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【しろくろ】「フーリガン」、「チャント」…本場の文化を日本サッカーは模倣すべきなのか

本場の模倣から始まるサッカーの発展


日本にプロサッカーリーグが誕生した1993年。急速にレベルを上げた日本サッカー界。選手・監督・スタッフ・審判など、サッカーに関わる様々なものがそのレベルをジャンプアップさせてきた。

同じことがサッカーファンにも言える。サブスクサービスの普及で世界中のトップクラスの試合が手軽に観戦できるようになり、情報化社会の影響で現地の細かな情報まで検索すれば手に入るようになった。

観客のサッカーを見る目は肥え、個人の声がSNSを通じてプレイヤーやサッカー協会に届くようになり、サポーターが競技に与える影響力は日に日に強くなっている。

「日本サッカーを強くしたい」もしくは「応援しているチームを強くしたい」という想いは、サポーターの行動力を高め、時に盲信的にする。

黎明期のほとんどがそうであるように「より高いレベルへ」と願うと、既に発展途上を終えたトップクラスの”本場”を模倣しようとする。

サッカーもその例外ではなく、いまだに戦術やトレーニング法まで最先端を行くヨーロッパサッカーから多くの技術や発想を輸入している。

そしてやはりまた、サッカーファンも同じなのだ。

サッカー文化における「本場の模倣」の”わずかな光”と”多くの影”


「日本サッカーをトップレベルへ」「自チームを世界レベルへ」と願いながら、その憧れのレベルを真似続けている日本サッカー。それは正解なのだろう。

ヨーロッパサッカーでは、大学院でサッカーの研究が学術レベルで取り組まれていて、その時間とお金の掛け方は今から独自に追いつくのは現実的ではない。逆に考えれば、模倣を続けていればいずれ同じレベルに達することはありえない話ではない。サッカーというスポーツにおいては。

ところがサッカーという文化においては模倣の継続は必ずしも正しいものだとは思えない。「本場はこうなのだからこれでいいのだ」という考えは少なくともサポーター文化においては模倣に意味はほとんどないだろう。

わずかな成功例から挙げると、FC東京の『You'll never walk alone』だろう。リヴァプールのサポーター文化を取り入れたサポーター文化は、クラブの文化に変わり、果てはクラブ間の文化交流にも繋がる可能性を帯びている。国内のリヴァプールファンの一部には懐疑的な声もあるだろうが、デメリットはメリットに比べて極めて少ない。

なによりも失敗例だと感じるのは、サポーターの「フーリガン化」だ。熱狂的サポーターと言われれば聞こえはいいかもしれないが、節度を守らないことが美徳と言われてやめられないのは日本サッカー文化における汚点に他ならない。

「本場はもっと酷い」「差別チャントがないだけマシだろう」「ヨーロッパでは死者が出てる」などの意見を振りかざし、初めてサッカーを観に来る「サッカーファンなりかけ」の人たちを排斥することにメリットなんかほとんどない。

クラブに迷惑をかけ、それが結果として選手の迷惑につながる自己満足行為に正当性なんかあるわけがない。

本場と言われるヨーロッパや南米のサッカー文化の中でも、それらは長年の悩みの種であり、汚点なのだ。ないならばそれに越したことはない。

「いいとこ取り」なサッカー文化


イングランド最古のカップ戦FAカップの起源は1872年。その間に世界大戦2回はもちろん、様々な歴史的背景を背負いながら発展を続けてきた。その過程で生まれた確執は応援行為にも影響を与え、現在のアンモラルな部分の誕生に繋がって”しまった”。

日本サッカーのメリットは、100年以上の歴史を持つモデルケースがあったことであり、その情報が引き出しやすい時代がわずか30年足らずで訪れたことだ。良き歴史を取り入れ、悪しき風習は排斥した「いいとこ取り」なサッカー文化を形成しやすいはずだ。

悪しき風習まで模倣をして、自らの長所を自らの手で潰していることに早く気づき、手遅れになる前に正すべきではないだろうか。


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