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街風 episode.10 〜褪せた紙、褪せなかった約束〜

 やっぱりこんな平日に居ないよね。朝早くの電車に乗って私は久しぶりに海へ来た。海と言っても眼前いっぱいに大海原が広がっているような海とは違ってこじんまりとした海岸で通りから入る狭い路地を進んでいくと辿り着く穴場スポット。ここに来たのは3年前が初めてで今日は2回目。初めて来た時、私はまだ20代だった。ここで出会った可愛い中学生の子はもう高校生になっているはずで私も30代に突入してしまった。でも、あの頃よりも私は確実に幸せになっている自信がある。それはあの日の可愛い中学生ことトモヤ君とたった一枚の紙のおかげだ。私はいつも持ち歩いている名刺入れに大切にしまってある四つ折りの紙を開いた。色褪せてしまった紙にはトモヤ君に誓った約束が書いてある。私はあの日から何度もこの紙を見返してきた。きっとトモヤ君は忘れているかもしれないけれど、私はこの紙のおかげで何回も救われた。ハッと腕時計を見るとマナミとの約束の時間に近づいていた。海にいるとついつい時が経つのを忘れてしまう。私は紙をまた四つ折りにして畳み直してしまい、その場を後にした。

 「お待たせしましたー!」

 約束の時間10分前にマナミがやってきた。相変わらず笑顔が素敵で一緒にいるだけで私も笑顔になれる。

 「ううん。私もさっき来たところ。でも、珍しいわね。マナミがここまでオススメするお店があるなんて。」

 「夜でもいいかなー?って思ったんですけど、夜は夜で別のお店の美味しいもの食べたいので、無理やり誘っちゃいました。」

 「私も用事を済ませて来てお腹ペコペコだから丁度良かったわ。早速そのオススメのお店へ行きましょう。」

 はい!とマナミは言って歩き始めた。あの元気なマナミが戻ってきて嬉しい。マナミが会社を辞めると決まった時、私は驚いたと同時に少しホッとした。マナミはずっと仕事に対して漠然とした退屈さを感じていたのは知っていたし、何回も相談には乗ったものの私もマナミをこの会社に留めておくのは彼女にとってマイナスでしかないことは分かっていた。そんなマナミが花屋さんで働くと聞いた時は、会社を辞めると聞いた時よりも驚いた。花屋さんはお客さんに見えないところで努力する事も多いし、今まで事務仕事しかやってこなかったマナミが潰されないか不安だった。でも、今のマナミを見ているとその不安は杞憂だったと安堵した。

 「ここです!」

 待ち合わせ場所から歩いて十数分のところに今日のランチのお店があった。外観も落ち着いた佇まいで趣がある。扉を開けると焼けたパンの香ばしい匂いが私たちを出迎えてくれた。店主のノリさんも気さくな人で雰囲気もいい。私とマナミは「サンドウィッチセット」と「今日のデザート」を頼んだ。ノリさんの隣にいる子が噂のケンジ君か。今日のデザートを頼んだら、ケンジ君が申し訳なさそうに自分はまだ作れないと言ったので、ノリさんに無理を承知でケンジ君の作ったパンケーキをお願いした。ノリさんは二つ返事でOKしてくれて、ケンジ君はそれを驚いたような顔で見ていた。やってきたサンドウィッチはとても美味しくて、連れてきてくれたマナミに感謝した。あっという間にサンドウィッチを平らげるとデザートのパンケーキがやってきた。パンケーキもとても美味しくてフルーツの酸味が効いたソースのおかげで何枚でも食べられる気がした。

 「アオイさんが幸せそうで良かったです。」

 マナミは食後のコーヒーを飲みながら呟いた。確かに私はマナミにもたくさん迷惑掛けてしまった。マナミが会社を辞める前までは仕事終わりに2人で会社近くのカフェで愚痴合戦をしていた日々が懐かしい。

