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隠し子の叫びー半世紀後の父との再会物語

タイトル:隠し子の叫びー半世紀後の父との再会物語
    
ペンネーム:Dr. Nahomi Swan (スワン南保美博士) 

自己紹介:スワン南保美博士。海外在住の日本人女性。ユング派志向心理士・執筆家。クリスチャンだが幅広い精神性に関心を抱いている。 座右の銘は「傷ついた癒し人」(H .J.M.ナウエン、2016)。

あらすじ

「隠し子の叫びー半世紀後の父との再会物語」 は海外在住日本人女性・ユング派志向心理士である私の自伝だ。最近、半世紀後に幼少の頃生き別れた実父に繋がるという不思議な体験をした。この体験により想像を絶するような喜びと苦しみの混じった非常に複雑な心境を味わい、日本の単独親権制度の恐ろしさを噛み締めている。父は50年後に再会した私が心理学博士・カウンセラーとなって国際舞台で活動をしていることを知り大変喜び、「あなたはこんな父の心を癒してくれた。世界一のカウンセラーだね」と私に伝えた。「世界一のカウンセラー」父から貰ったこの勲章の言葉は私の心の真ん中に刻まれ生きる勇気を与えてくれている。50年の過去を振り返り、自分の歴史と向き合い、書き始めるということは辛い作業でもある。しかし、このストーリーを書くために今まで生きてきたのではないかとさえ感じるため、人生の中間地点に立つ今こそ、更なる前進をするために、半生を振り返りタイムトリップに出かける決意でこの自伝に臨んだ。私の手記が日本を始めとする単独親権国家や片親疎外症候群の問題点を一人でも多くの方々に再考して頂ける機会となれば幸いである。

プロローグ

   私のこの自伝のメインテーマは奪われた父性を奪還するための半世紀の旅である。私は4年前に、2歳の時に生き別れた実父と50年ぶりに繋がった。この希有な体験は感動と喜びと怒りと切なさが入り混じったなんとも言葉にし難い出来事であり、自分の心の癒しのために書くことが何よりの先決課題であると思い、重苦しい心を抱えつつ早速書き始めたが、半世紀を振り返らけねばならないこの自伝作成は決して容易なことではなかった。50年の人生の一つ一つの出来事を心の中で紐解き、整理し、感情と闘いつつ冷静に見つめ直し、何度か書き直さなければならなかった。石の上にも三年。やっと一つの文書として収めることができるまで、やはり、3年かかってしまった。
   そもそも、この父親との再会に纏わる想像を絶するような喜びと苦しみの感情は、単独親権社会の中で私と同じように不意に片一方の肉親や実子と引き離された体験をした人にしかなかなか伝わらない。この引き離される体験はまるで喪失体験と同様なのである。私は前夫を癌で失っているが、今回の父についての真相を知ったことは未亡人の苦しみに匹敵するものであった。父について半世紀の間、同居家族より、彼は私を棄てた悪者だと聞かされてきた。その父に実際に巡り会った際、自分のこれまでの目や耳を疑うほど素晴らしい人であることがわかり驚嘆した。父は私と姉の親権を自ら放棄したわけではなく、これまで父と母との間での秘密のやり取りがあり、私は母一人の決断によって父を失っていたのであり、それを母が50年間も隠し続けてきたことを最近知った。この父に関する真相を実の娘でありながら知ることができず、私の知らないところで、私は父を失い、父は新しい家族を築くこととなり、父に巡り会うと同時に父を失ってしまったという意味で、この体験は私にとって大きな喪失なのである。この父に対する喪失の思いとは、このまま真相を知らないままの方が良かったかもしれない、父が見つかっても死んでくれていた方が、よっぽど心が楽であったかもしれないといったほどのもがき苦しむような心理状態なのだ。
   この半世紀後の父との再会は、運命や神業としか思えず、もっと早く出会えていたらと悔しい思いに駆られながらも、父と別離した50年という月日は予め定められていたと納得せざるを得ない。私は現在海外に在住し、アメリカンスクールでスクールカウンセラーとして勤めている。肩書はカウンセリング心理学博士、ユング派志向心理士。50年前に生き別れた娘が、突如現れ、博士として成長し、国際舞台で奮闘していることを知った父は大変感動し、私に語った。「あなたは、こんな父の心を癒してくれた。世界一のカウンセラーだね」50年後に繋がった父から貰った「世界一のカウンセラー」という言葉は最高の勲章として私の心の真ん中にしっかり刻まれている。思えば、私のこれまでの波瀾万丈の人生はこの「世界一のカウンセラー」という父からの贈り物の言葉に凝縮されている。このように父に褒められる日まで私は無意識にも父という名の理想の「父性」を心に抱きながら上へ上へと登り詰めてきたように思う。何故か自分でもわからないままに、何かを求めて走り続けて来て、山頂に立ちやっと一息したところで父に巡り会ったのだ。心の旅はまだまだ続きそうだが、50代の今、ある程度、ユングのいう「個性化」の道の真ん中あたりまでは辿り着いたことができたような思いでいる。単独親権社会の犠牲者であり、父の隠し子のようになってしまった傷ついた1人の娘として、両親の離婚や不仲の中で苦しむ子供達の心の癒しに日々携わる1人の心理士として、私はこの半世紀を振り返る苦しい作業に着手した。50年を振り返ることは、これからの50年を作り上げることと信じ、一文一文書きながら、新たな人生の一歩一歩を切り拓いていこうと思う。

