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人生に”なんとなく素敵な筋書き”を書いて欲しい願望を捨てる『食べて、祈って、恋をして』

夢に向かってよそ見せず全力疾走している人と出会うと、自分が何を求めているのか分からなくなる。
目標を達成するために、何度倒れても立ち上がり、ひとつひとつ達成していく。その心境はさぞかし歓喜と自信に満ちているのだろう。

もちろんテレビやニュースに取り上げられるような人物なら嫉妬ほどしないが、実生活で出会う人だと自分との差が顕著に分かり、視座が高くイキイキとした彼/彼女を直視できない。

何となく楽な方へ、何となく頼りになる人を探して、お得な話に飛びつく私。

話しているうちに中途半端な自分が見透かされているようで、穴があったら入りたい。

その差の正体は『望みを明確に抱いて行動しているか』だと思う。

人生をかけて達成していくことがあり、困難な道だと分かっていてもやってみたい、挑戦したいとワクワクせずにはいられない。

そんなことを小さくても見つけたいと思うのに、望みが分からない人は多いのではないだろうか。

人生の迷子になっている時に私が(そして恐らく大多数の女性が)繰り返し観てしまう映画が、
ライアン・マーフィー監督の『食べて、祈って、恋をして(2010)』だ。

あらすじ
離婚をきっかけに自分探しの旅に出るリズ(ジュリア・ロバーツ)は、3つの目的地を目指す。イタリアで食の快楽を追求し、インドのアシュラムで精神力を高める瞑想とヨガに取り組み、バリで新しい人生を始める。作家エリザベス・ギルバートの自伝的ベストセラー小説を映画化。リズが人生の意味を見つける旅から得たものとはー。

『Glee』や『ヘアスプレー』を手掛けたライアン・マーフィーらしい、テンポ感のある映像とカット割りで、色彩豊かで、音楽や効果音とリンクする、観ていて小気味良い映像だ。

3つのデスティネーションの中で、今の私はイタリアを必要としている。

イタリアは愛の都だ。
そしてイタリア料理は美味しい。(え

リズがポモドーロパスタを食べるシーンや、イタリア語で料理をオーダーするシーンはフードドキュメンタリーにしたいくらいのシズル感で、思い出すだけで涎が出る。

友人と食事する中で、『街を表す言葉は?』と質問が始まる。街から人へと対象が移動し、リズの番になるが、社会や関係の中で与えられた役割しか思いつかない。

娘、恋人、妻、ライター。

そのどれもが誰かの期待に応えるために作られたもので、混沌とした人生の海原に放り出された時には全く拠り所のないものである。

自分は何者なのか。
何を求め、何を選び、
どんなことで幸せを感じるのか。

それを知るためにするのは、なにもしないこと、だ。

Dolce far niente.

「なにもしない歓び」と訳されるイタリアの慣用句は、ワーカホリックで商業主義的なアメリカ人や、その文化を鵜呑みにしている日本人には馴染みがないものかもしれない。

なにもしないのは怖い。
なにもしないのは停滞することだから。

停滞することが怖いのはなぜか。
それは世間の速い流れに乗れない社会不適合者になってしまうからだ。

しかし、いつまでも他人の評価を必要としていては、
いつまでも虚無感を消すことはできないのだ。

あらゆるものを手に入れても、
自分の幸せを理解できなければ何の価値も感じられない。

何もかもどうにかしようとしない。
流れに身を任せること。
現在に意識を向け何もせず、生きる喜びを感じる。

Dolce far niente. 

新しい言語を学ぶことで、イタリアのリズは新しい人格を獲得していった。


なんとなく願っていても、自分の物語は始まらない。
役割に甘んじて、自分の幸せを誰かが与えてくれると考えるのは早計だ。
なぜならそんなことは不可能だから。

愛する人と一緒にいても、ひとりよりも孤独になる瞬間がある。
自分の孤独を相手に分かってほしい。そう思うばかり相手に期待し、裏切られるから。

人はどこまで行っても自分の足で立たなくてはならない。

自分の人生には自分の手で筋書きと意味を与えなくてはならない。

そして一緒に向こう側へ行けるひととめぐり合うことが出来たなら、向こうへ渡ろう。

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