 「本当にあの頃はごめんね。」

 「謝らないでください!私もいつもたくさん愚痴を聞いてもらって助かっていました。でも、今のアオイさんの方が見ていて幸せそうですよ。」

 「ええ、幸せよ。約束は守らないとね。」

 「そうですよね。さっき見せてもらった紙からもアオイさんがその約束を大切にしているのが伝わりました。」

 マナミは私の周りで唯一“黄昏の海の約束”を知っている。中学生男子と海で約束した話をしたところでどういう目で見られるか分からなかったので、私はマナミにしか打ち明けなかった。

 もう少しだけマナミと話をしたかったけれど、マナミは休憩時間がもう終わってしまうので慌ててお店を出て行った。こういう慌ただしいところも昔と変わっていないなあ。

 お店に1人残った私はコーヒーを飲みながらぼんやりと3年前を思い出した。そこへケンジ君がおかわりのコーヒーを持ってきてくれた。

 「ケンジくん、ありがとう。ねえ、少しだけ話を聞いてくれない?」

 ケンジ君はまた少し驚いた顔をした。そして、こう言った。

 「ノリさんがアオイさんと話してもいいぞって言ってくれたので、僕で良ければ聞かせてください。」

 今度は私が驚かされた。ノリさんと少ししか話していないのに、私を見透かされた気がした。

 「ノリさんってたまに僕の思っている事を当てるんですよね。心を読める超能力者じゃないかって疑いたくなっちゃう時があるんです。」

 私は更に驚いた。まさかケンジ君まで私の言おうとした事を読んでいるなんて。

 「僕もきっとノリさんに心を読まれた時は、今のアオイさんみたいなキョトンとした顔になっているんでしょうね。」

 そう言って笑ったケンジ君の顔はトモヤ君と似ていた。

 「ええ、驚いたわ。だってケンジ君も私の心を読むんだもの。ノリさんの超能力がケンジ君にもあるのかと思ったわ。」

 ケンジ君は照れながら、私の話を聞くために席へ着いてくれた。

 「あのね、私はつい先日まで会社の上司の人と不倫関係だったの。でもね、このままではダメだと思ってやっと別れることができたの。」

 今度はケンジ君がまたキョトンとした顔になった。とても表情が豊かな子だ、マナミがお気に入りなのも頷ける。でも、このままだと話が一向に進みそうにないので、私はどんどん話し始めた。

 3年前、私はマナミと同じ部署で働いていた。その部署の上司であるユウキさんと私は不倫をしていた。入社当時からユウキさんにはお世話になっていて、仕事が出来るだけではなく男性としても素敵なユウキさんに恋するのに時間はかからなかった。恋する乙女になったようにいつもユウキさんを目で追いかけた。半年後くらいに違う部署の人からユウキさんが既婚者だと教えてもらった。それでも私はユウキさんを諦める事はできなかった。ある日、会社の飲み会の帰りにユウキさんから2人で飲み直したいと言われた私はOKしてしまった。そして、その流れでそのまま近くのホテルまで行き2人で朝を迎えた。カーテンを開けて差し込んできた朝陽に照らされて、私は自分の犯した過ちに気づいた。私はユウキさんとホテルを出て、すぐに別々に帰路へ着いた。

 一晩だけの過ちだと自分に言い聞かせようとしたけれど、翌日にユウキさんからデートに誘われた。その時の私は断る事もせずに快諾してしまった。ダメな事だと分かっているのに、私はユウキさんへの溢れる気持ちを我慢できなかった。ユウキさんも奥さんと上手くいっておらず、いつもケンカを繰り返す日々を送っていたらしい。いつからかユウキさんは離婚して私と再婚したいと言ってくるようになった。私はその言葉を信じ続ける事にした。

 そうやって私とユウキさんは2人だけの世界へ溺れていった。ユウキさんの奥さんもうちの会社で働いていた人でユウキさんと付き合っていた頃から“美男美女カップル”として有名だったらしく、結婚と同時に寿退社をした事も周知の事実だったため、ユウキさんはいつも会社の人にはラブラブ夫婦を演じていた。私は演じているユウキさんではなく、2人きりの時だけに見せるユウキさんの姿を見て、本当の彼を理解しているのは私だけだと錯覚していた。