少女時代

   私の両親は幼少の頃離婚し、私は母方の家族に育てられた。父親が不在となってからの我が家は様々な事情も重なり、生活が困窮し、一家心中を企図したこともあったほどの苦労をしたと聞かされている。シングルマザーとして忙しく働かなければならなかった母に代わって私を育ててくれたのは祖父母であった。祖父母は熱心な新宗教信者で、特に祖母は布教師であったため、母親代わりであった祖母から受けた精神的、道徳的、思想的影響は私にとってかなり強いものとなった。祖母からは「あなたのお父さんだった人はあなたを棄てた悪い人だから、迎えに来てもついて行ってはいけない。大人になっても探してはいけない。あなたを一人で育ててくれるお母さんに親孝行をしなければいけない」と幼い時から繰り返し聞かされてきた。この祖母の言葉は呪文のように私の心に刻まれ、つい最近まで疑うことなく信じ切っていた。又、祖母からは「あなたが今生父親のいない家に生まれてきたのは因縁によるもので、前生の行いが関わっているから、今生は精一杯人を助け信仰をしていると来生は父親のある家に生まれてくることができる」とも言い聞かされてきた。私はこの「因縁」の教えを真剣に信じ、祖母のような人を導き助ける布教師になって、社会の弱者のために貢献できるような人となろうと考えるようになっていった。
   祖父母は私を父親のいない可哀想な子であるとして大変甘やかし溺愛した。そのため、私は未だにマッチの火がつけられない等子供のような部分があり、高齢者に育てられたことがよく分かると、夫には笑われながら随分助けられている。私には祖父という父の代わりがおり、祖母と母(母は怖い思い出しかなくあまり好きではなかったが)という二人の母もおり、「親神様」という神様もついているから幸せであると思っていた。しかし、幼少の頃から暗闇が怖かったり、よく泣いたり、悪夢を見たり、夢遊病の症状があったのは、父を突如失うというトラウマがあったためだと思う。いつもなんとなく心の真ん中に穴が開いているような気持ちでいた。祖父が私の父親代わりと思っていても、少しだけ記憶にある父は優しい人であったし、どこかで生きていると聞かされていたので、父に会いたいという気持ちはあり、小学校低学年の時は、父に宛てて書いた手紙を庭の土の中に埋めたこともある。良い子にしていれば、一生懸命生きていれば、きっといつか父は私を迎えに来てくれるだろうと心の片隅で思っていた。
  家で父の話題を出すことはタブーであったので、父に会いたいとか父がどんな人だったのか知りたいなどど口が裂けても言えず、その思いを一生懸命殺しながら明るく無邪気な子供のふりをして生きてきた。父という人間は、この世に存在すべきでない「悪者」や「魔物」として徹底的に頭の中に叩き込まれ、自分が受け継いだはずの父の良い部分も、他の人のものであるように聞かされた。例えば、私は小さい頃から、人前で話をしたり、文章を書くのが上手だと褒められ、弁論大会や作文コンテストなどで表彰されることがよくあったが、「母親は勉強が全く好きでない非行少女のようだったのに、誰に似たのだろう。きっと文章が上手なのは祖母似で、人前で話をするのが好きなのは叔父に似たのだろう」と親戚たちは話していた。私は、大衆の前で話をしたり舞台で発表したりするのが好きだから、アナウンサーや舞台女優になりたいということを小学生高学年の時に家族に話した。すると祖母が、「あまり有名になって父親に見つかると大変だから、その夢は諦めて欲しい」と私に伝え、寂しい思いをしたのを覚えている。
   私は幼少の頃から祖父母との関係が良かったが、母と姉とは上手くいっていなかった。姉は私よりかなり年上で、母は二人の子供を育てる自信がないと姉が小学生高学年の頃養女に出したが、姉は耐えきれず一年で戻ってきた。姉が戻ってきてからテレビ番組の取り合いをしていると祖母が姉に言った。「あなたは戻るべきじゃないのに戻ってきたのだから妹にテレビ番組を譲りなさい」と。その祖母の言葉は大変姉にはきつかったと思う。その時からのように思う。姉が私と遊んでくれなくなったのは。又、私は姉と違って祖父母の信仰する新宗教に非常に熱心になっていったので、祖父母からは私の方が可愛がられていたことが憎かったことも、姉に冷たくされてきた理由であると思う。今思えば、姉は私より父の思い出が鮮明にあり、父との生き別れは大変辛かったであろうから、その苦しみの反動が私への八つ当たりになっていたことも原因だったと思う。姉と母は仲のいい姉妹のような関係を築き、その二人の中に私の入る居場所はなかった。
   私は幼少の頃から母を大変恐れていた。私にとって母は、お母さんというよりは、時々家に帰ってくる怖くて美人なおばさんという印象の方が強かった。それでも母をもちろん恋しいと思ってはいたので、母との関係は複雑なもので、それは年を重ねるごとに一層厄介になっていった。母は若い時は髪を金髪に染め、ミニスカートを履き、親を困らせるほどの当時には珍しい常識を逸脱した人であったようで、性格も大胆で愉快な人である反面、言動がきつく、周囲が傷つけられることが多々あった。祖父母にしてみれば、非行少女のような母が結婚し無事に家庭を築くことができてほっとしていたのに夫との不運により皆が苦労する羽目になってしまったというようなどんなにか遺憾な思いであっただろう。
   私が小学生に上がる頃、女手一つで二人の子供たちを育てるには水商売しかないと考えた母は事務職を辞めてスナック経営を始めた。不眠症も伴い、イライラすることが多く、私は八つ当たりをされ、それを見て祖母や姉が私を母から庇ってくれるようなことがよくあった。母は市内中心部のアパートに住み、水商売に勤しんだため、1週間に一回しか家に戻らず、母が帰ってくるのを待ち望み、色々私なりにお持て成しをしたつもりが逆に怒られてしまうようなことが多々あった。小学校高学年の頃のことである。ある日、今日は母が帰ってくる日だと思い、朝から外に出て野花を摘んできて小さい花瓶に入れサイドボードの上に置いて待っていたが、母が戻り、その花を見た瞬間、「なんだ、こんな汚い邪魔なもの置いて!」といって私が置いた花であることを知りながら、ゴミ箱に捨てられた。それを見ていた祖母は「あなたが帰ってくるのを1週間も待ち望み、この子は、このお花を飾ったんだよ」と言い、母を叱ってくれた。母の誕生日の日に母が仕事で会えなかったから、誕生日のプレゼントをお小遣いを貯めて、日曜日に帰った時に渡したが「こんなものくれて。要らないのに」と言った。そんなやり取りを見て、姉が私をいつになく庇い、母の言動を正してくれた。
   そんな風な仕打ちを受けながらも、やはり肉親である母が恋しく、月曜日の午後叔母が母を近くのバス停まで車で送っていった際、ついて来なくて良いと言われたけれど、バス停まで見送りたいとついて行き、車の中で母の手を握ると、「触るな!」と言われ、手を避けられた。涙を流し始めても慰めの言葉もなかった。当時11歳だった私は、あまりにも悲しすぎて、その瞬間、車から飛び降り、路上に走り出ていっそのこと自殺してしまおうと心の中で考えた。しかし、「全ては因縁の成せる業」という祖母の言葉が思い出され、こんな母親の下に生まれ苦しんでいるのも自分が犯した前生の悪い行いのためなのだと自分の心の底で反省するよう試み、「神様、助けてください!」と心の中で叫ぶしかなかった。
   私は今でも暗闇が怖く一人で寝ることに苦労する。夫がいない日は飲酒や睡眠薬に頼り部屋の灯りやテレビをつけたままでないと眠ることができない。自分の睡眠に最善な環境が整わなければ、金縛りにもよく遇う。恐らくそれは父親を突如失ったトラウマや母からの心理的虐待による精神的苦痛によるものではないかと思っているが、母と祖母は一人で寝なければいけないと幼い頃私を無理やり一人で布団に寝させた。9歳の時、ある日怖くてシクシク泣きながら眠りにつく努力をしていたら、母がやってきて「袋に入れて外に出すぞ!」と私の身体を揺すりながら私を叱った。私は「お願いです、助けてください」と言いながらも心の中では、袋に入れて外に出してもらった方が街灯の灯りで安心して眠れるだろうし、袋に入れられたまま泣いていたら、きっと見知らぬ優しいおじさんやおばさんがやって来て私を助けてくれるかもしれないからその方が良いのにと思っていた。
   他にも思い出したら、きりがないほど母から受けた心理的虐待のエピソードは数々ある。自分が口が立つようになってからは、母親に言い返したり、彼女を傷つけたこともあったので反省はしているし、彼女との関係はお互い様の部分も多少あるとは思う。しかし、私が幼少の時受けた心理的虐待は見逃すことができるレベルの問題ではない。自分が悪くないのに叱られ泣かされたことは、一生の傷となって残っている。そのエピソードの一つ一つを私は生涯忘れることはできないし、彼女を赦し、過去を手放すこともできない。母も家族の誰も今でも気づいていないであろうが、私は、母のために、何度もこれまで自殺未遂を繰り返してきた。しかし彼女から受けた心の傷の意味を追求するうち、私は人の傷を癒すお手伝いができる心理士になりたいと思うようになった。その意味で私は心の傷に感謝をしている。なのでこれからもこの傷が無駄にならないように、精一杯カウンセラーとして生き続けたいと思っている。あんなに苦しくても、スクールカウンセラーなどいなかった時代なので、祖父母から教わった新宗教の信仰を頼りに一人で悩みを抱えるしかなかった。
   子供の頃からたくさんの夢を見てきたが、母に関する恐ろしく印象的な夢が二つある。8歳の頃の夢。川の激流の中で溺れかけている。溺れることも怖かったが、背後から追いかけてくる母に捕まることも同じくらい恐ろしく、一生懸命母から逃げようと泳いでいた。5歳の頃の夢。母と遊園地に来て、私はコーヒーカップに一人乗せられ楽しく遊んでいた。コーヒーカップが止まり降りた時に、待っていると思った母親がおらず、私は1人激しく泣き続けた。少女だった私は、このように夢という無意識の世界の中で懸命に心の葛藤の解決を模索していたのだ。
   祖母からは、「あなたのお母さんはあなたを一人で育ててくれるのだから、大人になったら親孝行をしなければいけない。けれどお母さんの素行は悪いからお母さんのような人になってはいけない」とよく言い聞かされた。これは子供にとっては難しい注文だったと思う。親戚のおじさんやおばさんたちも、私のことを不憫だと思いながらも「かわいそうにね、でも我慢してね。お母さん、お父さんいない分、人の二倍苦労して働き、あなたを育てているから、あんなきついお母さんだけど、わかってあげてね」と優しい言葉をかけられ慰められた。母には兄弟姉妹がたくさんいたが、何故か母だけ非行少女のように育ってしまい、他のおじさんやおばさんたちは、祖父母に似て上品で常識的な人たちばかりだったので、父に棄てられ、母に虐待される運命を抱えて生まれてきた私はただただ前生の因縁の行いを神様にお詫びしなければいけないのだと思っていた。そうは思いつつも思春期の頃はそんなおじさんやおばさんたちに従姉妹が反抗的な態度を取るのを見て羨ましくなり、私も一度やってみようと思い試してみたこともある。すると母は咄嗟に「こんなに女手一つで懸命に育てているのに何様だ!」と私を怒鳴った。その時、シングルマザーの娘には反抗期の健全な反抗も許されないのだと思い知り、母に心を開いて語り合う関係になることは私には無理なのだと実感した。
   私が高校生の頃、母の水商売が成功し始め、親戚のおじさんたちよりも稼ぎが安定し始め、おじさんやおばさんたちは、母を一層庇い褒め始め、何か私が良いことをしても、私が直接褒められず、一生懸命一人で育てた母のおかげだと言われることが多くなっていった。そのため、私は自分の存在価値がわからなくなってしまった。又、母は、生計を立てる道は水商売しかなく、二人の子供がいなければとっくに死んで楽になっていたのにこんなに苦しく働き続けなければいけないとよく口にしていた。(しかし店に立ち、お客さんと一緒にタバコを吹かし大声で笑いながら会話をする母は決して苦しみの只中にいるだけのようには見えなかった。)母からこの言葉を聞く度、私は「生きていて御免なさい。私さえ死ねばお母さんは楽になるのに」といつも思っていた。新宗教の信仰が支えになりながらも希死念慮の思いは心の中にいつもあった。
   姉はこうした母にうまく対応し、仲良くベストフレンドのように生きているので羨ましく不思議に思っていた。母はよく「お姉ちゃんは足で蹴飛ばしても平気な子だったのに、あなたは扱いが面倒な子だ。それにいつもあなたは何か考えている。お姉ちゃんのように何も考えずに楽しく生きれないのはおかしい」とよく話していた。私はどうしても母や姉と馬が合わず、もうこれには対処方法がなく、自分の世界を作り上げていくしかないと思い始めた。そして、この人格形成の過程で、新宗教の「因縁」という教えによる洗脳、「悪い父の娘」という人格の半分の否定、全てが母のおかげというシングルマザーへの親孝行という美徳への服従を強いられる娘の苦しみと踠きが私の心の中で渦を巻き続け、その渦が段々大きくなり、少しずつ私のアイデンティティ形成を狂わせ、自分の存在意義を不確かなものにさせていったのだと思う。そんな心の混乱に蓋をして「親神様」と祖父母と母という「親達」に守られている私は幸せだと思うように自分の心を無理に仕向けながらも、心の真ん中の空洞は真に埋まることがない不安定な日々を送らざるを得ない少女時代を過ごさなければならなかったのだ。

