて飲むかと聞けば必ず飲むというのと一緒」なのだそうだった。けれど分かる、どう考えてもこの人は、女を幸せにしてくれるタイプではない。

記念日にプレゼントをもらうような恋愛が出来なかった私は、幸せなラブストーリーがずっと苦手だった。観たり読んだりしても、共感できなくてただただ辛いだけだった。
そしてそういう、一般的な告白から始まらない男女のあれこれは、常に別れの気配と共にある。いけない恋愛を、始めるのは簡単なのだ。盛り上がるし、楽しいし、幸せだという錯覚も覚える。けれどそれは、どこかで必ず終わらせなくてはいけない。

そんな感じで私が過去の恋愛を思い出す時は、いつも淋しさがセットでついてくる。けれど、実はそれが少し心地良かったりする。それは時間が流れて自分の中で物語になったからだ。
けれど、実際の別れ際はいつも、私はとてもみっともなかった。諦められなくて、往生際が悪かった。

この物語のクライマックスで、読元君は主人公の元を去る。
主人公は最後の夜、狸寝入りをする彼の隣で酒を飲み、さびしさにしらじらと涙を流しこそすれ、次の日、見送りに行った別れ際にビールを一杯だけ奢ってもらい、ホームに登る階段の前で手を振って別れる。大人である。

キミがバッグに荷物を詰めるのを見ながら、自分で思っていたよりずっとキミのことが好きだったことに気がついた。だんだん好きになっていたのだ。でもだんだんに忘れていって元に戻るのだ。そんなことを伝えても何にもならない。

いやそりゃそうだよ。好きになるよ。っていうかはっきり感情に名前がついてないだけでもうずっとずっと好きだったんでしょ!?と、思うけれど、これがこの物語の別れの流儀なのだ。
そしてこの、「伝えても何にもならない」という部分がとても30代的だなと思う。10代の子を描いた青春ものならばここは、「何にもならなくても、伝えたい、この気持ちを!」という風な感じになるところなんじゃないだろうか。
もしかしたらこの主人公だって、どうにもならないと分かっていても伝えずにいられなかった若かりし頃があったのかもしれない。けれどだんだん、相手の気持ちとか、体裁とか今後のこととか色々考えてしまうようになって何も言えなくなるのだ。

なりふり構わず、状況とか相手の気持ちとかそっちのけで、あなたと一緒にいたいと言える若さのなんと素晴らしいことだろう。
けれど私にはもうそんな熱さは無いんだろうと思う。この先生きていくうえで出来ることは、今までみたいなぐちゃぐちゃな別れ方ではなく、かっこよく、美しく別れること。往年の名作映画みたいに。

まあ実際、そんな悲しいお別れは、しなくて良いにこしたことないんですけどね。

#コンテンツ会議 #ニート #絲山秋子 #日記

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