不倫関係を続けていくうちに、私はだんだんと自分が分からなくなってきた。“奥さんと別れる。”という言葉をずっと信じていたけれど、いつまで経ってもユウキさんは奥さんと別れずにいた。ユウキさんと2人でいる時は甘い言葉に包まれて幸せ一杯なのに、後ろ姿を見送るたびに私は1人の寂しさと不安に押しつぶされそうになった。でも、不倫関係の私は誰にも相談する事もできずに1人で心の奥深くに悩みや不安を押し込んだ。

 マナミと出会ったのは今から5年前。異動が少なく新卒で配属されるのも稀なうちの部署では、私が新卒で配属されてから誰も異動が無かった。マナミは私にとって初めての後輩で年齢も近かったため、打ち解けるのに時間は全くかからなかった。この頃からマナミと2人でカフェに行って愚痴合戦をするようになった。マナミの愚痴や相談は、私も通ってきた道だったので色々とアドバイスをした。

 「アオイさん、私に何か隠しているでしょ。いや、私だけじゃなくて私たちに。」

 ある日、酔ったマナミが私に訊いてきた。ハイボールを数杯飲んで出来上がっている状態で、私はいつも通り軽く流そうとしたけれど、その日はマナミも逃してくれなかった。

 「アオイさんって笑顔も素敵だし明るいし、アオイさんがいるだけで職場が明るく温かい雰囲気になるのに、どうしてアオイさんは寂しそうに遠くを見るような目をしている時が多いんですか。」

 私は、自分では全く気づいていなかった自分の一面をマナミに見られていた、一番見られたくない自分を。逃げられそうにもなかったので、私は覚悟を決めてユウキさんと不倫していることをマナミに伝えた。マナミは酔いが一気に覚めたらしく、姿勢を改めて私の方を向いた。

 「不倫が良くない事だって私も分かるので、アオイさんが分からないわけがないです。でも、それでも不倫関係を続けているのには理由があると思うので、アオイさんや不倫関係について私が何か言う資格は無いです。結局は本人たちと周りの家族の問題だと思うので。でも、これだけは言わせてください。今のアオイさんが幸せそうには見えないです。でも、私はアオイさんの愚痴とか悩みを聞くことしかできません。」

 そう言ってマナミはお冷を一気に飲み干した。

 「ありがとう。私も今の関係を考え直してみるわ。ねえ、これからは私の恋愛の愚痴も聞いてくれる?」

 「もちろんです!アオイさんの話なら何でも聞きますから!」

 「ありがとう。こうして話すと少し気持ちが楽になったわ。本当にありがとう。」

 私は改めて今の自分が本当に幸せか考えてみた。この関係は誰を幸せにしているのだろうか、いつかこの関係がバレた時に一番傷付くのは私でもユウキさんでもなくユウキさんの奥さんだ。私はこの関係を終わらせようと決めた。

 でも、私とユウキさんで築き上げた2人の世界は簡単には手放せないものになってしまっていた。長い時間をかけて2人だけで築き上げたこの世界には思い出が沢山詰まっているし、何よりもどの世界よりも居心地がいい。本当はこの恋が叶ってほしい。この世界が周りから祝福されたい。でも、叶った瞬間にユウキさんと奥さんが築き上げた世界は壊れる。そうなった時、私たちの世界は誰からも祝福されない。それでも私は答え合わせをするのが怖くてズルズルと不倫関係を続けていった。マナミはいつも私の話を聞いてくれた。でも、決して私の味方になるわけではなく中立の第三者として意見することなく話を聞くだけに徹してくれた。

 結局、そんな関係を続けて2年も経ってしまったある日、とうとう私の心は壊れた。いや前からずっとこうなる事は分かっていた。いつまでも先が見えない2人の関係を続けていけばいくほど2人で築いたこの世界はどんどん立派になっていった。時間が経つほどに手放し難い。そして、私は気づいたのだ。今の私は本当に幸せではないことに。この2人の世界を手放したくないから自分に嘘をついて“自分は幸せだ”と言い聞かせていただけだったんだと。そして、その答え合わせをしてしまった以上は、きちんと覚悟を決めないといけない。