大学生時代

   私が大学生になる頃は、バブル全盛期で母の店も非常に景気が良く、私は地元を遠く離れた私立大学へ通わせてもらうことができた。その頃祖父は他界し3年ほど過ぎていたが長寿を全うした祖母は健在であった。母は私が大学へ行くことは経済的余裕があってもあまり良いことではないと思っており「女は短大くらいでいいのに」などと口にしていた。だが、私は将来、祖母のような新宗教の布教師をする傍ら英語の教師になりたいという夢を抱いていたので、どうしても新宗教の本部がある地域の大学に進学し好きな英語を専攻したいと考えていた。英語科を選んだ時、母が「あいつも勉強や英語が好きで就職してから夜間の大学に入り直し英語を勉強してたから、やっぱり親子だから似てるんだね。嫌だね」と笑いながら言ったので、普段会話に出ない貴重な父の情報を聞けて嬉しく、もっと聞き出したいと思い尋ねると「あんな男に会いたいのか?」と言って大声で笑われ、それ以上聞けなくなってしまった。ただ母はその時、姉の結婚式や二人の娘の節目がある際、私たちの写真を共通の友人を通し送っていると言っていたので、母も案外優しいところがあるのだなあと心の中で思っていた。
   花の大学生時代であるはずなのに、当時、私は鬱病のような状態になっていた。寝ても寝ても眠くて仕方がなく、いつもなんとも言えない虚無感があった。しかし、当時はカウンセリングは今ほど普及していなかったし、何よりも新宗教の信仰者として、心の問題を信仰の外で解決しようとするのは良くないことと思い、臨床心理的支援は受けず、心の中で自分の世界や価値観を築き上げていくことに一生懸命だった。「父に棄てられた私だけど前を向いて生きていこう。与えられた教育に感謝し、社会的弱者を助ける人となろう。夫に棄てられた女性が水商売以外に生きる道がないと母のように思わなくても済むようなシングルマザーたちが生きやすい社会を築き上げることに貢献しよう」そんなことをいつも考えていた。その反面、どこかで生きていると聞く父のことをやはり知りたいという気持ちを抑えることができずにいた。
   ある日、大学の寮に突然毛皮のコートの贈り物が届き、差出人がデパート名だったので、きっと父が私にプレゼントしてくれたのだと思い、喜んで母に電話したことがあった。「毛皮が届いたよ!」と母に伝えると、「あ、それ私が送ったの」と母は言った。私は心の中で一気に寂しくなり、「あ、そうなんだ。名前が書いてなかったからお父さんが送ってくれたのかと思ったの」と言ったら、母が電話越しで申し訳なさそうな声を漏らしたのに気づき、私はその時少し不思議に思った。その後、自由が利く大学時代の今こそ、父を探し始めるチャンスだと思い、大学の先生のアドバイスを受けながら父を探し始めようとしたことがあった。しかし、捜索をしようと思えば思うほど、祖母の「悪い人だから探してはいけない」という呪文が思い出され罪悪感に苛まれたし、何よりも、探し当てて期待を裏切られ落胆してしまうような父であればそれも寂しいだろうと思い、心の中に理想のお父さんを抱きながら生きていこうとある日決意をしたことを今でも鮮明に覚えている。その日、私のアルバムの中にあったたった一枚の父の写真を剥がし、特別の宝箱に大切に仕舞い、その箱を抱きしめた。今思えば、あの時から、いや、50年前に父が家を離れた時から、自分ですら気づいていない時もあったかもしれないけれど、ずっと父を内的世界の中に抱き、心の中の父性を探す長い旅は始まっていたのだろうと思う。
   大学生の時、一番苦痛だったのは長期休暇で実家に戻り、母のスナックを手伝うことだった。酔っ払いのおじさんたちに体を触られたり、カラオケのアダルト動画を見ながらデュエットの相手をしなければならなかった。私は夫に棄てられた惨めなシングルマザーの娘なのに大学に行かせてもらっているのだから、これくらいのことは我慢しなければいけないのだろうと思っていた。スナックは不倫相手と落ち合う愛人たちの場所になっていたり、母自身の道徳観にも納得できないことがあったため、そのような世界で生きる母をいくら私を懸命に育ててくれているシングルマザーであっても、心より尊敬し労ることができなかった。本当に母にはこの仕事しか生きる術がなかったのかといつも考えていた。
   姉と母はタバコの煙を吹かしながらブランド物の衣類や宝石や美味しい食べ物の話をよくしていたが、私はその二人の中に入ることができず、いつも一人で考えていた。私の父は何故私を棄てたのだろうか。少ししかない父との思い出は良いものばかりだが、何故父は突然「悪い人」になったのか。母のように水商売しか道がないと考えるシングルマザーのような社会的弱者が生まれない日本社会を作り上げるにはどうしたら良いのか。私はいつも人生の意味や生きる哲学について考えており、そんな私を見て母は考え過ぎでカッコつけているだけだと言っいた。なぜ、姉のように何も考えず、楽しく普通に生きれないのかとよく私に尋ねた。
   母はよく私に辛く当たった後、反省し、翌日に謝罪の言葉の代わりに高価な贈り物をしてきた。私は母から物をもらう度に心が虚しくなっていった。私が欲しいものはそんなものではなかった。ブランド物の洋服など着れなくてもいい。美味しいものがお腹いっぱい食べられてなくてもいい。知的で穏やかな父がいて優しい朗らかな母がいて、皆で慎ましく分け合いながら食事をし、一家団欒の会話を楽しむ。そんな親戚の家のような普通の家族が私も欲しかったのだ。しかし、それを母は私に与えることができない。だからこそ物やお金を与えてくれるというのは論理では理解できていたのだが、私の心は受け入れることができず、軽鬱状態が続いていたのだと思う。
   恋愛はうまくいかないことが多かった。それは多分、出逢う男性一人一人に理想的父親像を投影していたからだと思う。「この人も、私の父が私を棄てたように、きっと私を棄てるのだろう。そうされないように私の全てを捧げよう。そうすれば、この人は私を見捨てないかもしれない」といった感情を関係を持った男性たちに常に抱いていた。このような私の感情は相手の男性にとって大変重かったために、良好な恋愛関係を築くことができなかった。母は、恋愛でうまくいかないのは、私の顔が父親に似て醜いからであり、幸せな結婚をするためには美容整形手術をすべきだと言い、お金ならいっぱいあるからそうしなさいと強要され、私がそれは私のポリシーに絶対的に反すると断ると「こんなにあなたのことを思って懸命に働き、良いことを言ってるのに」と憤慨され、機嫌を損なわれたことがある。こういった母とのやり取りが重なり、私はいつしかフェミニストとなっていった。「女であるが前に人間でありたい!」母のような美人ではない自分だからこそ、身なりに気を配るのではなく、心を磨き、学問を極め、精神性を高める道を選ぼうと私は思うようになったのだ。

