街風 episode.29 〜ネガイ カナエ タマへ Part.Ⅲ Re: 〜

 見知らぬ美女が店内に入ってきたと思ったら、ダイスケを連れて颯爽と去っていた。マナミは、何もできずに呆然と立ち尽くしていた。まるで風が吹き抜けるように一瞬にして起こった出来事に、マナミの頭の整理が追いついていないようだった。

 「私と二人でのデートだって、まだ一回しか行ったことないのに。なんで、見知らぬ美女について行っちゃったのよ。」

 店内に一人取り残されたマナミは、ぶつぶつと言いながらパチンパチンと音を立てながら、店内の花や木の手入れをしていた。二人きりで今頃どんな話をしているのだろうか、と考えるといてもたってもいられなくなった。だが、自分も後を追ってしまえば店に誰もいなくなってしまうし、そんな無粋な真似はできないと分かっていた。何か作業をして気を紛らわせようとして、午前中にも行った梱包材の棚卸をやったり、店内の掃き掃除を何往復もしてみた。それでも時間は十五分くらいしか経っていない。まだまだダイスケたちは戻ってくる気配が無かった。ソワソワしながらマナミは軒先の掃き掃除を始めた。散ってしまった花びらや落ちた葉を丁寧に箒で掃いて塵取に取って、を繰り返していると一匹のネコがマナミの前に立ち止まった。

 そのネコは、にゃあ、とマナミに向かって鳴くとそのままマナミの横を素通りして店内にスタスタと入っていった。

 「ちょっとちょっと!待って!」

 行きつけの居酒屋の暖簾をくぐるように堂々と当たり前かのように店内に入っていったネコに対して、マナミは慌てながら声を掛けた。そんなマナミの慌てぶりも全く気にしていないのか、そのネコは色とりどりの花の香りを嗅ぎながら店内をぐるりと一周した。

 「もう、分かったわ。ここへおいで。」

 マナミは持っていた箒と塵取をバックヤードにしまうと、代わりに猫草を両手に抱えて戻ってきた。

 「あなたの口に合うかしら。」

 そう言うと、マナミはレジ横の作業台に猫草を置いた。そして、猫草を置いたすぐ横のスペースをトントンと叩いて、こっちへおいで、と合図を送った。ネコは、そんなマナミに見向きもせず、店内に置いてあった観葉植物の幹の部分に身体を擦り付けていた。よっぽど気持ち良いのか身体を擦るたびに観葉植物が大きく揺れる。それも満足するとその場で前足を器用にペロペロと舐めて毛づくろいを始めた。

 「私のことも構ってよ。」

 マナミは、ネコをよいしょと持ち上げて猫草の隣へと運んできた。ネコは、やっと猫草を認識したのか目の前の猫草をクンクンと嗅ぎ始めた。そして、お座りしながら一心不乱に猫草を噛みだした。マナミは、そんなネコの首から尻尾の付け根までをゆっくりと撫でてあげた。

 マナミも椅子に腰掛けて右手で頬杖をしながら左手で撫で続けていた。猫草を噛み飽きたのか、ネコは再び自分の前足をペロペロと舐め始めて毛づくろいをしていた。一人と一匹で、黄昏時の店内でダイスケの帰りを待っていた。だが、ダイスケは未だに戻ってくる気配が無い。そのうちネコはごろんと寝転がって、お腹も撫でろと言わんばかりに大の字になってマナミにアピールした。

 「君もダイスケさんと一緒でマイペースだね。」

 マナミはリクエストどおりにお腹を優しく撫でてあげた。

 「ねえ、あのネコ知ってる?」

 お店の外を歩いていた女子高校生が足を止めて、ネコを指差した。

 「どこどこ?」

 隣を歩いていた男子高校生も足を止めて店内を覗いた。

 「ほら、あそこの。」

 指を差された当人は、全く気にもせずに気持ち良さそうに撫でられている。高校生カップルとおぼしき二人は、ネコにつられるように店内に入ってきた。いらっしゃいませ、と声を掛けて二人の顔を見た瞬間にマナミは笑顔になった。 