 私は会社を午後から半休した。行く宛も無かったので、久しぶりに親戚の家がある街の海へ行くことにした。小さい頃は夏休みによく親戚の家へ遊びに行った馴染みのある街だったが、ここ最近は全然行っていなかった。私は電車に揺られて懐かしの街へ向かった。

 駅へ降り立つと小さい頃の自分を思い出した。あの頃は不倫や恋愛で悩みもせずに毎日が楽しい日々だったな。改札を出ると駅前の飲み屋はシャッターが閉まったままだった。まだ開店準備にも早い時間だったので、諦めて近くのコンビニでウイスキーの小瓶を買って海に行った。

 いつも遊んでいた海岸へ向かう通りに1匹の猫がいた。猫は私を一瞥するなり横の路地へ入っていった。まるでジブリ映画の“耳をすませば”みたいな展開で、私もその猫を追うように路地裏へ入っていった。雫と違ってウイスキーの小瓶片手に歩く20代女子は絵にならないだろうけれど…。

 歩き続けていくうちに猫を見失ってしまった。でも、この先もずっと一本道のようだったので私はそのまま進んだ。やっとひらけた景色の場所へ出たと思ったら、そこは小さな海岸だった。そこには中学生くらいに見える先客がいた。それが私とトモヤの出会いだった。

 少年はタバコを吸っていて、私が注意をしても全然動じなかった。少しだけ話をしてみると、その少年は反抗期真っ只中でもがいているようだった。

 私は、この少年トモヤ君が少しだけ羨ましかった、今を必死に生きている気がした。だから、そんなトモヤ君が“人生がどうでもいい”と言ったので、私はトモヤ君ときちんと話をしようと思った。話をしてみれば、不良の先輩も昔からの友達も良い人たちばかりで、この子は家族ともすぐに元に戻れるだろうと思った。そして、それと同時に私が不倫を続けている事でどれだけの人が悲しむんだろうと急に怖くなった。私はウイスキーを飲みながら、トモヤ君が持っていたタバコを吸った。普段、タバコなんて吸わないからお酒も少し回ってきた。

 そして、私もトモヤ君に不倫している事を打ち明けた。叶ってほしいけれど叶ってはいけない恋。いや、もう叶ってほしいと思っていなかったかもしれない。トモヤ君はそんな私の話を聞いてくれた。

 夕陽も沈みかけた頃、私はトモヤ君にお互いに約束をしようと提案した。私は“幸せになる”ことをトモヤ君は“家族と仲直り”することを2人で約束してお互いを応援した。
“黄昏の海の約束”は未だに私は昨日のことのように思い出すし、名刺入れに入っているこの紙だけが私とトモヤ君の唯一の繋がりだ。

 私は、トモヤ君とお別れをして帰りの電車の中でユウキさんにメールを送った。

 翌日、2人でレストランで食事をした。きっとこれが私たち2人の世界の最後の晩餐ね、と思いながら最後のひと時を楽しんだ。2人でワインを飲んでいる時、私は改めてユウキさんに別れを切り出した。ユウキさんは、もう一回だけ考え直してほしいと言ったが私は揺らぐことがなかった。ユウキさんは少しだけ時間がほしいと言ってきたので、私は“これが最後の優しさ”
自分に言い聞かせてしまった。優しさではなく未練だって分かっているのに。

 そして、数日後にユウキさんから“俺はもう少しだけ時間がかかりそうだ。でも、お互いのために別れよう。”とメールが送られてきた。私だけでなくユウキさんにとっても2人の築き上げた世界は今の生活から簡単に切り離せないものになってしまっていたのだ。でも、ユウキさんもまた本当の幸せを改めて見つめ直そうとしているんだと思うようにした。一瞬の魔が差して始まっただけの恋だったのに、いつからか2人だけの素晴らしい楽園だと勘違いしていたのだ。悪魔の囁きで創りはじめた世界をエデンの園だと自分たちに言い聞かせて簡単には引き返せないところまで来てしまっていた。この世界はこのまま誰にも壊されることなく2人で静かに壊していこう。マナミやトモヤ君はこの世界を知っても壊さなかった。いつか誰かを巻き込んで更に奈落の底へ落ちる前に私たち2人の手で終わりにする時がきた。ユウキさんはそれからも会社では今までと変わらない良い上司でいてくれたし、何事も無かったように接してくれた。私も今まで通り周りに気づかれずに日々を過ごしていた。