海外生活の始まり

   私はいつしか、母と距離を置いて生きることが互いにとってベストなのだと理解し、海外生活の道を選んだ。母はいつも姉に「なぜあの子はいつも私から離れていくのか」と寂しそうに語っていたというが、母は心の奥底では、自分が奪ってしまった父親を探し求める心の旅を私が無意識にも行なっていることを薄々気づいていたのではないかと思う節がある。私が駆け落ち同然で日本の難関な資格試験に合格したことも放棄して、母から逃れたい一心で、ヨーロッパ人の恋人の所へ我が身一つで渡った時、旅立ちの数日前に自分のダイヤモンドの指輪を私のサイズに合わせて、私にくれた。デザインが古い物だったので、母が若い時自分で購入したのかとずっと思っていたが、後でその指輪は父からの贈り物であった可能性があることを知り、父を奪ってしまった母の私への謝罪の気持ちと父の私への愛を少しでも託したいという思いがあったように感じられる。
   海外生活が始まる中で、いつしか私は新宗教から脱会し、クリスチャンになっていた。母からコントロールされている気持ちが苦しく、「母の娘」という重く苦しい状況から抜け出すためには、新しいアイデンティティが必要だと思ったことが洗礼を受けた理由の一つである。自分は母の娘という「人間に属するもの」ではなく、「主のもの」であるというキリスト教の教義に心より安堵していた。そしてもう一つ、クリスチャンになり心が楽になったことは自分は1人の「罪人」であるという自覚であり、それにより前生の「因縁」を切り自分の心を自力で直すという教えから解放されたことである。また、クリスチャンへの回心によって、神を「親神」ではなく「父なる神」と言えることは、地上で父と呼べる人がいなかった私にはこの上なく嬉しいことでもあった。慕っていた祖父母に教わった新宗教の教えを30年以上棄てきれなかったのは祖父母との密な心的関わりや長い年月の洗脳の力もあるが、1人のフェミニストとして「親神」という両性具有的「神格」の概念に惹かれ、その教義の中にフェミニズムを開拓していくことを生きがいとし、30歳前後には某一流大学大学院の宗教学科入学を試み、この研究テーマに挑もうとしていた経緯とも関連している。いつも「何かが違う、何かがある」と疑問に感じながら、隠されたものを掘り起こす作業をするような人生を歩んできたと思う。今、過去を振り返る時、一つ一つの人生の選択の中に「失われた父性の探求」という私のライフテーマが浮き彫りにされているのが分かる。
   海外生活を切り開いていく中で、最初の頃の留学の費用は母が負担をしてくれたので、その母からの経済的支援には感謝しなければいけないと思っている。しかし、海外で就職した後も、彼女からの中傷は続き、私の鬱病はどんどん酷くなっていった。独身の頃は毎週電話が来て「いつ結婚するのか」と聞かれた。「30歳を過ぎても結婚もせず子供もいない情けない女だ」と母は私を電話口で叱った。鬱病がだんだん酷くなり、ある日良いカウンセラーがいるからと知人に紹介され訪ねた。そのカウンセラーは聖職者であったことも関係してか強いカタルシス(心の浄化)の効果が現れ、今まで自分では大丈夫だと思っていたことが、やっと苦しみの言葉として口から湧水のように溢れ出てきた。「私が世の中で一番恐れているのは母です。私は彼女に人間性を否定され、コントロールされているような気持ちになります。結婚していないから一人前の人間ではないと非難されます。結婚できないのは顔が醜いからだと言われ、美容整形をさせられそうになりました。母が怖いので日本から出てきました。父にも棄てられた人間です。だから同じように多くの男たちも私を棄てたんだと思います。私さえこの世にいなければ世界はどんなに素晴らしいだろうにと思います」と大泣きしながら訴えた。カウンセラーが黙って頷きながら私の涙と言葉をじっくり受け止めてくれた後、彼が最初に口した言葉に私はハッとさせれた。「まず一つだけ大事なことを伝えよう。あなたのお父さんはあなたを棄ててはいないよ。あなたのお母さんとお父さんの間で何かあったかもしれない。でも、あなたを棄ててはいない」とカウンセラーは言ったのだ。その時、私は家族の真相について突き止めようという気持ちにまではなれなかったが、父に棄てられていないという言葉に大変癒されたのだ。
   34歳の時に海外で亡夫と結婚した。式の前に母と姉が私を感慨深く見つめた。母が私の花嫁姿の写真を撮った時、私は心の中で思った。晩婚になってしまったけれど、この写真も姉の花嫁姿の写真が父の元へ届けられたように、やっと父の元へ行くのだろうか。そう思うとドキドキした。そして「お母さん、この写真、お父さんに送るの忘れないでね」と口から出そうになる言葉を懸命に飲み込んだことを今でも思い出す。結婚後、やっと母から心理的圧迫を受けなくて良いかと思ったが、今度は別の質問が待っていた。それは「いつ子供ができるのか」というものだった。この質問は周囲の人にもよく聞かれてきたが面白い質問である。私は子供が欲しかったのになかなか授からなかったので(奇跡が起きて50歳過ぎた今私は子宝に恵まれている)、いつ子供ができるのかというのは私自身が知りたい質問なのであった。子供は授かりものとしか言えないのに、母は、子供がいる姉と比べ、私の生き方はおかしいと言い、子供のいない可哀想な人だと同情された。私はこの頃から、私がどんなに頑張っても母を幸せにすることはできないということを確信し始めた。私が姉のように結婚をして子供に恵まれ一般的な日本人主婦とならない限り、母の理想とする娘にはなれない。自分のアイデンティティーを殺してまで、親孝行というアジア的道徳感に従う必要があるのか。この永遠の課題は、現在、スクールカウンセラーとして思春期のアジア人の生徒たちのカウンセリングをする中、よく現れるトピックであり、過去の自分の苦しかった経験が悉く活かされている。
   私の一度目の結婚後数年経って、姉が夫との離婚を決意し子供を連れ去り家を出た。その時、母は大変喜び、姉を支援した。私は子供の連れ去りは子供たちと父親にとってはよくないことなのではと意見したが、母は「子供を産んだことがないあなたは、命をかけて子供を守る母親の気持ちがわからないのだ」と言い、相手にしてくれなかった。そして、結局、当時、私は家族として、姉と母の決断を支えるべきではと思い、結果的に姉の連れ去りを応援する立ち位置についてしまったことを今は悔やみ、義兄に申し訳ないと思っている。母や親戚たちにとって、シングルマザーの母を裏切るような海外生活を選んだ、ある意味逸脱した私とは違って、姉は母の側にいて一家を支える母親として常識的に生きているイメージがあったので、この姉の決意に驚いた周囲の人々も多かった。母のシングルマザーとしての誇り高い生き方が世代間連鎖として姉の生き方に影響をもたらした結果とも言えるかも知れない。姉や彼女のような生き方を選ぶシングルマザーたちがよく、「夫はいらない。子供さえいればいい。男はあくまでも経済力。お金さえ落としてくれればいい」といったことを口にするのを聞くが、私には理解し難い考え方である。母親の子供の連れ去りを容認し、シングルマザーとして誇り高く生きる決意を持った母親たちが尊ばれるような日本の単独親権社会が日本独特の「母性偏重」のイデオロギーに影響されているのではないかということを私の家族たちのような生き方の選択と私の意見の相違から強く考えさせられている。
   母と私の関係を分析する時、大変参考になったのが、信田さよ子氏の著書『 母が重くてたまらない−墓守娘の嘆き』( 春秋社、2018年出版)であった。信田氏は、臨床心理士としてカウンセリングで出逢う団塊世代の母親をもつ女性達の心理的葛藤を分析し、彼女達が母親の重たい愛情に苦悩した故にカウンセリングが必要となっていることを示唆し、母娘のタイプを「独裁者としての母−従者としての娘、殉教者としての母−永遠の罪悪感にさいなまれる娘、同志としての母−絆から離脱不能な娘、騎手としての母−代理走者としての娘、嫉妬する母−芽を摘まれる娘、スポンサーとしての母−自立を奪われる娘」の6つに分類し、問題提起を行なった。この分類の中で、私に当てはまるのは、3つ目の「同志としての母−絆から離脱不能な娘」以外全てであると思う。そして姉はこの3つ目の分類に当てはまると言えるかも知れない。子供の頃から「従者」、「永遠の罪悪感にさいなまれる娘」、「代理走者」、「芽を摘まれる娘」、「自立を奪われる娘」として生きていたが、これでは身が持たないと思い、距離を置いてうまく付き合う方法を大人になるにつれて学んでいくことで、自分の心理状態を最善のものにしていくことができた。そうはいえど、母と向き合って話をするということは80代と50代になった母娘であっても、未だに私には非常に苦手なことで、彼女と会い話をする時は飲酒ができる場面では必ず飲んで心をリラックスさせるようにしている。又、着ている物に色々文句を言う人なので、母の嫌いなデザインや色の服は着ないなど相当な努力と心の準備をして再会するように心がけている。
   私は前夫の死後、数年後に再婚をした。その頃、父が私が住んでいる国に私を追って来ており現地の人と再婚し暮らしているという情報を母から得た。これは偽情報であったことが後でわかったが、母はその時「あいつがあなたと同じ国に今いるけれど、近寄ってきたら危険だから知らないふりをしなさい」と言ってきた。私はどうしても父に会いたくなり、少しの情報を頼りに夫と共に父を探したが、その人と後一歩で会えそうになったところで連絡が途切れてしまったので「やはり私の父は悪者で変な人なのかもしれない。母の言う通り関わらない方が良いのかもしれない。でも会ってみたいなあ・・・」そんな思いを抱えながらその人とは会わず仕舞いとなってしまった。
   子供が授からず悩んでいた時、夫が大の子供好きなため、そのことを夫には申し訳ないという気持ちではいた。しかし子供を産めない女という悲しみの中で留まっているのではなく、これまでの人生の中でフェミニストとして「女であるが前に人間でありたい」と必死に生きてきた精神を忘れず、懸命に生きなければと思っていた。働きながら夜間に勉強を続け、いつしか気づいた時には心理学の博士になっていた。博士号を取得した時の私の一番の素朴な感想。それは「私はやっと人間になれた」と思ったことだった。もうこれでやっと母から馬鹿にされずに済むと思った。母からの中傷を気にすることなく、一人の人間として自分に自信を持って社会貢献し、堂々と生きる道を歩めると思えた時、私はやっと自信がつき、母からの呪縛から解放されたような気持ちになったのだ。
   心理学の中でもユング派心理療法に最も関心を抱いた私は、ユング派の箱庭療法やイメージ療法を極めたいと思い、世界中を周り様々なワークショップに参加するようになった。教育分析を受け始めた頃、もうその頃は他界していた祖母や祖父の怖い夢をよく見た。母の怖い夢は見たことがあったが、祖父母が出てくる怖い夢は見たことがなかったので不思議に思っていた。特に祖母の夢で印象的だったのが、私が部屋の中で監禁されており、魔術のようなセラピーを行なっていて、自分は能力があるのに誰にも分かってもらえず、退屈をしている。外に出ようと思っても出られない。なぜなら門番がいて、その門番は半分死んだような祖母だというものだった。後でこの夢の意味も解明されることとなる。

   5年前まで海外で心理士として非常にやりがいのある仕事をしていたが(現在は同じ国に戻り、また心理士として働いているが)、母が体調を崩し、長い間母のことを姉に任せ、自由気ままに海外で生きてきた自分の生き方を顧みて、最後の時ぐらい母とともにいてあげようと思い、2、3年間日本に住む決意で帰国した。しかし日本で私を待っていたのは、母との和解ではなかった。信じられないことが私を待っていたのである。

全てが変わった日

   このストーリーには不思議なプロローグがついている。あれは5年前の夏の終わり頃だった。不思議な人物が私の自宅を訪れたのだ。その頃はまだ夫を外国の自宅に一人残し、私一人で日本のワンルームマンションで暮らしていた。その訪問者は3日間続けて、日が昇る頃ドアチャイムを鳴らした。
 ピンポーン。1日目は夢うつつでその音を聞き、起き上がり確かめることはしなかった。
 ピンポーン。2日目。「おかしいな。やっぱり昨日も夢ではなかったのか・・・」と思い、恐る恐る起き上がり、覗き窓を見ると、母が男になったような人が立っているのが見えて、私は思わず「あ、お母さん!」と言うと、その男は英語で「お邪魔してすみませんが・・・」と語り始めた。私は、怖くなり、黙ってじっと立ちすくんでいると、その男は去っていった。
 ピンポーン。3日目。「又か。今日は警察に相談しなければならないなあ」と思いながら、そっと覗き窓を覗いてみた。するとハンチング帽を被り眼鏡をかけた紳士風の老人が立っているのが見えた。その男は右に首を傾げ、私の方を心配そうに見つめ、ドアを開けて欲しそうな顔をしていた。なんとなくその姿に好感を持ったが、やはり怖くてドアを開けることはできなかった。しばらくするとその老人は背を向けて寂しそうに歩いて行った。その哀愁の背中を見つめながら、私の心を過った言葉はユングの「アニムス(内的男性性)」(女性の無意識の中に潜在する男性像)であった。

