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コロナとネット中傷…問われる「自由」のあり方

大切な命が失われた。守れたはずの命である。それはひとつに、SNSやネット掲示板での誹謗中傷に悲しみ、心をえぐられ、生きていられないほどの苦しみや痛みを受け、亡くなってしまった、ある女性である。そして、もうひとつは、新型コロナウイルス感染症への政府の対応が後手にまわる中で感染し、命を落とされた千人弱の男性や女性である。

その共通点は「自由」の結果に起きた悲劇であり、私たちに「自由」のあり方を問いているということである。

「自由」の副作用

インターネットの登場以来、ネット空間は「自由」であり続けてきた。匿名が担保され、言葉の暴力を行使しても、基本的にはなんの責任にも問われなかった。政府による国民への介入や監視も私たちは拒否してきた。行動履歴の把握や情報の一元管理は「不自由」を招くものとして、ある種のタブーとなってきた。まことに、私たちは「自由」をある種の神聖なる教典として、頑なに守ってきたといえる。

しかし、その「自由」には副作用があり、それは今年に入ってから顕在化することとなった。それが冒頭にあげた2つの事例である。

もし、ネットの匿名性が一部抑制され、ネット空間がある意味で現実空間と同じような形であり、言葉の暴力に必ず責任が及ぶような社会であれば、ひとつの大切な人生は不幸ではなく幸福を手にしていたかもしれない。

もし、簡単な行動履歴や所得といった情報を、一線を引いた上で、ある程度政府が一元管理することができていれば、感染予防策や経済支援策はもっと素早く、効果的になったかもしれない。失われる命はもっと少なかったかもしれないのだ。もちろん、原因は他にもあるわけだが、少なくとも台湾や韓国のような優秀な政治家や行政官が日本に居ても、同じような対処は「自由」主義のこの国ではできなかったであろう。

このように、残念ながら多くの不幸が「自由」の追求の結果に引き起こされている。そして、私たちは彼ら彼女らの不幸に真摯に向き合わなければならない。彼ら彼女らは「自由」の殉教者となることを望んでいたのではないはずだ。そうではなく、一度きりの短い人生における、できる限りの幸せを望んでいたはずである。今「自由」の影で苦しむ人がいるのであれば、それは何とかしなければならないのだ。

一方で「自由」の欠如によって失われた幸福も歴史を見ればあまりに多くあることも忘れてはならない。戦場に行くことを強制させられ、あるいは思想の自由を奪われて、多くの命や幸福が失われたのはわずか70年ほど前のことである。だからこそ、その反省に立って、私たちは「自由」を守ってきたという面もある。

私たちはそのジレンマの中にいるのではないか。今日はこうしたジレンマに陥った日本社会の「自由」のあり方をどのように決着付けるべきか、私なりの答えを主張したい。

「自由」と【自由】

さて、私は冒頭から自由という言葉に必ずカギカッコを付けている。それは「多くの人々がイメージし、そして守ってきた自由は、実は自由ではないのではないか」という問題意識から生じている。さらに簡単に言うと「自由には2つの種類があるのではないか」と私は思うのである。

これまで述べてきた「自由」とは「権力からの自由」あるいは「政府の介入からの自由」であり「政府が何もしないこと」とも言える。多くの人が自由という言葉を聞けば、その「自由」をイメージするだろう。何も私を縛るものはない。まるでたったひとりの無人島生活をはじめたかのような解放的イメージが「自由」という言葉にはある。

一方で、自由にはもうひとつの種類がある。これからはそれを【自由】と表記したい。【自由】とは【自己実現の自由】もっとかみ砕いて言えば【幸福的に人生を過ごす自由】である。これは時に【貧困から逃れて生活する自由】とか【戦争から逃れて平和的に生きる自由】などと細分化される。

イメージとしてはマラソンコースをゴールに向かって自由かつ快適に走れる状況と似ているだろうか。これにはコース整備や警備、給水、あるいは当日に向けたトレーニングなど、様々な周囲の介入が必要であり「自由」ではない。しかし【自由】ではある。

もし【自由】を追求するのなら、時に「自由」は奪われる。両者は一部では共存しうるが、時にトレードオフとなる。

例えば、政府が社会保障や経済から完全に手を引けば、私たちは「自由」を手にする。しかし、それは結果的に格差や貧困を招き、経済不況や少子化などといった形で社会を大きく悪化させ、多くの人々の人生から豊かさや幸福が失われる。【自由】を失うことになるのだ。

もし、政府が警察や防衛力を放棄すれば、政府は私たちに何の強制力も行使し得ない。「自由」である。しかし、そうすれば私たちは犯罪や外国の侵略の脅威にさらされる。【自由】を失うのである。

同じことは冒頭の2つの例にも言えるであろう。「ネット上での言動の完全なる自由」と【誹謗中傷を受けない自由】。「政府の監視や管理からの自由」と【感染症にさらされずに健康に生活する自由】。これらはトレードオフであり「自由」と【自由】のどちらを優先するかが問われる。

【自由】こそ優先するべきではないか

「自由」と【自由】の選択に迫られたとき、どちらを選ぶべきなのか。私は【自由】であると考えている。その理由は単純な話で「自由」に生きることと【自由】に生きることとでは【自由】に生きる方がより多くの者にとって幸福だからである。あまりにも「自由」が欠如していた時代であれば「自由」を手にすれば無いよりは確実に幸福だった。しかし、最低限あるべき「自由」を手にした後は、必ずしもその追求が幸福には繋がらない。

おわりに

人生の目的は「自由」に生きることではなく、祝福と共に生まれ、幸せに過ごし、生まれてきたことに喜びを感じながら死にゆくこと。いわば【自由】に生きることではないだろうか。そして、政治の目的は、国民にその【自由】を保障することではないか。私にはそんな人生観なり政治観がある。

人生の目的は「自由」の殉教者として誹謗中傷に苦しみ死にゆくことではない。【自由】を手にして幸せに生きることである。そして政治はそれを追求するべきだ。

人生の目的は「自由」を追求するあまり感染症に無策となり、その犠牲となることではない。感染症対策に多少の強制力を用い、「不自由」を強いてでも、その脅威を払拭して幸せに、【自由】に過ごすことである。そして政治はそれを追求するべきなのだ。

私たちはあまりに「自由」の意味を狭く解釈し過ぎではないだろうか。そして、それを神聖視してしまってはいないだろうか。最低限の「自由」を守り続けるのは確かに大切なことだ。憲法や秩序が私たちに保障する「自由」は守り続けねばならない。

しかし、それが目的化してはならない。あくまで自由とは私たちの幸福的人生のための手段であり、そのためには「自由」よりも【自由】を優先しなければならない時があるのだ。いや、むしろ、こうした【自由】こそ私たちは最大限追求するべきではないか。

ネットの匿名性の一部制限や感染症対策としての行動履歴の利用、あるいは経済対策としてのマイナンバーの利用が「不自由」を招くものとして問題となっている。確かにそれは「不自由」を招く。しかし、それは【自由】を招くものであり、そのための利用目的において、私は賛成なのである。

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