 「最近、ユウキさんとの愚痴を聞かないですね。」

 ある日、いつもの愚痴合戦をしていたらマナミが思い出したように言い出した。

 「実はね、別れることにしたの。今までごめんね。」

 私は、マナミにそう言って頭を下げた。マナミは慌てて顔を上げてくれと言いながら、ハンカチを取り出して渡してきた。

 ハンカチを渡されて自分が涙を流しているのに気がついた。止めようとしても涙はどんどん溢れて大粒になって落ちていく。ああ、こんなにも大好きだったんだな。マナミに背中をさすってもらいながら私は泣き続けた。

 それから私は今まで以上に仕事もプライベートも充実させた。ユウキさんと結ばれるのは諦めたけれどそれ以上の素敵な出会いは無かった。でも、恋愛以外で生活は満たされていった。もちろん仕事もプライベートも順風満帆だけではなかった。でも、その度に名刺入れから四つ折りの紙を取り出しては何回も読み返した。いつかまたトモヤ君と会った時に幸せな自分で会えなかったら恥ずかしいから。

 そして、今年の春。二つの出来事があった。一つは、マナミが辞めたこと。もう一つは、ユウキさんから誘われたこと。

 会社の廊下でユウキさんとすれ違った時に声を掛けられた。

 「アオイさん、今日の夜は空いている?」

 私は戸惑いながらも食事だけなら、と返事をしてしまった。退社して2人で待ち合わせてイタリアンレストランへ向かった。こうして2人で食事をするのは数年ぶりだが、もう何十年も前の思い出のように感じた。

 「俺もやっと区切りをつけられたよ。」

 ユウキさんは静かに言った。話を聞くと、ユウキさんは私たちが別れると決めてからもずっと悩んでいた。ユウキさんにとって2人の関係の始まりは奥さんとの不仲であって、私とユウキさんの世界はそんな奥さんとの生活から離れることのできる唯一の癒しの場所だった。ユウキさんにとっても不倫関係が良くないことは分かっていたし、奥さんと私の2つの世界が両立しないと分かっていた。でも、自分の弱さのせいでどっちつかずの状態を続けていたと告白した。そして、今日この日を迎える前に奥さんに今までの全てを言ったらしい、それを聞いた奥さんはユウキさんと私の全てを許してくれたそうだ。そんな奥さんの優しさにユウキさんは自分の過ちを恥じて今日を迎える決心がついたと。

 こうして、2人の世界に残った最後の欠片を壊した。

 私は、そこまで話すとコーヒーのおかわりをケンジ君に頼んだ。ケンジ君は私の話を終始ずっと真剣に聞いてくれた。そして、私のコーヒーを取りに席を立った。ああ、こんな初対面の子に全部言っちゃった、不倫を続けていたダメな大人なんて言わなきゃよかった。

 「おかわりです。」

 ケンジ君はそう言って、ちゃっかりと自分の分のおかわりも持って再びテーブルへやってきて席に座った。

 「僕はアオイさんの話を聞いただけで当事者ではないので何も言うつもりはありませんが、アオイさんにとっての”幸せ”ってなんですか?」

 そう聞かれた私はとっさに上手い答えが出てこなかった。たしかに幸せってなんだろう。どうすれば幸せになれるんだろう。

 「ケンジ君にとっての”幸せ”って何かな?」

 私に逆に質問されてしまったケンジ君はうーんと少し悩んでから答えた。

 「心が満たされていることですかね。例えば、こうやってバイトをしている時はバイトに夢中になっているし、友達といる時は友達との時間に夢中になっているし、その時その時を楽しめている状態が幸せだと思います。もちろん、悩み事や不安な事は沢山あるしゼロになった時なんて1回も無いです。でも、何かに夢中になっている時ってそういうマイナスな事を忘れてるんですよね。そうやってマイナスな事を忘れさせてくれる友達や家族や環境があるのも幸せだと思います。きっと、アオイさんもそうじゃないですか?不倫だとしても2人の世界に夢中だった時は幸せだったと思います。でも、いつからかその幸せが無くなる日が来る不安に押し潰されてきて夢中になれなかった。やっぱりその時点で幸せではないし、その不安を抱えたまま過ごす生活を終えたことは幸せへ近く一歩だと思います。」

