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挑戦と葛藤の2021年

大晦日です。
長らく更新できていなかったこちらのnoteを、久々に更新してみます。

2021年11月26日に、妻・後藤雪絵(本名:齊藤雪絵)が享年39歳で他界いたしました。

友人たちへの連絡や、Twitter等SNSを通じてのお知らせをさせていただきましたが、僕の知り合いや雪絵さんのお知り合いの方々などに全て届いているわけではないかと思います。とはいえ、11月29日と30日に執り行われたお通夜/告別式には、250人ほどの方々にお集まりいただきました。
また、その後も自宅の方へ沢山の方々が手を合わせに来ていただいています。12月はほぼ毎日、どなたかに来ていただいているような状況でした。

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ご参列いただいた方、供花や弔電をいただいた方、また自宅へお越しいただいた方、その他にも、個人的に連絡をくれたり、SNSで投稿やコメントをいただいたり、たくさんの方々の想いを日々受け取っています。
本当にありがとうございます。

年明けを迎えるにあたり、一度このnoteを更新しようと思い立ちました。

病気が発覚したのが今年の2月。

昨年の暮れくらいからなんだか足腰の調子が悪く、整体院や整骨院、リハビリテーションなどに通い始めました。かなりの数のクリニックに行くもなかなか改善されず、新しいクリニックをまた訪ねる、ということを繰り返していました。

そんな中、2月9日にいよいよ立つことが困難になり、救急車を呼んで病院へ緊急搬送。その検査の中で、腫瘍が見つかりました。
1週間ほどの検査入院、そして悪性であることがわかりました。

コロナの影響もあって面会ができず、電話での報告を受けた際。
雪絵さん本人が力強く言った言葉を今も覚えています。

「私は抗がん剤治療も放射線治療もやらない。違う方法で絶対に治す。だから、一緒にその方法を探していってほしい。これからの生き方について、一緒に考えていきたいです。」

そして、病気のことは誰にも言わず、二人で治していきたいということ。

雪絵さんのシンガーソングライターとしての活動の中で、結婚していることも公式には発表していませんでした。病気を治し、二人でその困難を乗り越えた証として、改めて結婚披露宴を行おう、という約束をしました。

そこからの二人での闘いの日々。

30冊に及ぶ本を読み、治療に関しての知識をどんどんと蓄えていきました。
数え切れないほどのクリニックに通い、代替治療、自然療法など、東洋医学を中心とした治療を行い、自宅でも出来る限りの療法を行いました。

添加物、砂糖、乳製品、精製小麦粉、白米などを徹底して摂らず、代わりに玄米や無農薬野菜を中心とした食事制限。無農薬野菜を取り寄せる販売サイトとも契約しました。体温を上げるために、これまであまり摂らなかった肉類も良質の鶏肉を中心に摂取。抗生物質を打った鶏の卵を体が受け付けなくなったため、平飼いで飼われた鶏の卵を取り寄せ。使用する油なども全て改善しました。塩素除去されたマグネシウムと重曹のお風呂に毎日漬かり、そのおかげで基礎体温も1度以上上がりました。水素水やよもぎを毎日摂取し、スロージューサーを購入して人参ジュースも毎日摂取。腸内環境を整えるためのサプリや、造血成分を多く作り出すサプリ、その他様々な漢方薬も、お世話になっている漢方の先生のアドバイスのもと色々と摂取しました。ロシアなどでは医療認可されているメタトロンにて、波動療法などもずっと行いました。枇杷の葉の成分を使って行う温灸にも通いました。自律神経免疫療法の考え方のもと、白血球のリンパ球を増やすための施術も行いました。

まずは左脚に固まってしまった血栓を流すための治療から始まり。
併発していたヘルニアなどの痛みを改善するために、腫瘍治療に理解のある整体院を探しては通い、また違う整体院を探しては通い、を繰り返しました。

おかげで5月ごろには立って歩けるところまで改善し、スクールの周年BBQにも車椅子で参加したり。その時に「こんな日があるから生きていられるよね。」と言っていたことを思い出します。

とはいえ、痛みがない日はなく。
自宅が階段だったため引越しも検討しましたが、なかなかいい物件に巡り合えず。雪絵さんの「この部屋気に入っているから、この部屋で過ごしたい」の言葉を機に、物件を探すことは諦めました。

僕はといえば、朝ごはん、昼ごはんを作った後に、仕事を3時間〜5時間くらいの間に終え、食事の時間には必ず帰宅して料理をする日々でした。それでも、元々敏感な彼女の舌には合う、合わないもあり、苦悩の毎日でした。症状が良くなっては悪くなり、痛みがマシになっては悪化し、の繰り返しの日々。痛みを和らげるマッサージを毎日2時間以上行う時期もありました。