  この不思議な出来事の2年後、私の半世紀の人生が一夜にして一変した出来事が起こったのだ。
  その頃は外国人の夫も日本に移住しており、二人で母の身辺整理の手伝いをしていた。母のスナックの二階が物置部屋になっていたので、その部屋の整理をしていると埃に塗れた書類の中から幾つかの手紙が見つかった。差出人が遠い他県在住の父となっており非常に驚いた。それらの手紙から、父は望んで親権を手放したわけではなく、15年以上も再婚もせず、私と姉に送金を続け、いつか私たちに会える日を夢見て懸命に働いていたということがわかった。その手紙から紳士で知的で温かい父の人柄が伝わり、熱いものが胸に込み上げ思わず涙が頬を伝った。相当な歳になっているだろうが、まだ生きているのだろうかと思うと居ても立っても居られず、帰宅後すぐにネット検索をした所、所在がわかった。ネットのサイトの父の写真を見て震えた。あの不思議な老人の訪問者と同一人物に見えたからである。
手紙を送った後、父からすぐに返事が来た。その封筒を開ける瞬間の震えるような思いは今でも忘れられない。半世紀も悪い人と聞かされていた人が手紙の返事をくれたのだ。まるで鍵のかかった戸棚の隅にじっと50年間座っていた悪魔の人形に突如生命が蘇り口を開くのを待っているような瞬間である。息を飲みながら父の文書を読み始めた。そこに書かれてあった内容とは・・・。
   父は事情があって家を出たが、非常に後悔し、その後、私と姉のために必死に働き送金を続け、いつか大物になり家に戻る日が来ることを夢見て頑張っていた。15年以上も再婚もせず頑張り続け、バブル期のある日に富豪になり、母に再婚を求めたがそれは受け入れられず、家に帰ることは許されなかった。そのため再婚をしたが、新しく授かった子供には私と姉のことを忘れないように、私の漢字の名前の一文字をつけ、いつも私たちを心に抱きながら生きてきた(私は命名に姉の一文字をもらい、姉は父の一文字をもらっている)。心の準備ができず、今すぐは無理だが死ぬ前に再会を実現させたい。それまで父は頑張る・・・というものだった。
   この内容に非常に感動したのはもちろんのことだが、まず第一に私が感じ驚いたのは、父は人間だったということだった。それまで私は祖母や母から聞かされていたことの印象から、魔物かこの世の人ではないようなイメージを父に抱いていたのである。そして、この手紙の内容から今までずっと忘れていたことを咄嗟に思い出した。私が高校生の時に、母が急に「大金持ちから求婚されたけど、断ろうと思っているの。あなたも急にお父さんがこの家に来たら嫌でしょう?」と言い出したのである。そして母はその1週間後くらいに「あなたを父親のない子供にしたのは私だから、この罪だけはどんなに償っても償い切れない」といつもになく申し訳なさそうに哀しそうに言ったのだ。私はその時、なんのことを言っているのかさっぱりわからず、その母に求婚した人はよっぽどのお金持ちだったのだろうなあということしか思えなかった。しかし、父の手紙が見つかり、その時の記憶と繋がった。父は家を出た後、非常に後悔をした。そして、何度も家に戻ろうとしたが受け入れてもらえず、家に帰るためには相当な大物にならなければいけないと思い、企業家として富豪になるまで上り詰め、やっと母に再婚を申し込めるまでに至った。しかし、母はそれを私にはっきりと伝えずに断ったのであった。(姉は当時もう成人し職についていたので、この話がどこまでどのように姉に伝わっていたのかはわからない。)父の話になると大抵被害者のような顔をする母が、あの毛皮のコートの贈り物の時のように時々加害者のような申し訳ない顔をする時があったが、その意味もその時になってやっと理解できた。母が私たちの写真を送っていたのも送金を受け取っていたためであるということにもやっと気づくことができた。私の住む国に父親も住んでいるかもしれないが私に近寄ってきても無視しなければいけないと言った意味もわかった。それは父が私に危害を与えることを恐れたのではなく、父と私が繋がることで母が隠し続けてきたことが発覚してしまうことを恐れていたためだったのだ。

   父も私もそれぞれに半世紀後に繋がった驚嘆と喜びに満たされた。父の表現はこんな風だった。私から連絡があった日、あまりにも嬉しくて、週末にいつも出かける自製の山小屋に行く前に山の近くのペットショップで鯉の稚魚を100匹買い、全て川に流したという。そして夜になると、いつものように山の上で夜空の星を眺め始めた。そこで父は、会えなくなった家族たちのことを思い、この同じ星を同じ日本の遠い場所で見ている人たちがいると星に思いを馳せてきたという。その日、私から半世紀後連絡が来たことは、まるでその夜空の星たちが突然地上に降ってきたような感動だったいう。
   私の感激はと言うと、心の中の真ん中にある山の上に駆け登り、両手を上げて叫びたい気持ちだった。
「世界中の皆さん、聞いてください!私にはお父さんがいました。私のお父さんは悪い人ではありませんでした。私のお父さんは私を棄てていませんでした。私は、夫に棄てられた惨めで悲しいシングルマザー、スナックのママの娘だけではありませんでした。知的で紳士で温かい実業家の父の娘だったのです!」
   互いに別々の家族のある私たち。社会的地位のある父。半世紀も経って、やっと出逢えたのに、心の準備ができないからと言われすぐに会って抱きしめてもらうこともできない。父の娘として公に姿を現すことさえ思い通りにいかない「隠し子」のような存在になってしまった私。だから私は叫ぶ、この感動を心の中で。これは私の隠し子のプライド、心の叫び!!

   一夜にして悪人と善人が逆転した。祖母の呪文から、母の心理的圧迫から、「殉教者の娘としての罪悪感」(信田、2018)から、「毒親」(スーザーン・フォワード著、羽田詩津子訳、『毒親の棄て方ー娘のための自信回復マニュアル』、新潮社、2020年出版)の縛りから、一気に解放された瞬間を味わった。夢の中で、門番の祖母がやっと死に絶え、監禁状態から抜け出すことができた。母に乗せられたコーヒーカップの中でぐるぐる回り続け、路頭に迷った半世紀の旅が終焉した。母と川の激流から逃れようと必死に泳ぎ続けた人生の中間地点で、今まで想像しなかった大激流に出逢い、古いものが一気に流された。大波が鎮まり、新天地へ導かれた時、父が方魚した100匹の鯉の稚魚が、新しい多くの命として私の中で芽生えた。2020年5月24日父の手紙が見つかった日。平凡で穏やかな初夏の日曜日。私の中で全てが変わった日だった。

   父との繋がりには鳥肌の立つことばかりが絡んでいる。私からの手紙が父の元に届いた日、父の実家の兄からも電話で連絡があったという。50年後に、私と叔父が、別々に、父の居場所をそれぞれ見つけ、全く同じ日に連絡をしてきたという奇縁に父は大変驚き、合わす顔もないと思いずっと避けてきたが、終活の時期を迎えた今こそ私たちに会ってお詫びをしたいと思うようになったという。そしてもう一つ非常に驚いたことがあった。長く海外在住している私だが2年前まで日本に3年間住んでいた際、地元の某教育機関の教員の公募を見つけ採用され2年半勤めていた。なんとその教育機関が父の母校であるということを父と繋がった後に知ったのだ。父は、私が博士となって父の母校で教員をするまでに成長し、自ら父を探し求め連絡を取ってきたことに大変感動し喜んだ。私もわずかの期間でも父の母校で教職につけたことが何よりも嬉しかった。こういった共時性の体験は神の計らいとしか思えず、いつ思い出しても感動と震えに心と体が包まれるのだ。
   そしてもう一つ大変不思議だったこと。それはあの父に遭遇する前の奇妙な出来事である。3年前に自宅を訪れた老人だが、SNSで見つけた父の写真にそっくりだったため、父と繋がってから本人にあれは父だったのではないかと尋ねたところ、半世紀間一度も出身地へ戻ったことがないという。なのであの老人は、夢や幻であったのだろうが、ユング心理学的理論に従えば「ビジョン」と言える。3回目のビジョンを見た時、私の心の中に「アニムス(内的男性性)」という言葉が浮かんだ。父はまるで「アニムス(内的男性性)」のような存在で、いつも父と私は内的世界の中で繋がっていたと私の半世紀の心の旅を回顧する時、実感できる。しかし、あの時、私は理論的に考えてそう思ったのではない。「アニムス」という言葉が本当に自然に心の中に浮かんできたのである。そして、その「アニムス」のビジョンは1回目、2回目、3回という過程の中で少しずつ変化していった。1回目は覗き窓の外を確かめに行かなかったため「空白」だ。2回目は男になったような母の姿、3回目は父の姿であった。2回目の人物が英語を話したことは興味深い。私にとって英語は、新しいアイデンティティを与えてくれた未来の世界との媒介言語であり、父と私が理解でき、母が理解できない言語という意味で、非常に象徴的な意味を持つものだ。男のような母の姿は「父と母の二人分頑張るお母さんだから、性格がきつくても許してあげてね」と祖母や親戚たちに言われた母のイメージを思い出す。
   この3つのビジョンは、私のアニムスの成長的段階を示しているように思う。2回目と3回目のアニムスの違いは、ユングに従えば、「否定的アニムス」あるいは「アニムスに取り憑かれた女性」VS「肯定的アニムス」(ウェーア、 1987)と言えるかもしれない。しかし、ユング派志向のフェミニストである私は『ユングとフェミニズムー解放の元型』(1987)の著者デマリス・S・ウェーア(1987)(村本 詔司、中村 このゆ 訳、ミネルヴァ書房、2002年出版)の次の主張に賛同する。「ユングが体験的なものや非合理的なものだけでなく、わたしたちの最も深い霊的問題の現実をも強調したことは、西洋社会の物質主義是正に向けての一つの顕著な動きである。女性的なるものを正当に評価しようというユングの努力の中にさえ含まれているのだが、女性たちと女性なるものへの恐れをただすことは、ユングの心理学をホーリスティックな心理学と霊性にするうえでどうしても欠かすわけにはゆかない一歩であろう。女性たちはユングの心理学がそのように発展することを必要としているのである」(p. 163)。「アニムス」(内的男性性)や「アニマ」(内的女性性)や「影」(無意識の中に潜在する抑圧された誇れない自分の部分)といった「元型」(集合的無意識の内容を表す共通したパターン)を静止した本質的なものとして捉えるのではなく、私たちの経験と視点で日々解放されるべき対象であると理解する努力をウェーア(1987)に倣って私は忘れたくないと考えている。