 「なあんだ、誰かと思ったらワタル君とカオリちゃんじゃない。とてもお似合いのカップルね。」

 「その節は本当にお世話になりました。」

 カオリは照れ笑いをしながらチラリとワタルを見た。ワタルもカオリを見ながらマナミへ照れ笑いをした。

 「青春真っ只中って感じがしていいね。そういえば、カオリちゃんこのネコ知ってるの?」

 マナミは、カオリとワタルが来ても全く起きようとせずに目を瞑ったまま寝転がっている彼を見た。

 「はい!“幸運の猫”です。」

 カオリは目をキラキラと輝かせながら、ゴロリと気持ち良さそうに寝転がっているネコを見つめた。

 「へえー、この子が“幸運の猫”ね。」

 マナミは、再びイスに腰掛けて肘をつきながらネコを撫でてあげた。

 「あれ?このネコってひょっとして...。タマ!」

 道端で知り合いに遭遇した時のように、ワタルは顔見知りのネコに対して声を掛けた。ワタルの声を聞いた途端に、そのネコは目を開けて声の主の方を振り向いた。声の主が、いつもお世話になっている家の住人だと気づくと、タマはむくりと起き上がってお座りの姿勢になった。

 「うちの学校で有名な“幸運の猫”ってタマの事だったのか。この辺じゃすっかり有名人だったんだね。」

 ワタルは、笑いながらタマの顔を両手でわしゃわしゃと撫で回した。撫でられているタマも、ワタルにされるがままだが気持ち良さそうに頬が緩んでいる。

 「ワタル君もタマのこと知ってるの?」

 カオリもタマの背中を撫で始めた。

 「うん。よく夕飯時にうちに来るんだよね。お母さんもお兄ちゃんも家族全員がタマの大ファンでさ。でも、タマが律儀なのは絶対に玄関から先へは入ってこないんだよね。だから、いつもタマのご飯は玄関であげてるんだ。」

 「ワタル君の家で美味しいものを食べてるから、こんなに毛並みも艶やかで綺麗なんだね。」

 カオリはタマの整った毛並みを丁寧に撫でた。

 「ねえねえ、“幸運の猫”ってどういう意味なの?」

 マナミは、先程のカオリの言葉に興味津々だった。

 「タマに願い事をすると、その願い事が叶うって噂があるんです。実は、私もタマにしたお願い事が叶ったんです。」

 カオリは、バレないようにワタルの方をチラリと見た。そして、その後にカオリと目が合ったマナミは、声を出さずに口角をやや上げてニヤニヤとしていた。

 「じゃあ、私も何かお願い事でもしようかな。」

 タマの背中を撫でながら、マナミはカオリの話を信じているようだった。実際に、目の前に好きな人と付き合えたカオリがいるのだから、信じてみても悪くないかもと思い始めていたようだった。

 「是非!」

 「そういえば、今日はマナミさん一人なんですか?」

 ワタルは、タマを撫でながら店内を見渡した。

 「店主は野暮用で外出中なの。」

 マナミはいつも通りに会話したはずだったが、少しムスッとした顔になっていた。本人は全く自覚は無かったが、その顔を見たカオリとワタルは、しまった、と聞いたことを後悔するように二人で顔を見合わせた。咄嗟に、カオリが別の話題を振ろうと、頭の中をフル回転させた。