 ケンジ君の言葉は心に刺さった。そうだ、最初は夢中になって2人で築き上げた世界も壊される不安と恐怖でいっぱいになっていった。ユウキさんとの幸せを積み重ねるとその分だけの恐怖や不安も積み重なってきた。やっぱりあの日、私が取った選択肢は間違いではなかった。いや、間違いだと思わないためにもこれからをどうやって生きて行くかが大切なんだ。

 「そういえば、今日行った海岸にこれからもう一度行ったらどうですか?今日は晴れていて風も穏やかだから夕陽も綺麗だと思いますよ。寒いのであたたかい格好をして行かないとダメですけど。」

 ケンジ君は窓の外を眺めながら言った。

 「そうだね。私ももう一度あの少年に会いたいからダメ元で行ってみるね。ケンジ君、今日は本当にありがとう。くだらない話に付き合わせちゃってごめんね。」

 ケンジ君は“いつでも話を聞きますよ”と笑顔で私を見送ってくれた。すっかりと陽も傾いてきたので、少し急いであの海岸へ向かった。

 通りの脇の路地に入ると一匹の猫が私に背を向けるかたちでお座りしていた。あの日に出会った猫ととても似ていた。もしかしたら、と思っていると私の気配に気づいた猫はこちらを振り返った。そして、あの日と同じように私の前をスタスタと歩き始めた。その後を追うように歩いていくとまた途中で見失ってしまった。それでも前へ進むとあの日と同じ景色が目の前に広がった。そこには、制服を来た1人の男子高校生の後ろ姿があった。

 「トモヤ君!?」

 私は思わず大きな声を出してしまった。びっくりしたその子はこちらを振り返りながら立ち上がった。逆光で顔がぼやけてうまく見えない。

 「アオイさん...」

 その高校生の声は私の記憶よりも少し低く格好良くなっていた。間違いない、トモヤ君だ。私はトモヤ君の隣に駆け寄った。近くで見ると3年前に会った時よりもシュッとした顔立ちになって身長も伸びていた。

 「そんな近づかないでください。俺ですよ。今日はウイスキーを持ってないんですね。」

 トモヤ君は顔を赤らめながら3年前を思い出して私をからかった。

 「今日は無いです!というか、今は必要無いもん!」

 私はそう答えると砂浜に腰をかけた。トモヤ君も私の隣に座り直した。こうして2人で海を見ていると3年前に一時停止した映像の再生ボタンを押しているような気がした。

 「アオイさん、あれから俺は家族とも仲直りして、昔からの友達とも未だに仲良いし、そのうちの1人と付き合っているんですよ。これもあの日ここでアオイさんに出会えたからです。」

 トモヤ君は照れくさそうに私に言ってきた。トモヤ君はあの日の約束を守ってくれていた。私だけが覚えていればいいと思っていた約束は、しっかりとトモヤ君の中でも色褪せずに残っていた。

 「私も今、とても幸せだよ。つい先日にやっと不倫関係も解消して仕事もプライベートも充実しているんだよ。私もあの日にトモヤ君と結んだ約束のおかげでここまで頑張れたんだ。これのおかげ。」

 そう言って私は名刺入れから四つ折りの紙を取り出した。

 「ああ、それなら俺も。」

 トモヤ君も財布から1枚の紙を取り出した。

 2人でお互いの紙を見合って大笑いした。あの日、私たちがお互いに約束した紙はクタクタになりながらも、常にお互いの手元に残っていた。こうして3年越しの再会はお互いの約束を果たすことができた報告会となった。お互いに約束を果たすまでの道のりを語り合った。私もトモヤ君も簡単な道のりではなかったことを知り、それでも約束を破らずに今日まで来たことに感動した。