新たな苦しみ

   父の消息が分かった日、私は大変嬉しく高級デパートでシャンパンとケーキとご馳走を買ってきて夫と共に祝った。夫は若い時父親と死別したので自分にも父ができたようで嬉しいと自分のことのように喜んでくれた。翌日父からの文書が届き、私は一層嬉しくなり、急遽休暇を取り夫に置き手紙をおいて飛行機で1人父の住む遠い他県へ飛んで行った。しかし父は会ったら多分三日くらい泣き続けてしまうし、あまりにも突然過ぎてどうしても心がついていかないと折角会いに行ったのに会ってくれなかった。しかし私がそばまで行ったことでもっと繋がりが濃くなり、そこから私たちは一週間に1ー2回程度のメッセージのやり取りを行ない始めた。
   父と50年後に繋がった最初の2−3週間くらいはまるで天にも昇るような気持ちでふわふわ浮く心をどう制御して良いのかわからないような状態だった。しかし、それも束の間、私の気持ちは、こんな素晴らしい父のことを50年間も隠していた母への憎しみと父の再婚家族への嫉妬心に変わっていった。素晴らしい父だったからこそ、父親について行かれては困ると思い、親権が取られないよう、母は隠し切ったのだろう。再婚をせず愛人として生きる道を選んだ彼女は父の再婚を受け入れず娘を父なき子とし、それを隠し通す罪悪感に苛まれ、シングルマザーという重荷に加え、二重の苦しみを味わうことになってしまったのは大悲劇であったと言える。
   母があの時父との復縁を受け入れていてくれたなら、私は母を置いてわざわざ海外へ心の中の父性を探す旅には出なかっただろうにと思うと、母の決断が愚かに思えて仕方がない。母自身も華やかな水商売の世界から老後の一人の生活に変化し寂しさを味わう中、もしかしたら、あの時父と復縁をしていればよかったと後悔しているかもしれない。当時は母も極限の中でベストの決断をするしかなかったのであろうし、父なき子にされた私のために精一杯、お金や物を与えようと尽くしてくれたことには感謝しなければならないと思っている。しかし、ブランドのバッグも衣類も美味しい食べ物も、父親の代わりにはならなかった。私の心を満たしてはくれなかったのだ。この気持ちは、まるで誤診によって間違った処方箋を受け取り、効かない薬をずっと飲み続け、副作用に悩んできたような感触なのである。
   私としてはあの時戸籍上父の娘になれなかったとしても、一目でもいいから会わせて欲しかったのだ。「あなたのお父さんはこんなに頑張ったよ。あなたのことを一度も忘れていなかったよ。こんなに立派になって帰ってきてくれたよ」と言って紹介して欲しかった。そうすれば私は家を遠く離れることはなく、母は私を失わずに済んだ。一年に一度でいいから父に会えていたら、どんなに良かったかと思う。喫茶店で2時間一緒にコーヒーを飲みながら過ごすだけでもいい。政治、経済、社会問題について語り合い、生きる哲学を教えて欲しかった。そんな風な関係があれば、私の鬱病は酷くはならなかったであろうし、精神的にバランスの取れた人間となり、母も呆れるぐらい新宗教に没頭しすぎることもなかったはずだ。
   今頃どこかで路上生活でもしている不成者と常に聞かされてきた父が、15年後、ある日、高級車に乗り立派な姿で高校生の私を迎えに来てくれたのかもしれないのだ。そう考えただけでワクワクする。しかし、それは母一人の決断によって叶わぬこととなり、私に代わって私が得るべき幸せは私の妹にあたる父の新しいお嬢さんの元へ全て渡ってしまったと思うと羨ましくて悔しくて仕方がなかった。二年前まだ日本にいた頃、女子高校生にすれ違う度そんな苦しい感情がトラウマのごとく蘇ってきて大変辛い思いをした。女子高生達がグループで楽しそうに笑いながら歩いているのを見るだけで、槍で胸が突き刺されそうな気持ちになり、胸を手で押さえながら歩いていた。まるで戦争である。戦国時代にお家騒動で親子断絶となった武士の娘のような気持ちにさせられるのである。私はそんな時考えた。なぜ実子の私が実父と実母の復縁の可能性についてはっきり聞かされなかったのか。これは明らかに私の子供としての人権が侵害されたことを意味する。あの時、大人達は誰も私の人権を守ってくれなかった。私たちの日本という国は民主主義国家ではなかったのか。民主主義では人権が守られるべきではないのか。「単独親権・単独監護社会が続く限り、日本を民主主義国家と私たちは呼ぶべきではない」と私は隠し子のプライドを持ってこの文面上で大きく叫びたい!
   母が父の送金のことなどを隠し切っていたのは、私にだけでなく祖父母や親戚に対しても同様だった。なので、父はいまだに皆にとって「悪い人」のままになっている。今までずっと私を愛し私のために懸命に生きて存在していた人が悪い人、「いない人」とされてきたのである。これはまるで人殺しだ。これほどの人権侵害はない。そして母や祖母は知らないのだ。「悪い人、いない人」という父へ向けられた矛先は私の胸にもしっかりと突き刺さっていたことを。私は父の子として出自について真実を知る権利がある。父が批判され否定され、真実があやふやにされたことによって私のアイデンティティの半分が崩されてしまったのだ。
   どうせなら、祖母が私に言い続けたように、悪いのはただ一人父であれば、皆どれだけ気が楽だったろうにと思う。しかし、我が家の家族物語がそんな単純な「勧善懲悪」のストーリーで終わっていないところに人間の深みと単独親権イデオロギーの恐ろしさを感じる。先進国で唯一単独親権国家である日本社会において、離婚後、一方の親が子供たちを連れ去り、連れ去った方が親権を取りやすく、子供たちは同居親に洗脳されたり、同居親に遠慮し別居親に会いたいともいえなくなってしまう状況に置かれている。人間や家族とはとても複雑で目に見えないところでどんな罪が隠され、何が操作されているかわからないのに、誰かが善人で誰かが悪人と単純視されてしまうのが、単独親権イデオロギーだ。そしてそんな環境の中で育った子供は自分の半分が善人で半分が悪人というマインドセットをされてしまい、健全な人格形成の歩みからは逸脱する傾向にある。
   私はこれまで心理士として多くの片親疎外症候群の症状を持った子供達に接してきた。親の離婚後傷ついた子供たちの心理アセスメント行なうと別居親の存在を否定された子供たちが絵画で自身を表現する時、半分を真っ黒に描いたりする事例をいくつか見てきた。暴力団員の父であっても子供は父が恋しく面会交流を楽しみにし、父との交流が子供の心の支えになっているというケースもあった。殺人犯の親についても、あからさまに「悪い人」として面会交流を遮断するのではなく、子供に分かる言葉で適切に説明し徹底した配慮の下、面会交流をするという事例なども欧米の同業者の友人から聞いて学んだこともある。
   しかし自分自身のバックグラウンドについては疑う余地もなく、育ての親である祖母の言葉を鵜呑みにし50年も生きてしまったのだ。祖母が父について語る時しきりに使っていたこの「悪い人」という言葉は、単純なだけに恐ろしい。私が信じていた宗教の布教師である祖母が使った言葉であったからこそ、50代になるまで信じて疑うことがなかったのだと思う。しかし祖母も父のその後については母が隠し通していたために知る余地もなかった。母自身も、単独親権社会の中で自分の幸せを取るか娘の幸せを取るかという苦しい二者択一の境地に立たされた一人の犠牲者であり大変苦しんだと思うと気の毒になる。我が家の家族問題の全ての発端に単独親権イデオロギーが潜んでいたことにやっと最近気付かされた。
   父と繋がった頃の最初の数ヶ月は非常に辛かった。父と折角知り合えたのに会って抱きしめてももらえない。贈り物が届く訳でもない。時々SNSのメッセージのやり取りをするが、私から送る方が頻度も多く一度に送る文書も長い。メッセージを送っても返事が来ない時もある。丸一日既読にならない時など死んでしまっていたらどうしようと泣いたこともあった。朝から晩まで父のことを考えて仕事も手につかなかった。夫がそばにいてくれなかったら自死を考えたかもしれないと思うほどの喪失感でいっぱいの日々だった。30代で前夫を癌で失った時の喪失体験と変わらないほどの苦しみだったのだ。
   行き場がなくて、どうして良いかわからず、自分の気が少しでも晴れるかもしれないと思うことは何でもした。毎週のように地元の贈り物を宅急便で送った。その宅急便の発送状況のメールの知らせを見ながら、ハラハラドキドキしていた。「あ、もうお父さんのいる地域まで届いている!」、「まだ受け取ってないなあ・・・。不在だったのかなあ・・・。」、「あ、受け取った!」等々、細かく確認しながら一喜一憂していた。贈り物が届けば、贈り物の内容について「美味しかった」等々感想と共に感謝の言葉のメッセージが来るのでそれが嬉しくて毎月のように贈り物をした。父の日、お中元、敬老の日、誕生日、お歳暮、クリスマス等々あらゆる機会を見つけて贈り物をした。しかし、父からは誕生日にもクリスマスにもプレゼントは届かず、お中元やお歳暮のお返しも全くなく、とても寂しかった。所詮、今のご家族が一番の家族だから、私は捨て子や隠し子同然なために放って置かれるのも当然なのだなあと思うと一層悲しくなり、母への憎悪が増していくばかりだった。父は私と姉はいつも父の心の中で生きていたと言ってくれたがそれは本当だと思う。私の名前の一字を父のお嬢さんにつけ、私たちを忘れないようにしたということは、新しいお嬢さんを育てることを通して、私たちを育てたいという気持ちを昇華したわけである。又、80代のおじいさんになってしまった父が、娘が50歳を過ぎて急に現れ、大変嬉しくもどう対応して良いかわからなかったというところもあり贈り物さえできなかったのではと思っている。
   父から贈り物が来ないことが悲しく、仕方がないので自分で自分に贈り物をした。父の苗字に関連する動物の絵柄やデザインの物は何でも買いあさった。ぬいぐるみ、置物、お菓子、マグカップ、ネックレス、洋服、バッグ等々。この動物の絵柄は日本ではなかなか見つからないが、私が今住んでいる国では見つけやすく、こちらに移ってからも買い続け、家の中はこの動物グッズでいっぱいになっている。日本にいた時、父からの返事が遅れて非常に悲しい時など、この動物の絵柄の物を見つけに街中を歩き回り、見つからない時は一層悲しくなった。そんな時は、もし高校生の頃母が復縁を受け入れ、父が戻ってきてくれたなら、きっとこんなお土産を私に買ってきてくれたのではないだろうかと想像する物を購入し、「お父さん、プレゼントありがとう」と言いながら、自分にプレゼントをした。
   父の故郷も訪ねた。父方の親戚とはその時はまだ父の失踪以来疎遠な状態だったので、父の実家がどこにあるかはわからなかったけれど、父の出身地と聞いていた田舎町を梅雨のある日の午後小雨に打たれ涙しながら一人歩いた。そして、こんな下手な詩を書いた。

