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【しろくろ】僕の圧倒的な才能の話

学生時代から後学と知見のために記事やブログを読み漁ることが多かった。だから自分の過去を記事にすることがどれほど痛々しくて見てられないかを知っている。

それなのに今から「自分の才能」というテーマに隠して身の上話を痛々しさ全開でお話しすることをどうかお許しください。誰に許しを乞おうかな。誰もみてないしな。仲良かった国語の先生にでも乞うか。先生、ごめんなさい。

”周りの人間に恵まれる才能”

ご覧の通りに、圧倒的文才もギャグセンスもない。容姿は良く言って中の下。学力こそ青山学院大卒ではあるが、親が教育にお金をかけてくれたのとそれなりの時間をかけただけのこと。1教えられて10を学ぶのが天才なら、10教えてもらわないと10を学ぶことができない凡人っぷり。

そんな自分にはどんな才能があるのか。本気で考えた時期があった。

”才能”の自分なりな定義は「特段時間もお金もかけていないのに、誰にも負けないと思える能力」とした。

考えた時に、青春漫画の一コマのように「俺の友達は親戚は日本一だ!」なんて小っ恥ずかしいことを軸にした。それを変形させて自分の手柄に仕立てた時に「周りの人間に恵まれる才能」があるということにした。

男2人兄弟を私立の高校・大学に奨学金無しに進学させ、離婚の危機も経済の危機も無しに育ててくれる両親・親戚の下に生まれたことは、平凡に聞こえるけどひとつ自分の強みだと大人になってから気づいた。

幼稚園から兄弟当然に育った友人、小中高大と親友と呼ぶに恥ずかしくない人が必ずできて、学生が終わってから所属した各コミュニティでも人間関係で困ったことはない。

ここまでだったら珍しい話ではない。特別だと感じたのは、「友達じゃない人」にも恵まれていると知った時だ。

年をとってお金に関わる人間関係が増えるようになって、久しぶりにあった友人たちは職場の人間関係に関わる愚痴を果てし無く吐くようになった。

友人が悪いのではない。友人の主観が入っているだろうから一概には言えないが、その話に出てくる愚痴の悪役たちは、自分がそこに居合わせたら喉輪して壁に叩きつけたいほどに倫理観のぐちゃぐちゃな人ばかりだった。

その件数が増えるにつれて気付かされた。自分の周りにはそういう人がいない。大げさに聞こえるかもしれないが、本当にこれは稀有なことだ。

SNSやYouTubeなど、不特定多数の”アンチ”と呼ばれる人が増えてきた現代。コロナ禍で湧き出てきた奇行を繰り返す奇人の様子を頼んでもないのにtwitterが教えてくれる。

「本当にそういう人っているのか」とおとぎ話が現実だったかのように感じた。コロナのおかげで、人間性が表面化する機会が増えてきたことで、自分の周りが当たり前のものではないらしいことを知った。

「自分の周りの人間はいい人ばかりだ」と「自分は周りの人間に恵まれる才能がある」では、意味合いが若干違う。「現時点ではいい人ばかり」なのと「きっとこの先もいい人ばかり」なのとでは、行動をするときの気楽さが違う。

就職活動をしていた時に、一足先に社会に出た先輩に「楽で楽しい仕事でも、周りの人が悪かったら続かない。逆に周りの人がいい人だったら、つらい仕事でも続けたいと思える。」その通りだと思った。

要は周りの人がいい人だったら、何をするにしても無敵なのだと知った。その上で、自分の周りには今後もいい人だらけだと思った時に、なんでもできると思った。

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