#1 子どもを海外留学させることについて

長女のシニアスクール選びが終わったと思ったら、長男のシニアスクール選びが本格化している。

娘が生まれたばかりの頃、どのように情報を手に入れればいいのかもわからなかったし、ボーディングフェア(ボーディングスクールの採用担当者が来日、ホテル会場等でブースを設置して個別相談にのる機会)に行ってもほとんどシニアスクール(日本で言うところの中学生ぐらいから)で、しかもアメリカの学校が多く、さらにぼくたちはコンサルタントにも相談せずに探していたので何が正解かもわからずにいた。

東京で開催されたボーディングスクールフェアだけでなく、シンガポールで開催されたボーディングスクールフェアにも参加した記憶がある。それでも小学生から入れるプレップスクールをなんとか探し(有名人が通っていた小学校をWikipedia等で調べて連絡をした)、入学までこぎつけた。現在長女と長男が通うボーディングスクールは試験がなく入れる(non-selective)なプレップスクールであったけれど、2人とも学生生活を楽しんでおり、それはそれで偶然に子どもたちと相性のよい学校であったといえる。

最初にボーディングスクールへ旅立ったのは長女だった。当時、8歳になった9月のことだった。ぼくたち夫婦は娘を1人だけ英国へ留学させたことに周りのみんなは驚愕、非情、不可解、狂人などいろいろな言葉で表現していただけた。当然のように祖父母にとっても理解不能な行動であると思われた。「あなたたちは子どもを1人にして、さみしくないの?子どもを1人で留学させるなんてかわいそうじゃないの?」。それはごもっともであった。

フランスの経済学者(と言ってよいのかわからないけれど)のジャック・アタリは将来、誰もがノマドになるとコロナウイルスが蔓延する前に予言している。実際にコロナ禍をきっかけに在宅勤務や、ワーケーションなど毎日会社にしなければならない生活から脱却しつつあった。ただ、やはりすべての人が会社とは別の場所で仕事をすることは難しく、業界によっては毎日の出勤を義務付けるようになってきている会社もある。ノマドになれそうでなれない人はやはり会社にとらわれていて、自由を拘束されていると考えられる。

また、ダニエル・ピンクはフリーエージェント社会の到来で働き方が自由になると予言していた。すでに2002年の段階で、全米の4分の1がフリーエージェントとして自由な働き方を手に入れているという、その事実をぼくは知って衝撃的だった。自分で働く力を蓄え、いつでもどこでもその人的資本を労働市場で売って働くという働き方には魅力と同時にプレッシャーも感じたのを覚えている。人的資本を売りにできなければ労働集約的な産業で自分の力や時間を切り売りして資本主義社会を生き延びなければならない。

リンダ・グラットンのワーク・シフトでも、将来はプロフェッショナルが、時間と地域をまたいで働くような環境になり、何でもできるジェネラリストよりも専門性を身に着けたプロフェッショナルとして働くことが必須となると言っている。そのためには学び続けなければならない。リスキリングの先端を述べていたこの書籍にも大きな衝撃を受けた。

ジャック・アタリのノマドに話を戻すと、彼の近著「世界の取扱説明書」においても今後はノマドの3分類になり、どこでもクリエイティブな仕事をできる「ハイパーノマド」が支配する世界的な機関が登場するであろうと述べている。市場はグローバル化し、政治はローカル化する。そういう将来的な世界でぼくの子どもたちが生き延びることができるにはどうしてあげたらよいのだろうか。ハイパーノマドの対局にある「下層ノマド」にならずに未来を描けるようになるにはどうしたらよいのか。そんなことを考えていた。

ぼくたちが子どもたちに残せるものは「選択肢」だと思っている。将来的に言語の障壁はなくなるのかもしれない。英語を話せなくても不自由なく、世界中の人たちと交流できる将来がくるのかもしれない。でも圧倒的に英語での情報量がこの世の中には多いし、AIがいつの段階でシームレスな交流可能な世界を構築してくれるのかはわからない。少なくとも小さい頃からの留学は自分で切り開かなければならない世界が広がっていると思っている。親がいない状況で、自分でものごとを判断して、自分で将来を決めていかなければならない。そういう環境で育ててみると自分で考える力を養えるのではないかと希望的観測に満ち溢れたことをぼくは考えていた。

しかし、蓮實重彦が「齟齬の誘惑」で述べているように、「自分で考えること」はたかが知れている、と。たとえ自分でどんなに時間をかけて考えたとしてもいかにも貧しいことしか生まれてこない。だから、蓮實は自分で考えることではなく、「他人とともに考えること」が重要であると述べている。これもすごく納得できる理屈であって、所詮一般庶民で考えることのできることは発想としては貧困なのである。シリアルアントレプレナーであるピーター・ティールのように「ゼロ・トゥ・ワン」(ゼロから1を生み出すこと)が可能である人はイーロン・マスクのような天才に限れれている。ぼくたちは結局「ゼロ・トゥ・ワン」ではなく「ワン・トゥ・ワンハンドレッド」を目指すしかないのではないかと思う。つまり他人を真似することで、1から100に増やしていく仕事をする選択しかないのではないかと思っている。

こう考えたときに、蓮實の言う「他人とともに考える」ことができる環境はもしかして日本ではないのではないのではないかと考えていた。これは完全に個人的な選好であって、日本の教育がダメだと言ってるのではない。よく、海外に居住する日本人が「海外バンザイ」的な言説を唱えていることがあるけれど、これには全然賛同できない。そして安易な「グローバル化」を語って海外での教育がすばらしいと考えている人にもまったく理解できない。

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長男長女は英国ボーディングスクール在籍中。子どもに選択肢を与えられるように。

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