               一本の松の木
お父さん、私は今、貴方の故郷を訪ねています。ここに来ても貴方はいない。ただ貴方の面影頼り、初夏の雨の日の午後を川辺に沿って歩いています。それでもいい、それでもいい・・・。ただここにいるだけで 、なぜか心が温まります。貴方が少年だった頃、この優しい風を貴方も浴びていたのかな。この川の雄々しいせせらぎを貴方も聴いていたのかな。この淡い緑の匂いを貴方も嗅いでいたのかな。そんなこと思いながら、歩けるだけで、幸せです。
一枚の手紙が見つかり、真実が明らかになりました。一夜にして「悪い父」が「聖者」になりました。
お父さん、私を棄てていなかった。こんなに素敵な人だった。驚き、満たされ、癒されて、2歳の私が泣きました。貴方を探し、貴方と繋がり、奇跡の対話が始まりました。けれど、五十年の月日は長く、それぞれに生きる場があり、貴方の胸にすぐ飛び込んでいくことはできません。
それでもいい、それでもいい・・・。あなたに早く会っていたら私はもっと甘えていて、今の自分より小さかった。それでもいい、それでもいい・・・。再会する日を楽しみに、毎日生きていけるから。それでもいい、それでもいい・・・。いつか天国に行くときは好きなくらいずっと一緒にいられるから。
そんなこと思いながら、歩き続け行き着いた庭園。緑の小高い丘の上の一本の松の木が私を見つめました。他に交わるものがなく、寂しげにも雄大に、優しく、じっと一人立ち、私が来るのを待っていました。
「おかえり。父はずっとここにいたよ 。これからもずっと見守っているよ。」
懐かしさと切なさと父の愛が胸いっぱい 。涙がポロポロ止まりません。子供のように泣きじゃくり、そうっと目を開けました。二羽の夏鳥の親子たち、どこからともなく飛んできて、松の木の枝に止まりました。涙がスーッと引いて、希望と勇気が一気に湧いたの初夏の雨の午後でした。

   父の故郷の町を歩いている時、白い蝶々がどこからともなく舞ってきて私を離れなかったことも印象的だった。父にお土産を買い、それをその町から父の元へ郵送した。3日後に、学校で授業をしている時、どこからともなく、あの時見た同じような白い蝶々が突然現れ教室の中を舞った。それを見て学生たちがとても不思議そうな顔をしながら私を見た。私は心の中で察していた。これは父が父の故郷のお土産を受け取ったという徴だと。案の定、携帯電話を授業後確認したら、父から「今小包が届いて懐かしい故郷の物を見せてもらったところだった、ありがとう」というメッセージがちょうど白い蝶々が現れた時に送信されていたのを見つけた。こんふうな不思議なソウルメイトのような私と父とのやり取りが今でも続いている。
   ある日は地方裁判所まで足を運び、門の前で目を閉じて神に祈ったこともあった。「神様、どうして私の母はこの日本という国で裁かれなかったのですか。私と父が再会できるチャンスが母一人のの意志選択のために叶えられませんでした。私の教育費を父は送金してくれていたのに、母がシングルマザーとして一人で私を育てたこととなっており、父の存在は無とされ、周囲は母を褒めたたえ、私が彼女から受けた心理的虐待も周囲からは虐待と認められませんでした。神様、裁判官さん、なぜこんなことが日本で起こっているのですか。なぜ先進国日本は単独親権社会なのですか」
   クリスチャンの私が神様に祈る時は教会に行くのが常だが、私はその頃、教会から足を遠のいていた。キリスト教の人たちに相談すると母を赦しなさいという人が多く、恐ろしてく相談もできなかった。大体一般人には私のこの体験の苦しみは、相当長く噛み砕いで説明しないと伝わらなかった。皆、口を揃えて「よかったね。お父さんと50年後に繋がって。稀にない感動的な話だね」と言うのである。私の喪失感や怒りや悔しさや行き場の無さは、単独親権社会の犠牲者にしか伝わらない。実子を片方の親に奪われたという親たち、離婚後、同居親から別居親に会わせてもらえず辛い思いをした子供たち、そういった実体験をした人々にしかわかってもらえない苦しみなのである。自分の体験を通し、単独親権の恐ろしさを知り、共同親権社会実現を目指し社会活動を行なう人々との出会いが私を癒し、もう一度前進する力を与えてくれた。母も単独親権社会の中の一人の犠牲者であったことに気づかされ、憎悪の気持ちも少しだけ軽くなった。一人の宗教者として、癒しを大切にする宗教に本当に癒されたい時に癒してもらえないということを改めて確信できたことは私にとって今後の人生を歩む上での大きな気づきと強みとなった。宗教とは何か。信仰とは何か。祈りとは何か。癒しとは何か。宗教に関しどんなにたくさんの問いが生まれても究極の中で私は神を信じる、信じる勇気を持ち続けたい。あの時、母への神の裁きを請うために教会ではなく裁判所へ足を運んだ自分の心の動きと行動を大切にしたいと思う。そして、あの時の自分の心境を分析し続ける視点を一人の心理士として忘れたくないと思っている。
   お盆の頃になると、白いお花を買って、母方の先祖のお墓参りへ行った。そして、ご先祖の皆様にお伝えした。「おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、聞いてください。私の父が皆様に一時期多大なるご迷惑をおかけしました。その子供である私を大切に育てて下さったことに感謝致します。母がずっと皆さんに隠しておりましたが、父はあれから大物、富豪になったのです。でも母が父の復縁を受け入れなかったのです。私の父は立派な人だったのです。それがとても嬉しく、みなさんもきっと喜んでくださると思い、今日ご報告に来ました。この白いお花は、彼の罪の償いの心は潔白であり雪よりも白いということを証明する物です。これをお伝えするため、今日私はここに参りました」そう心の中で祈りお花を花立に刺した瞬間、「よかったね」とご先祖様たちの声が聞こえて来たような気がした。その夜夢を見て、親戚のおばさんたちが出てきて、実は昔あなたのお父さんに随分助けられたというようなことを言われた。
   当時、たくさん不思議な夢を見て、ユング派のセラピストよりドリームワークの心理療法を受けたり、箱庭療法の先生から教育分析も引き続き受けて、私の心は少しずつ癒され、整理されていった。しかし、どうしても母に対する怒りの感情を制御できず、私は一つの儀式を行なうことにした。それは、母からもらったものをほぼ全て視界から消すということだった。母が買ってくれた洋服やアクセサリーを身につけているだけで窒息死しそうな気持ちになり前へ一歩も進めないと思っため、スーツケースや箱に入れ押入れの奥に仕舞った。父が家を出て行った時、父の所有物を全て燃やし死んだ人としたと聞いたことがあったので、これは私の中での小さな仕返しだった。

父との再会
   やっと父の心の準備ができて会えることとなったのは父との書面のやり取りが一年ほど経ってからだった。父は父の住む遠い他県から私の住む地域の飛行場へ来てくれ外へ出ることなく一時間だけそこで会い、蜻蛉返りで帰って行った。父に会いに行く時、夫も同行してくれた。なんとその日は私がずっと父親と思っていた祖父の命日だった。だから私はこの桜咲く日をパパ記念日と名付けた。到着ゲートから出てくる父をどきどきしながら待った。私たちが再会した瞬間失神してしまったらどうしようかと私は思っていたが、それはあちらも同じ心境だったかもしれない。会った瞬間感動というよりはただ不思議な感じがして、よくわからないまま年甲斐もなく父を抱き締めた。不思議な心のまま父に抱き締められ涙が出たわけでもなかった。ただ父がポンポンと私の腰あたりを軽く叩き、それがなんとなく、50代の私に「もういいよ、君の気持ちは十分だよ、ありがとうね」と、そして私の中にいるもう1人の私、50年前生き別れた頃の2歳の私には「お利口だね、よしよし」としてくれているように感じ取れ、その父の温もりが今も身体中に残っている。
   昼食を取るためにお蕎麦屋さんに入り父と互いに向き合って座った。父が帽子を取り、顔の輪郭がはっきり見えた時、なんとなく自分の心がスッキリしたのを感じた。それは御簾が開き帝の顔をやっと崇めることができたような、大雨が止み雲に覆われた太陽がやっと顔を出し日が射してきたような体験だった。私の顔を見て父が涙を流し始めた。私も父の手の甲をさすって慰めながら涙を流した。それを見て夫も泣き始めた。三人の大人は泣きながら蕎麦を食べた。それからたわいの無い会話をして蕎麦を食べる顔も笑顔に変わっていった。父の甘く優しい声がとても心地よかった。幼児の頃もきっと聞いていたかもしれない声なのにもう忘れていたのだなあと思った。あの頃の私はきっとまだミルクのような匂いがしていたのかもしれないなあ、そのままの私が父の中でずっと生きてきたのかなあと思うとお蕎麦を食べながらやっぱり又涙が溢れてきた。