 「ねーねー、その彼女に会わせてよー!」

 「嫌ですよ。照れくさいですし。」

 そうやって断るトモヤ君に何度もしつこくお願いすると、とうとう折れて彼女であるユミちゃんに連絡してくれた。ユミちゃんは丁度学校からの帰り道だったらしく一緒に帰ってるワタル君とその彼女も連れてくるそうだ。ワタル君はトモヤ君の古くからの友人で話も聞いているから大丈夫だけど、その彼女まで来るとなるとどうしよう。勢いでお願いしたものの私は高校生4人が来ると思うと緊張しはじめた。それから3人を待ちながらトモヤ君の学校の話や私の仕事の話をして過ごしていた。

 「お待たせしましたー!」

 元気な声と自転車のブレーキ音が響いた。元気いっぱいで可愛らしい女の子を先頭に好青年の男の子と亜麻色髪の美人な子が来た。3人は自転車を停めるとこちらへやってきた。

 「はじめまして。アオイさんですね。私はユミって言います。この間、トモヤから”アオイさんとの約束”について聞きました。3年前はトモヤを助けてくれてありがとうございました!」

 ユミちゃんは私にお辞儀をした。礼儀正しい子で両親から大切に育てられているのが分かる。

 「いえいえ、あの時に助けられたのは私の方よ。こうやって私もこの紙をずっと大切に持っていたの。」

 私の約束の紙を見るとユミちゃんは目を輝かせた。

 「うわー。すごい。3年も経っているのに二人共ずっと大切に持ち歩いているんですね。」

 「その紙って何か特別なの?」

 ワタル君が聞いてきた。ユミとトモヤは何も知らないワタル君に3年前からの出来事を話し始めた。3人は大盛り上がりでずっと話し続けている。

 「なんか無理やり連れてきちゃってごめんね。迷惑だったよね。」

 私はワタル君の彼女であろう美人さんに声を掛けた。

 「いえいえ!気にしないでください。あんな楽しそうなワタル君を見ていると私も何だか楽しいです。あの3人の話にたまについていけない時は寂しさを感じる時もあるけれど、今は4人の思い出を少しずつ作っているんで毎日が楽しいんです。」

 そう笑う彼女の顔は本当に幸せそうだ。青春を過ごしている4人を見ているとこちらも元気が出てくる。

 「今日は何をされていたんですか?」

 ワタル君の彼女ことカオリちゃんが訊ねてきた。

 「今日は朝にここへ来て、お昼は会社の元同僚の子と美味しいサンドウィッチを食べてきて、しばらくゆっくりしてからここへ戻ってきたの。」

 「もしかして、美味しいサンドウィッチってノリさんのところですか?」

 「ノリさんを知ってるの?そうだよー!あのお店に行ってきたんだー!一緒に行った子のオススメでサンドウィッチセットと今日のデザートを食べてきたの。でね、一緒にいった子は休憩終わって仕事に戻っちゃったから1人でバイトの子とおしゃべりしてたんだー。」

 「そのバイトの方ってケンジさんですか?」

 「よく知ってるねー!そうそう!」

 「実は、私とワタル君が付き合えたのってあの店のおかげなんです。そのキッカケを作ってくれたのがワタル君のお兄さんのケンジさんなんです。」

 「え、ワタル君ってケンジ君の弟なの?言われてみれば、たしかに顔立ちとか似ているかもしれない...。でも、付き合うキッカケってどういうこと?聞いてもいい?」

 私は高校生カップルの馴れ初め話をワクワクしながら聞いた。

 「ノリさんの作ったサンドウィッチをケンジさんが持って帰る予定だったけれど、都合が悪くなって急遽ワタル君が代わりに行くことになったんです。その時、私もワタル君と一緒に帰っていたので、そのまま2人でノリさんのお店に行きました。ノリさんは私も快く歓迎してくれたところに、駅の近くにあるお花屋さんで働いているマナミさんという方がやってきたんです。それから4人でノリさんのサンドウィッチを食べながら話していた時に、マナミさんがワタル君に好きな人を聞いたら、ワタル君が私に告白してくれて...。そこからお付き合いしているんです。」