 「そういえば、マナミさんもノリさんのお店のクリスマス&忘年会イベントに行かれますか?」

 マナミは、ムスッとした顔から急に笑顔になった。

 「行く予定だよ!」

 マナミのいつも通りの笑顔が戻ってほっとしたカオリは、そのまま話を続けた。

 「私とワタル君もお誘いしていただいたので、また一緒にゆっくり話しましょうね。私のお姉ちゃんも連れて行く予定です。」

 「お姉ちゃんいたんだね。私も誰か一人くらい誘おうかしら。ノリさんから友達とか連れてきていいって言われてるし。」

 マナミは、ダイスケが一向に戻らないことよりも年末のイベントの楽しみで心が一杯になった。

 「じゃあ、また年末にお会いしましょう。」

 それから三人でまた少し会話をした後、ワタルとカオリは店を後にした。こうして再び店内には一人と一匹だけとなった。

 「ねえ、タマ。また誰もいなくなったから私の愚痴に少し付き合ってよ。」

 タマは全く聞くそぶりをしなかったが、マナミはめげずにタマヘと愚痴をこぼした。

 「ここの店主のダイスケさんってね、次の仕事のあてもない私をこのお店で雇ってくれたの。それからずっと二人でお店を回してるんだけど、ダイスケさんってあなたみたいにミステリアスで私に何か隠し事してるみたいなの。私は、ダイスケさんをどんどんと好きになっているのに、ダイスケさんは私が近づけば近づくほどに同じ距離だけ遠ざかろうとしてる気がする。私、一人の女性としては見てもらえないのかな。」

 マナミは寂しそうな表情でタマを撫でている自分の手をじっと見つめた。そして、はあーっと大きく深いため息をつくと下を向いた。

 タマは、そんなマナミを励ますかのようにマナミの手をペロペロと舐めた。そして、スッと立ち上がるとマナミと正面から向き合うように座り直した。

 にゃあっと鳴くと同時にタマは、床へと飛び降りてそのままスタスタと店の出入り口へと歩き始めた。マナミもゆっくりと立ち上がってタマを見送ろうと店の出入り口へと向かった。タマは、店のちょうど出入り口前に着くと一瞬立ち止まって鼻をヒクヒクとした。マナミがタマに追いつくと、最後にタマはもう一度マナミの方を振り向いた後に、そのままお店の外へと出て黄昏時の商店街の中へと消えて行った。タマもいなくなって再び一人きりとなったマナミは、タマが消えた人混みの中にダイスケの姿がないか確認した。ダイスケがいない事が分かると、少しがっかりした様子で店へと入った。

 「また一人かー。」

 撫でる相手もいなくなったマナミは、イスに座って店の外を歩く人々を眺めていた。仲良く腕を組んで歩く男女を見ると、あの二人に似合う花はどんなものがあるだろうかと見繕って暇を潰していた。

 外は夕陽が沈みきって、すっかり薄暗くなった。夕陽のオレンジ色で染めていた街も、照明やイルミネーションが灯り始めていた。痺れを切らした時に、やっとダイスケが店内へと戻ってきた。マナミは、ダイスケに言いたい事は山程あったが、とりあえず言いたい事をまとめて言った。

 「もー、ダイスケさん。三十分経っても帰ってこないんだから。いくら絶世の美女だからといって、名前も知らないような初対面の女の人に付いていくなんて。告白でもされたんですか。」

 ダイスケは、マナミを一人にさせてしまった事を申し訳なく思った。

 「ごめんね。告白じゃないけど大切な話だった。」

 ダイスケはマナミに謝った。そして、一呼吸置いてさらに続けた。

 「マナミさん、明日はお店を休もうと思う。その代わり、僕についてきてほしいところがあるんだ。明日は、いつも通りの時間にここに来てほしい。」

 こんなに真っ直ぐな目でマナミを見つめるダイスケは初めてだった。

 「分かりました。明日いつも通りここへ来ます。」

 「ありがとう。」

 マナミは、明日に何があるのだろうかと不安と期待でいっぱいだった。閉店の時間になり、締め作業をダイスケと二人で一通り終えると、ダイスケよりも先にお店を後にした。帰り道も街中のイルミネーションとは対照的に、マナミの心の中はモヤモヤとした気持ちで溢れていた。結局、その夜はあまり眠れずに朝を迎えた。

