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#そういえば311

小学校5年生。
5時間目か6時間目の家庭科の時間。


総合の授業内にクラスで苗から育てたコシヒカリが学校に残っていたので、お米を炊いて、豚汁を作っていた。


「お米はね、研ぎすぎない方が美味しいのよ。ちょっと濁ってるくらいでやめときなさい」

当時50代前半で、主婦歴うん十年の担任の豆知識。
茶髪にパーマをかけたボブヘアにメガネをかけていて、優しくていつも朗らかで、大好きな先生だった。初めて詩を作って人に見せたのも、この先生だった。


卒業式・終業式を目前に控えた3月の授業は、消化試合的なところがある。

この日だって確か、勉強なんか一切関係なく、自分たちで作って食べて楽しみましょうという実にお気楽な食育の時間だったのだ。

私たちは誰も、この後未曾有の大震災が起こるなど予想もしなかった。

ただ楽しく、野菜の切り方が上手だ下手だ、洗い物は誰がする…おしゃべりしながら豚汁を作り、家庭科室でしか見たことのない茶色味がかったあのガラス鍋で、お米を炊いていた。

学期末の開放感からか笑い声が絶えない家庭科室が、突然、ぐらりと揺れた。


その時私は、コンロにかけていた完成間近の豚汁を覗き込んでいて、鍋の中が大きく波打ったのを覚えている。


「火を消して頭を守りなさい!」

普段あまり声を荒げない先生が、すぐに大声で指示を出した。


調理中だったため周りに椅子がなく、どうしようと焦って隅に重ねられたパイプ椅子に頭を突っ込んだ気がする。


しばらくして揺れは収まった。

家庭科室は3階で、しかも沼地で地盤が緩い地域だったから、割と揺れて怖かった気がする。

それでも震源地からは離れていたから、発表された市内の震度は4程度だったと思う。


幸い誰も怪我をせず、おにぎりと豚汁を美味しく食べ終えて帰りの会を迎えた。

どうやら東北の方で大きな地震があったらしい、地震はいつ起こるか分からないからちゃんと訓練をしましょう、気をつけて帰ってね、とかそんな話をされて帰りの会は終わった。


小学校の頃はバス通学だった。バスの運転手さんとも仲が良くて、この日は、優しくて児童たちからとりわけ人気の高かった運転手さんだった。

同級生5人でバスに乗り込んで、他の学年の児童が集まるまで家庭科の時間に起きた地震のことを運転手さんに話そうと、運転席の周りに集まっていた。


その時運転手さんは運転席でワンセグのテレビを見ていて、「大変なことが起こったぞ」と私たちに画面を見せてくれた。


津波の映像だった。


茶色い濁流に飲み込まれた家々、ヘリからの中継映像。

津波は、私たちが楽しく豚汁を食べていた頃に起こったのだった。
豊かな海が、濁流となって街を丸ごと飲み込んでしまったのだった。

子供ながらに衝撃を受けた。
信じられないというか、現実に起きたとは信じたくない景色だった。

受け止め切れなかったのだろう、いつもは延々とくだらないおしゃべりをして帰る私たちも、あの日は言葉少なにバスに揺られていた。




早いもので、気がつけばあの日から9年半。

その時を早いと感じるのは、「そういえば」と思い出すのは、私が普段生きていてあの日の記憶を思い起こすことが少ないからだ。

被災地にいた人とは、被災した人の関係者とは、やはり思いの丈が違うのだと思う。


「#そういえば311」
NHK仙台放送局制作の「あの日、何をしていましたか?」という番組が、東日本大震災からまもなく10年を迎える今、あの日のエピソードを集めるために発信したハッシュタグだ。

このタグの「そういえば」がちょっと物議を醸しているけれど、大体の人は、こういう機会がないと「そういえば」と思い出すこともないだろう。
そういえばでもいいから、あの日の記憶を思い出して、風化させずに、忘れないでいてほしい。そういう意図じゃないかと個人的には解釈している。

被災された方にとっては、そういえばで片付けられるようなことではないし、モヤモヤする気持ちもわかるけれど。
みんなが使いやすくて傷つかない発信って、難しいなーと思う。