 頭の中の整理が追いつかない。カオリちゃんが言っているマナミさんっていうのは私の知っているマナミなのだろうか。

 「あのさ、そのマナミさんってケンジ君が初めてデザートを作った人?カオリちゃんに負けないくらいの美人だけど元気な子だった?」

 「デザートの話を知っているんですか?ケンジさんから聞きました?私は美人ではないですよ、マナミさんは笑顔が素敵な美人さんです。」

 「カオリちゃん。実はね、今日一緒にいった会社の元同僚ってマナミのことなの。マナミが会社を辞めてから久しぶりに会おうと思って連絡して今日こうしてここに来たの。」

 カオリちゃんは、ええーっ!と驚いて声を出した。それを聞いた他の3人がこちらを振り向いた。

 「どうしたの?」

 ワタル君が聞いた。

 「あのね、アオイさんってマナミさんが辞めた会社で一緒に働いていたんだって。でね、今日は2人でノリさんのところに行ってきたらしいよ。ケンジさんとも会ったんだって。」

 他の3人も大きく驚いた。特に一番驚いていたのはワタル君だった。そして、ワタル君はここだけの秘密だから...と前置きをした上で”土曜日の女神”の話をしてくれた。土曜日の女神か、たしかにマナミにピッタリだわ。それにしても、世界は広いようで狭い。こうやって人の縁が繋がれば繋がるほど思いがけないところで新たな繋がりが見えるのは面白い。

 「そうだったんだ。というか、カオリちゃんごめんね。3人で話に夢中になっちゃってた。」

 ワタル君はカオリちゃんに謝った。

 「ううん、気にしないで。アオイさんとのおしゃべりもとても楽しくて夢中になっていたもの。」

 ワタル君もカオリちゃんも素敵だ。マナミがおせっかいを焼きたくなるのも無理はない。ついつい応援したくなっちゃうようなお似合いの2人だ。

 「あ、見て。夕陽が沈みそう!」

 ユミちゃんは水平線の向こう側に沈みかけている夕陽を指差した。そのまま5人で沈んでいく夕陽を眺めていた。ユミちゃんは私にだけ聞こえる声で話しかけてきた。

 「トモヤからアオイさんとの話を聞いた時、正直すごいアオイさんに嫉妬しました。でも、今日こうやって会ったらアオイさんの事が好きになりました。私もいつかアオイさんみたいな女性になりたいです。」

 「ありがとう。でも、不倫はダメよ。」

 「そういう意味じゃないです!ごめんなさい!」

 「私こそごめんね、ちょっとからかっちゃっただけよ。ついついユミちゃんが可愛くって。でもね、私からすればユミちゃんもカオリちゃんも私以上に素敵な女の子よ。」

 「ありがとうございます。」

 私とユミちゃんは同時にクスッと笑った。ああ、こうやって素敵な友達に囲まれているトモヤ君は本当に約束を果たしたんだなあと思い、私はポケットの中で名刺入れを軽く握った。

 「そろそろ、私は行くね。」

 これからマナミと飲みに行く予定があった私はそう言って立ち上がった。他のみんなも一緒に帰ることになった。狭い路地を出ると私はワタル君とカオリちゃんと一緒で、トモヤ君とユミちゃんが反対方向だった。

 「まだ約束の紙は持っていてね。私もずっと持つから。」

 私はトモヤ君に手を振った。

 「俺もずっと忘れないように大切にする。」

 トモヤ君は手を振り返して、そのままユミちゃんと帰っていった。

きっと私は3年前の約束と今日の出来事を忘れないでこれからも生きていく。あの日、私は一つの世界を終わらせたけれどそれが私の全てではなかった。こうやって出会って結ばれていく縁が繋がっていってこの大きな世界は成り立っている。その中の一つの世界が終わったとしても大丈夫。たった一つの約束を守るために、私は私の幸せを大切にしていく。

 これから会うマナミとはどんな話をしようかな。


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