 翌朝、スマホのアラームが鳴る。寝ぼけ眼で目覚まし代わりのアラームを消して身支度をした。いつも通りの朝、カーテンを開けて窓を開くと息も白くなるような冬の冷たい空気が部屋に入り込んでくる。あまりの寒さに布団の温もりすらも忘れるくらいには目が覚めた。コーヒーを淹れるためのお湯を沸かす間にトーストを焼き、冷蔵庫からバターとジャムを取り出す。寝癖でピンと跳ねた髪の毛を手櫛で梳かしながら、スマホで今日の天気やニュースを確認した。今日は一日晴れるらしく、部屋にも冬の朝陽が差し込んでいる。電気ケトルで沸いたお湯でインスタントコーヒーを淹れる頃に、ちょうどトーストもこんがりときつね色に焼きあがった。丁寧にバターとジャムを塗って頬張った。お腹も満たされて食後にコーヒーのおかわりを入れて寛いでいると、昨日のモヤモヤが心の中を再び侵食しはじめた。だが、もう昨日の今日でどうすることもできないし、後は今日のダイスケさんからの話を聞くだけだと覚悟を決めた。

 マナミは、身支度を済ませるといつも通りの時間に家を出た。昨日のダイスケを連れ出した美女に感化されたのか、グレーのロングコートと少しヒールのあるブーツで、朝の街を歩いて店へと向かった。マナミは、今まで一向に何の素振りも見せてこなかったダイスケから、もしかしたら何か嬉しいことを言ってもらえるのではないかと淡い期待を持っていた。しかし、それ以上に店をクビになったり、昨日の美女と付き合うことにしたという報告だったらどうしようかとも不安になった。後者のようなマナミにとっては悲しいニュースであれば、自分はきっと立ち直れないだろうとも感じていた。

 いつもと変わらない開店三十分前に店前に到着。出入り口に降りたシャッターには、『本日、都合により一日休みます。店主。』とダイスケの字で書かれた紙がガムテープでペタッと貼られていた。裏口に回って店内に入ると、すでにダイスケは店で花を見繕っていた。

 「おはようございます。」

 マナミは、作業台で集中しているダイスケの邪魔をしないように、少しボリュームを抑えた声で挨拶をした。

 「おはよう。ちゃんと来てくれてありがとう。もう少しだけ待っててもらえるかな。」

 マナミは言われるがままに作業をしているダイスケの近くで待機した。マナミにとって、ダイスケが花束を作っているのを近くでゆっくり見るのは久しぶりだった。お店で働き始めてから慣れるまでは、ダイスケの隣でこうやって勉強していたが、慣れてきてからはこうしてゆっくり見れる時間が無いくらいには忙しい日々だった。

 「そうやって、マナミさんにまじまじと見られるのは久しぶりだから、なんだかいつもより緊張しちゃうね。」

 ダイスケは手を止めずにマナミに照れながら話しかけた。ダイスケもマナミと全く同じ事を考えていたようだ。

 「すみません。久しぶりだったので。」

 「謝ることじゃないよ。むしろ、こうやってゆっくり過ごす時間が無いくらいに忙しいって事だったから感謝だね。よし、終わった。これで準備完了。」

 ダイスケは作り終わった花束を包むと、マナミも気づかなかった場所に置かれた全く同じ花束をもう一つ取り出した。対になった二束を一まとめにすると、マナミにもそろそろ出発しようと声を掛けた。

 ダイスケは目的地をマナミに教えないまま歩き始めた。マナミもよく分からないまま、ダイスケの隣に並んで歩き始めた。マナミは、ダイスケと二人で歩く時間が好きだった。こうやって二人きりで出掛ける事は滅多に無かったが、その数少ない時間の全てが心地良くて安心できるものだった。無言の時間が流れていても苦ではなく、不思議な居心地の良さをダイスケの隣で感じていた。ダイスケはこの街が地元なので、道中で見かけるお店を指差してはどんな人がやっているお店なのか色々と楽しく教えてくれた。