あの日起こったこと、それは決して忘れてはいけないことだ。

被害に遭われて辛い経験をされた方は、忘れてしまいたくても考えたくなくてもしょうがないことだし、それができずに苦しむこともあると思うけれど。でも、被災しなかった私みたいな人こそ、定期的にあの日のことを思い出さなくては考え続けなくてはいけないんじゃないかと思う。


今思えば、あの日の私たちは運が良かっただけなのだ。誰一人怪我もせず、無事に元気に家に帰って行ったのだから。

揺れたとき、私がとった行動は最善の策ではなかったと思う。
避難訓練にはいつも真面目に取り組んでいたつもりだったけど、やっぱり非常時には焦るものだ。家庭科室の隅に積み上げられたパイプ椅子は結構な高さで、椅子が倒れるくらいのもっと大きな揺れだったら、椅子の足を掴んでいたとしても、椅子の高さと重さで私は一緒に飛ばされていただろう。窓も近かったし、ガラスが割れていたら怪我をする位置にいたんじゃないかと思う。
普段の教室と違って頭を守るものがないところではどう逃げるべきだったのか。



前述した番組のホームページにこんな一文がある。

揺れた瞬間、何をしていたんだろう
どうやって家に帰ったんだろう
いつ家族や友人と連絡取れたんだろう
あれから何かが変わった気がする


私は、ほんのちょっとだけ、あれから何かが変わった気がする。

あの日、家に帰ってから家族全員で特別編成のニュース番組を見続けた。
大叔父さんの息子さんは確か仙台にいたんじゃないだろうか、大叔父さんに電話してみた方がいいだろうか、なんて会話があった気もする。

あの日から、私は前よりはニュースをよく見るようになったと思う。

地震から数週間は、増え続ける犠牲者数に福島第一原発の事故の報道など、胸が苦しくなる日々が続いた。
私が住んでいた県も、地震や水害が多い県だった。祖父母世代が幼い頃に起きた地震の話や、父が被災した水害の話を聞いたりした。
原発を持っている県だったから、安全神話が完全に崩れ去った現在、自分の身にも降りかかり得る問題だと気付かされもした。


震災から9年半経った今、私は大学でメディア学を学んでいる。

震災時の情報の錯綜やデマ、避難情報の発信の仕方、極限状態でも情報を届け続けた地元紙、東日本大震災という日本で起こった未曾有の大災害から学ぶべきことは沢山ある。

まだまだ震災は終わっていないから、沢山あったと過去形では私は書けない。



今年の1月、石巻の仮設住宅に住む最後の住人が退去して、復興住宅に移ったという。全員がプレハブの仮設住宅を離れ、新たな場所で生活を始めたのだ。

仮設に住む人たちは、震災の傷を抱えながら肩を寄せ合って暮らしてきた。そこで新たなコミュニティを作って生きてきた。
新たな場所での生活は、その仮設で築いたコミュニティとの別れを指す。
いくつかの復興住宅に、新しく建てた家に、他県のマンションに、みんな別々の居場所を見つけなくてはならない。

物理的な復興もだけど、心の復興には時間がかかる。まだ見つからない行方不明者も沢山いる。


これはほんの一例に過ぎないけれど、まだ震災は終わっていない。


私はあの日から9年半生きてきて、好きなことを学んで、将来つきたい仕事もあって。

ほんの少しばかりだけど、あの震災の日から起きたことを学んできた。

津波に巻き込まれた体験者の記事を読んで、胸がずんと重くなったりした。聞き出す仕事、伝える仕事の難しさを思ったりした。
当事者でない人間がどうやって記憶に踏み込んで人々に伝えたのか、誰かを傷つけてまで伝えなきゃいけないことか、どうして記録に残そうとしたのか、どうしたら社会が忘れていくのを防げるのか。そんな仕事に就きたいと思う自分には、いざという時その行動をとる覚悟はあるのだろうか。



はっきり言って、こうすればいいと明言できる何かはない。
ただ、忘れてはいけない現在進行形の問題であることに気づけたことは、良かったと思っている。


私は、今、これから、自分には何ができるのか考えたいなと思っています。


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