病院での検査も、よくなる部分もあれば悪化している部分もあり。特に貧血には悩まされ、輸血も病院・自宅で3回ほど行いました。

それでも、本人の強い希望もあって入院は一度もせずに、往診の先生に来てもらってずっと自宅で治療を行いました。

6月ごろには、40度の高熱が1週間続いたこともありました。救急車で病院に緊急搬送されるもはっきりした原因はわからず、本人は入院を拒否。その後、ずっとお世話になった豊中のクリニックの先生の施術で、なんとかその危機を乗り越えました。

8月ごろには痛みがさらにひどくなり、夜中にのたうち回って絶叫するような日もありました。緊急往診で痛み止めを打ち、睡眠薬で無理やり眠りにつくような日も。ずっと拒否していた医療用麻薬も使い始め、なんとか痛みを抑えながら格闘する日々を過ごしました。

改善に向かう兆しもあった中、9月末にはせん妄の症状が現れ、10月3日に一度意識を失い緊急搬送されました。目を覚ましてはいたものの意識レベルが低下し、言葉も喋れず、食べることも飲むことも困難な状況となり、流石に緊急入院となりました。医師の先生には「あと数日」との厳しい診断も受けました。
意識が朦朧としていて、こちらの問いかけにあまり反応できていなかった状況下でも、「家に帰りたい?」の問いにだけは必ず頷いていました。
なんとか自宅に帰らせてあげたい。少しでも元気になってほしい。すがるような想いで、毎日飲んでいた人参ジュースを自宅で作り、水筒に入れて病院に持っていった時に、雪絵さんがそれを飲んでくれたときの感動。そしてそのころ毎日食べていたマスカットをカットして持って行き、それも食べてくれた感動。それをきっかけに、少しずつ食事も取れるようになり、意識も搬送前よりもだいぶはっきりとしてきて。自宅に介護ベッドなどを手配し、僕も毎日介護の練習を病院でさせてもらい、入院は5日のみで退院することができました。

それ以降、僕は仕事を全てキャンセルさせてもらい、毎日自宅で一緒に過ごしました。訪問看護の看護師さんにも毎日1時間は来ていただき、僕にはできない作業をしてもらいました。
退院後数日で、立てはしないもののすっかり元気になり、「なんで私入院していたの?」と不思議がるくらいには回復しました。食欲も旺盛で、何を作っても「美味しい」「ありがとう」と言って食べてくれるようになりました。

それからの2ヶ月弱。痛みはあったものの、本当に穏やかで幸せな日々でした。
ある時、「慶司さんは私の要望を全て聞いて、全て許容してくれているよね。本当に感謝している。夏頃には、余裕がなさすぎて、わがままばかり言って、慶司さんのやってくれることを全く許容して受け入れることができていなかった。後悔している。ごめんね。気づけて良かった。いつもありがとう。」
と言ってくれて、二人で号泣しました。

そんな幸せな日々の中、看護師さんが一枚の写真を撮ってくれました。

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化粧をしていない写真をあげるとなんだか怒られるような気もするけど、すごく大切な写真です。
看護師さんが急に「そういえばお二人の写真ってあんまり撮っていないんじゃないですか?撮りましょうよ!」と言ってくれて。二人で「写真とってもらう?」と笑っているところ。

この翌日、いつものように晩ご飯を食べ、みかんも食べて、「おやすみ」と休んで。朝になり声をかけても目を覚まさなくなり、その晩に息を引き取りました。

最期の1日は瞼を開けて話すこともできなかったけど、1日ずっと一緒にいて、いろんな音楽を聴いたり、話しかけたりしながらゆっくりと過ごしました。苦しい表情をすることは一度もなく、本当に穏やかに旅立ってくれました。


コロナの影響で、最期の看取りを家族でもすることができないような環境の方もいる中で、本当に恵まれた環境だったと思います。10カ月という期間、看病に専念させてくれた周りの方々には感謝してもしきれません。

おかげさまで、夫婦として、本当に大切で宝物のような時間を過ごすことができました。

二人で葛藤し続けた日々。その記録をとり続けたノートがあります。またその気になった時に、その内容をこのnoteでも書いていこうかなぁ、とぼんやり考えています。


明日からは2022年、新しい年が始まります。

前を向いて頑張り続けた雪絵さんと一緒に、来年も頑張っていきたいと思います。
これからも沢山の方のお世話になります。

来年も、どうぞよろしくお願いします。
良いお年をお迎えください。

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