 マナミもたまに通るT字路に差し掛かった。いつもは真っ直ぐしか行かないが、今日はここを曲がった道へと進むらしい。ほぼ真っ直ぐに伸びる道は緩やかな坂道になっており、この先にはカオリやワタルの通う高校やタエの亡き夫が入院していた病院もあり、更に丘の上まで行くと公園がある。

 「良い運動になるから我慢して付いてきてね。」

 ダイスケも目的地はこの坂道の登った先にあるらしい。マナミは、身体を動かすのも嫌いではないし、ダイスケが連れて行ってくれているだけで楽しいので、坂道だろうと全く気にしてなかった。

 丘のほぼ中腹くらいまで歩くと、少し脇の道に入ったところにお寺があった。ダイスケの目的地はどうやらここらしい。ダイスケの後を付いていくようにマナミも歩いてお寺の入り口を潜った。お寺に入ってみるとマナミの想像していたよりも広い敷地で手入れも行き届いていた。ダイスケは、マナミに花を持つようにお願いすると、手桶と柄杓を借りて水を溜めた。そして、寺務所で線香を購入しに行った。戻ってくると、マナミに持たせた花を受け取ろうとしたが、マナミは自分が持つと言い、ダイスケもその言葉に甘える事にした。ダイスケは、手桶と柄杓を左手に線香を右手に持ち、マナミをとあるお墓の前へと案内した。そのお墓は、誰かが頻繁に手入れをしているらしく、とても綺麗なものだった。

 「カナエ。久しぶり。」

 ダイスケは、目の前の墓石に話した。

 「今日は、大事な話があって来たんだ。」

 マナミは、そう言うダイスケの背中をただ黙って見る事しかできなかった。

 「ごめんね、マナミさん。ちょっと待っててね。」

 ダイスケは、テキパキと慣れた手つきで掃除を終えると、マナミに持ってもらった花を包みから取り出して、左右それぞれの花立に挿した。

 「マナミさんも一緒にお願いしていいかな。」

 ダイスケは線香に火を点けると、持っていた半分ほどを取り分けてマナミに手渡した。マナミは線香を受け取ると、ダイスケの後に続いて線香皿にゆっくりと置いた。マナミもダイスケの隣で手を合わせた。

 「訳も分からずにごめんね。ありがとう。」

 ダイスケは、合わせた手を解いて顔を上げるとマナミの方を向いた。

 「いえいえ。この方は...。」

 マナミは、タブーに触れるように恐る恐るダイスケに尋ねた。

 「カナエはね、僕の恋人だったんだ。カナエと僕の話をしてもいいかな。」

 「もちろんです。聞いてもいいのであれば。」

 カナエは、昨日のダイスケに負けないくらい真っ直ぐな眼差しで、ダイスケの方を見つめている。ダイスケもそんな真摯なマナミに対して、誠意を持って嘘偽りなく全てを話そうと決心した。

 「カナエと僕は、中学生の頃から仲が良かったんだ。高校も、この先にあるところに一緒に通っていた。どちらからともなく高校から付き合い始めて、お互いに別々の道へと進学してからも関係が壊れる事なく、本当に幸せな日々を過ごしていた。

 お互いに社会に出て、僕は今の店を継ぐことにしてカナエも会社の事務員として働いていた。お互いに結婚も意識する歳になって、カナエと二人でどんな家に住みたいかとか子供は何人くらい欲しいかとか、二人で築く将来に夢を膨らませていた。

 僕は結婚に向けて密かにお金も貯めていたし、プロポーズの言葉もずっと考えていた。そして、婚約指輪も買ってその日が来るのをずっと待っていた。でも、その日は永遠に来なくなった。

