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なんか、賽の河原で石を積んでいるような気分に。(創作関連の弱音を吐くなど)

割と最近、PCのモニタを4Kに買い替えたんですが、あまりのデスクトップの広さ&鮮明さに、軽くカルチャーショックを受けました(挨拶)。

と、いうわけで、フジカワです。別に全然重要なことじゃないんですが、我ながら「おいぃ?」と思うことがありまして、かつ、自分のブログの方はもう、今日の更新を終えたので、じゃあこっちで、と、安直な。

いえね? 先月28日の記事で、自作の小説の改稿作業について書かせていただきましたよね? あれ、実はその日で終わらなかったんです。

「もうやめよう、もうやめよう」と、思いつつ、週明けも、仕事中に(作業の手は休めずに)延々と小説について考えていました。

内容については、頭からケツまで、ほぼ覚えているので、記憶をたぐる→修正すべき点を見つける→帰宅後、原稿ファイルに反映させる、の繰り返し。もうね、大きなアラから、細かいアラまで、結構な数の修正すべき点が見つかりました。

当然、それらは直していったわけですが、気がつけば、プラス6日間を費やし、枚数も、規定フォーマットで149ページと半分。400字詰め原稿用紙換算で、400枚以上の作品になってました。

いや、自分に暴走癖があるのは承知の上ですが、いくらなんでもやりすぎだろうと思いました。だって、これ以上加筆すれば、最悪の場合、規定上限枚数(150ページ)オーバーで、そもそも応募ができないという、本末転倒な事態に。

ただし、まさに昨日の段階で、本当の本当に、「もういいだろう」と言う気になれました。長かったです。

で。今日はもう、これを書いているのは夜なんですけど、原稿ファイルを開いてません。一応、今月末を目処に寝かせて、忘れた頃にもう一度読み返して、微調整が必要ならやって、さあ、ってところです。

ここでやっとタイトルの話なんですけども、曲がりなりにも前職がプロのライターであった身からすれば、「プロになることとは」の意味も、当然知っています。

プロの世界は、結果が全てです。「これだけ頑張ったから、評価して!」なんてぇ「過程」はどーでもいいんです。

同時に、「自信がある」ことと、「他者からの評価が良い」こととは、残念ながら別です。まるっきり。

要は、僕も必死になって書いて、土台だけ残してイチから書き直す気分で加筆修正しても、洟も引っ掛けられない可能性も、十分にあるわけで。

ただし、これはどなたのお言葉かは失念しましたが、「作家に必要な素質」というのは、「見えない(いないかも知れない)読者に向かって、どんどん書ける人」だという趣旨を聞いたことがあります。

つまり、この程度で折れてるようじゃ、まだまだってことなんですが、一応言い訳を。そりゃあもう、どえりゃあ(なぜか名古屋弁で)大変だったので、少なくとも一次選考は通ってくれなきゃ、極端な話、全否定されたに等しいわけで。

まあ、その程度のことは、社会ではよくある、と、古い友人には言われましたが。

すみません。くどいようですけど、昨日までの1ヶ月と1週間、まさしく必死だったもので、過度に疲れておりまして。そこへ持ってきて、昨日の夜は満足に眠れなかったもんですから、物騒なことを言えば、「砕けろ人類」というやさぐれっぷりなわけで。

まあまあ、別に「何が何でも、デビューできなきゃ困る!」ってほどでもありません。そもそもが「ちょっとした(本気の)腕試し」という姿勢ですから、あんまり気負いすぎて自滅するのも、大変馬鹿らしいことではあります。個人的に。

「ものを書く」(に、限らず、創作する)ってのは、一種の「呪い」だと思ってます。自分で自分に呪いをかけて、解呪方法を必死になって探すのです。そして、その「解呪」ができるのは、他ならぬ自分だけです。

本当に厄介で、下手な違法薬物をキメるより強烈で、中毒性もあって、どうなのよ? と思います。

まあまあ、僕にはもう、打てる手はありません。時が来たら、黙って応募します。締切は、11月8日。さて?

後ろ向きなんだか前向きなんだか、よく分からない記事ではありましたが、とりあえずは「疲れたよ、パトラッシュ」ということで。

んじゃまた。

サポートして頂けると、泣いて喜びます。『打てど響かず』というのが、創作者にとって一番哀しいことでございますので。人助けと思って、よろしくお願いいたします。