 あの日、いつも通り仕事をしていると、カナエの実家から電話があった。電話に出ると、カナエの母親から憔悴しきった声でカナエが病院に運ばれたと伝えられた。

 もう花屋を引退した僕の両親に急いで連絡をして事情を説明すると、両親が店番を代わってくれると言ってくれた。両親が店に来るまでの一時間は、ずっと悪魔に心臓を握りつぶされているような気分だった。どうか生きていてくれと何度も神様に祈った。

 両親に店番を代わってもらい、急いで病院へと駆け付けるとカナエは集中治療室に運ばれていた。カナエの両親に案内されて対面したカナエは、すでに意識が無かった。カナエの手をいつも通りギュッと握っても、そこには握り返してくれる感触は全く無かった。

 必死に声を掛けて励ましても全く反応が無かった。その日は一晩中付きっきりで看病するつもりだったので、カナエのそばで手を握りながら色々と話しかけていた。夜になっていきなりカナエの容体が急変した。脈拍数が急速に低下して、医者と看護師が何人も慌てて病室へとやってきた。お医者さんも色々と手を尽くしてくれたけど、カナエはその三十分後くらいに、カナエの両親と僕に見守られながら、静かに息を引き取った。

 交通事故だった。カナエは一人の少女が轢かれそうになったところを自分の身を挺して守ったらしい。これは、その子が書いた手紙。」

 ダイスケは、ポケットからエリが書いた手紙を取り出した。マナミはその折り畳まれた手紙を受け取ると、ゆっくりと開いて読み始めた。そこには、エリからカナエへの命を救ってくれた感謝の気持ちとダイスケに前を向いて生きる勇気をもらった感謝の気持ちが綴られていた。マナミの目には少しだけ涙が浮かんでいた。ダイスケは、話を続けた。

 「2年前にカナエがいなくなってから、僕は本当に何に対しても無気力だった。店も休業状態が続いていたし、生きる事に何も喜びを感じなくなった。何を食べても美味しいと感じないし、何を見ても心が震えることは無かった。手紙を読んでもらったから分かると思うけど、エリちゃんには大きな口を叩いたくせに、自分が誰よりもカナエの事を引きずっていたんだ。

 カナエの両親やお兄さんは、まだ若いんだから次の人を見つけるように、と背中を押し続けてくれたんだけど、僕はこれから先の人生にカナエが隣にいないと考えただけで生きる気力が湧かなかった。

 カナエの後を追う事も考えた。でも、それはカナエが望まないだろうとも思ったし、それで解決する事なんて何一つ無いとも分かっていた。

 でも、そんな日々を繰り返していくうちに心がどんどん蝕まれていった。このままだと本当に誤った選択を取りかねない、と危機感が募ってきた。だから、とりあえず週に一度だけお店を再開することにした。」

 マナミは、ダイスケの話を一言たりとも聞き逃さないよう、真剣な眼差しでずっとダイスケと向き合った。ダイスケも、今日はきちんと話そうと決めたからこそ、マナミに包み隠さず全てを曝け出していた。

 「ああ、そういえばカナエのお兄さんは、マナミさんも一回会った事があるよね。」

 ダイスケは、真剣に聞いてくれるマナミが疲れないように、閑話休題を挟む事にした。

 「え、どんな方ですか。」

 「僕のことを、“ダイ坊”って呼んでた人だよ。あの日、トモカズさんがマナミさんに作ってもらった花束も、カナエの御墓参り用だったんだよ。」

 マナミは頭の中で、トモカズと初対面だった時の記憶と、あの時にトモカズから言われた言葉の意味が、全て繋がり始めていた。あの時に言っていたのはカナエさんの事だったのか、と合点がいくとダイスケにはバレないようにフフッと笑ってしまった。

 「あの方が、カナエさんのお兄さんだったんですね。とても素敵な雰囲気の方でした。」

 「そうそう。本当に良い人。小さい頃からずっと、僕ともう二人の友達で仲良くしてもらってるんだ。ごめんね、話が逸れたね。」

 ダイスケは改めて、自分の過去を話し始めた。

 「今はマナミさんもいて、忙しい毎日を過ごす事ができているけれど、週一でお店を再開した時は、お客さんが全然来なくて毎日閑古鳥が鳴いている状態だった。でも、そんな状況でもお店を開いている時は、タエさんが旦那さんの花を買うために必ず来てくれた。だから、タエさんは本当に大切なお客様なんだ。タエさんのように毎日来てくれるお客さんがいるなら、もう少し頑張ろうと思って、二年かかったけれど今みたいな状態に戻ることができた。

 花屋さんって色々なお客さんがいるけど、タエさんみたいに亡き夫に毎日プレゼントするために花を買いに来たり、何かの記念日でプレゼントと共に花を買いに来たり、誰かを想って花屋にやってくる人が多くて、そういうお客さんたちに幸せをお裾分けされてる気がしたんだ。

 だから、僕もお店にやってきたお客さんの日常に彩りを添えられるように、より一層仕事に励む事ができたんだ。

 そんな時に、出会ったのがマナミさんだった。

 あの日、マナミさんは一人でお店にやってきて色とりどりの花を目を輝かせながら見ていた。その姿を見て、考えるよりも先に言葉が出ていた。マナミさんと働くうちに、どんどんと僕もマナミさんから人生を彩ってもらっている気がしていたんだ。」

 ダイスケは、優しい眼差しでマナミを見つめる。マナミは、少し照れ臭そうに目を合わせると視線を逸らすように軽く俯いた。

 「ありがとうございます。私も、ダイスケさんとあのお店で働く毎日のおかげで、自分の人生がカラフルになっている気がします。」

 マナミは、また顔を上げてしっかりとダイスケの顔を見た。ダイスケは、ホッとしたような顔つきになった。そして、カナエのお墓に身体を向けると、コートのポケットを探った。ダイスケの手のひらに優しく包まれながら、ネイビーのリングケースが姿を現した。

 「カナエ、僕はカナエのいなくなった世界のスピードに追いつけない気がしていた。いや、追いつきたいと思うのが怖かったんだと思う。カナエのいない世界をみんなが生きていく中で、みんながカナエのことを忘れるんじゃないのか、僕自身もカナエを失った哀しみと共に二人で過ごした日々を忘れてしまうかもしれない、そんな恐怖をずっと抱えていた。それを、勝手にカナエを言い訳にして、僕だけが前に進むことを恐れていたんだ。

 でも、僕はマナミさんと出会って、少しずつ前に進みたいと思うことができた。いつまでも、カナエの事を想い続けて哀しみの淵に佇んでいたら、カナエも安心して向こう岸へ渡れないよね。そういう性格なのも分かっているはずだったのに。

 だから、カナエにずっと渡せずにいたこのエンゲージリングも今日ここに置いて行くね。今日からは、お互いのいない世界で一歩ずつ進んでいこう。

 さようなら。ありがとう。

 また落ち着いたら、ここへ挨拶に来るね。」

 ダイスケは静かにしゃがんで、手に持っていたリングケースをカナエの墓前にそっと置いた。マナミは、その様子を黙って最後まで見届けた。本当は涙で溢れそうだったけれど、ダイスケとカナエの深い愛に立ち入ることすら憚れそうで、ぐっと涙を堪えた。

 ダイスケは、立ち上がってマナミの方を振り返ると、ありがとうと一言だけ伝えた。マナミは、言葉に詰まり黙って頷いただけだった。

 「よし。もう一箇所だけついて来て。」

 ダイスケは、先ほどまでとは打って変わった明るいトーンで、マナミに話しかけるとそのままマナミの腕を引いて、お寺を後にしようとした。お互いに今の自分の顔を見られたくなかったのか、マナミはダイスケに手を引かれたまま、ダイスケの後ろをついていった。

 お寺を出て、さらに丘の上を目指して歩く。歩き続けると、丘の頂上付近の公園に着いた。ダイスケは、この街が一望できる場所へと案内してくれた。

 「うわあー、とても良い眺めですね!」

 マナミは、眼下に広がる街を眺めた。少し肌寒い風が二人の頬を掠めて吹き去った。

 「さっきは見苦しい所を見せちゃってごめん。でも、どうしてもカナエにマナミさんを会わせたくて。」

 「いえいえ、こちらこそダイスケさんの過去を知ることができて良かったです。」

 「実は、昨日もここへ来たんだ。」

 「え、いつ来ていたんですか。」

 「配達から帰ってきてすぐにお店にいたあの女性に連れられて。」

 「お店からここまで往復で一時間以上はかかりますよね。昨日はそんなに長い時間じゃなかった気がするのですが。」

 「信じてもらえないと思うけどさ、あの女性はきっと神様だったんだ。ついていったら、いきなりここにワープして、カナエと最後のお別れをしたんだよね。」

 ダイスケは、どうせ信じてもらえないだろう、とわざとおどけてみせた。だが、マナミはダイスケの話を真剣に聞いていた。

 「私は、ダイスケさんを信じますよ。今までも、これからも。」

 マナミは、ダイスケを真っ直ぐ見た。ダイスケも、マナミときちんと向き合おうと身体の向きを変えた。お互いに見つめあったまま沈黙の時間が続いた。ダイスケは、すうっと息を吸い込んだ。

 「マナミさん。僕は、カナエを失ってからずっと一人だけ時の流れに取り残されていた。感情も何も無くなって、生きる理由も意味も無ければ、死ぬ勇気も無くて、毎日を消化するだけの日々を過ごしていた。でも、花屋を再開して、マナミさんと出会って、僕の毎日が少しずつ彩られていった気がした。モノクロームだった世界にマナミさんが色をつけてくれたんだ。だから、これからは僕もマナミさんの人生に少しでも彩りを添えたいし、二人で一緒に生きていきたい。マナミさん、僕とお付き合いしてください。」

 「はい。喜んで!」

 マナミは、ダイスケの告白を受け入れると同時に嬉しさのあまり静かに涙を流した。ダイスケは、ハンカチを取り出してマナミに渡した。

 「ありがとうございます。嬉しくて。つい。」

 マナミは受け取ったハンカチで涙を拭いながら笑っていた。ダイスケがずっと秘密にしていたこと、その秘密が想像以上に悲しい過去だったこと、そしてそれを乗り越えて自分を選んでくれたこと、この一日で多くのことがあったせいでマナミの心はいっぱいいっぱいだった。

 「じゃあ、ご飯でも食べに行こうか。」

 ダイスケは、そう言いながらそっと左手を差し出した。

 「はい!今日はたくさん話をしたいです!」

 マナミはダイスケの左手に自分の右手を重ねて、しっかりとその手を握った。ダイスケもゆっくりとマナミの手を握り返すと、二人はそのまま歩き始めた。

 「これで良かったの?」

 ミカは、ダイスケとマナミの後ろ姿を眺めながら隣にいるカナエに尋ねた。カナエは二人の後ろ姿をどこか寂しそうに見つめていた。

 「これでいいのよ。私は、もうダイスケ君と一緒に生きていくことはできないもの。マナミさんならきっと大丈夫。あの二人なら幸せになれるはず。」

 カナエは視線を変えることなく二人を眺めたままミカに返事をした。

 「こういう時は泣いてもいいのよ。」

 ミカがそう言うと、堰を切ったようにカナエの両目から涙がボロボロと溢れ出た。そして、子供のようにわんわんとミカの胸にうずくまりながら泣きじゃくった。

 「よく頑張ったね。」

 よしよし、と背中を叩きながら、ミカはカナエを優しく包み込んだ。

 夕陽が傾き、街は少しずつ夜に包まれていく。













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