   お蕎麦を食べ終え写真を撮った後、まだ搭乗時間まで時間は十分あったのに父はもうここらでお別れしようと言った。私も寂しい反面それがいいと心の中で思った。50年ぶりに会ったのに何を話していいか何をしていいかわからない。尋ねたいことはいっぱいあっても遠慮して尋ねられない。互いに心から思っているのにあまりにも長い時間が過ぎてしまい、実際に会うとぎこちないだけの関係になってしまう。それでもとても大切なお互い。とっても近くて、とっても遠い存在。やはり実際会うよりは週に1、2度SNSのメッセージを送り合い、感動を心の中で受け止めている方が心地よい。そんなソウルメイトのような関係の私たち。私の中で父という存在が50年前のまま共にいてくれたように、幼少の頃生き別れた時のままの私と姉が父の中で50年間生きてきたのだろう。
   それから少し経って同じ日本にいても折角繋がった父に頻繁に会うこともできず、毎日、憎悪の心を必死に隠しながら微笑みの仮面を被り、母の顔を見なけれいけないことに耐えきれず、様々な事情も重なり、マイホームのある外国へ夫と共に三年前戻ってきた。姉には母を任せきり申し訳ないと思うが、母と距離を置き、父とは時々メッセージを送り合い、日本にいる時よりは精神的に落ち着いた気持ちでこちらで生活できていることに感謝している。不思議なことにこちらに移ってから父から贈り物をもらうようになり、それも嬉しい。やはり、私の父は、とっても近くてとっても遠い私の中に内在する象徴的父性、アニムス(内なる男性像)、ソウルメイトと捉えるのが何より心地よく、しっくりいくようだ。
   父との再会後約二年が経った今、最近、父の実家の応援もあり、姉も父と繋がることができ、私と父のやりとりは秘密事ではなくなった。父には第二の家族があり、私たちは50年前の家族に戻ることはできない。しかし、父母が80代、娘二人が50代の今、ばらばらになった家族が少しずつ和解の方向へ向かっていることは、切なくもあり嬉しくもある奇跡の家族物語だ。

未来へ
 
   一つの家族だった私たちだが、ばらばらになっていく過程で、父も姉も母も私も苦しい過去を抱えながら、過去と決別しながら、過去から学びながら、それぞれの方法で前へ進んでいったのではないかと思う。人はどうやって過去と向きあったら良いのか。この問いを思い巡らす時、私の心にいつも浮かんでくるのは次の言葉だ。「死んだ過去の上に未来を築いてはならない。どんなに苦しくても過去を否定してこそ新しい未来が開けるのだ。そこに希望を置いて出発しよう」これは私の古いクリスチャンの知り合いの家に「復活」と題して詩のように綴られ、綺麗に清書され、壁に貼ってあったものである。彼女はある神父の著書の中からこの文書を見つけ、きっとこれは「復活」を意味するものだと思うと言ってそう題し、大切にしている言葉だと言った。聖書を含め人々にインスピレーションを与える様々な書物に過去と未来に纏わる心を打つ詩や言葉はきっと他にも多く見つけることができるのであろうが、なぜか私は過去について思い巡らす時、心の引き出しに仕舞ってあるこの言葉をいつも思い出してしまう。過去を「否定」という言葉のニュアンスが受け入れ難い部分もあるが、「否定」以外にどうしても良い言葉が見つからいのも不思議なのだ。母と姉の口癖に「あの時ああしてれば。こうしてれば」というのがある。戻らない、やり直せない過去のことをいつもそんなふうに言う彼女たちの言葉や考えが私はいつもやるせ無いと思ってきた。しかし私より父の良い思い出も苦しい思い出も鮮明に記憶に残っている彼女たちにとっては、こんな言葉が口癖になってしまったのも仕方ないのかと今では思える。
   今回父と私たち家族についての真相がわかった時、私も何度も過去に戻れたらと思った。なぜ もっと早く父の手紙が見つからなかったのか。なぜあの時父のことを探し始めなかったのか等々の悔しさでいっぱいなのだ。神様が一度だけタイムトリップさせて下さるなら、どうしても戻りたい過去がある。それは当時高校生だった私に母が語った日だ。「あなたを父親のない子供にしたのは私だからこの罪だけはどんなに償っても償いきれない」この言葉を発した母のイメージは暗闇に包まれている。いつも頑固で強いイメージの母が弱々しく申し訳なさそうに暗闇の中で自分の罪を静かに語るのである。私はこの時母は私に謝りながら、天上にいる神に自分の罪の告白をしていたのではないかと思っている。そして彼女はこの日からシングルマザーの高きプライドと共に、娘に犯した罪の償いの人生を歩むこととなった。許されることなら、今の私のままこの日に帰り、彼女に伝えたい。「お父さんが帰ってきてくれて私はとても嬉しいよ。よかった。お母さんだってもうこんなに苦労してお店で夜働いて酔っ払いの相手しなくてもいいんだよ。これからやっとお父さんがお母さんと婚約した時約束した全てが戻ってくるんだよ。老後もシングルマザーのまま生きるのはきっと寂しいよ。それでも、もしお母さんがお父さんとの再婚を望まないなら、お父さんに一年に一回でいいから会わせてくれる?」
  こんなことができたらどんなに良いだろう。あの時の彼女に共同養育の大切さを説得できるだけの知識と勇気と、そして子供である私への家族以外から得られる国や地域や学校の支援があれば、私の人生は一転していたのであると思うと無念である。しかし無念のまま立ち止まっていたら「復活」にはならない。「死んだ過去の上に未来を築く」ことになってしまう。そのようにならないために私はここで自分自身に誓う。神が私に与えられた使命「日本の共同親権・養育社会実現への貢献と親の離婚後の子供たちの心理支援と介入」を常に思い起こし涙を拭いて力強く生きて行かなければならないと。父との半世紀後の繋がりは非常に嬉しく、そして苦しいものであったが、この私の実体験が、社会に生かされるならば、これほどの励みと喜びはない。
   家庭裁判所調査官小澤真嗣氏(2020)は、「片親疎外」の子供たちの心理について下記のように述べている。「一方の親が面会交流の重要性を理解せず、利己的な判断により、面会交流を妨害、実施しない場合、子の精神状態は、以下のような重大な影響を被る。①拒絶のプロセスに巻き込まれた子どもは、別居親との関係が失われる結果、同居親の価値観のみを取り入れ、偏った見方をするようになる、②同居親が子どものロールモデルとなる結果、子どもは自分の要求を満たすために、他人を操作することを学習してしまい、他人と親密な関係を築くことに困難が生じる、③子どもは完全な善人(同居親)である自分と完全な悪人(別居親)の子どもである自分という二つのアイデンティティを持つことになるが、このような極端なアイデンティティを統合することは容易なことでななく、結局、自己イメージの混乱や低下につながってしまうことが多い、④成長するにつれて物事がわかってくると、自分と別居親との関係を妨害してきた同居親に対し怒りの気持ちを抱いたり、別居親を拒絶していたことに対して罪悪感や自責の念が生じたりすることがあり、その結果、抑うつ、退行、アイデンティティの混乱、理想化された幻の親を作りだすといった悪影響が生じる」(小田切紀子著「序章子ども中心の面会交流に向けて 小田切紀子・町田隆司(編)『離婚と面会交流−子どもに寄りそう制度と支援』 金剛出版, pp.v-xvi. 2020年出版)。
   私のこれまでの半生の人格形成の歩みと心理的兆候を自己分析する際、この4つの心理的特徴が全くもって私自身のものと一致するため驚愕している。
「①拒絶のプロセスに巻き込まれた子どもは、別居親との関係が失われる結果、同居親の価値観のみを取り入れ、偏った見方をするようになる」→姉は同居親すなわち母の価値観を取り入れ、母と友達のような関係を作っていった。私は、幼い頃母とは週に一度しか会えず、会った時も母は私より随分年上の姉との時間を大切にしている様子で、母からは心理的虐待を受けた思い出の方が多く、育ての親である祖父と祖母の価値観を信じ頼るしかなく、彼らの価値観が新宗教であったため、結局新宗教に没頭する人となってしまった。そしてその新宗教の布教師であった祖母からの「父が悪い人」という呪文のような言葉は私の中で絶対的信条となってしまった。
「②同居親が子どものロールモデルとなる結果、子どもは自分の要求を満たすために、他人を操作することを学習してしまい、他人と親密な関係を築くことに困難が生じる」→私は直接的な育ての親である祖父母に大変甘やかされたため、自分の要求を満たすために他人を操作する癖が幼少の頃から身につき、これまで様々な場面で良好な人間関係を築いてこれなかったという大きな反省がある。又、母との関係においては、週に一回帰ってくる母から冷たくされ、自分が間違っていなくても謝ったり、彼女に認められたい一心で懸命に子供なりに心を尽くしてきた。その母への接し方が身についてしまい、大人になってからも、母のような強い性格の人を前にすると恐ろしく、わざわざ下手に出てしまうことがある。その結果、その人にもっと威力を与えてしまうという点において私は人を「操作」しているように感じる。
「③子どもは完全な善人(同居親)である自分と完全な悪人(別居親)の子どもである自分という二つのアイデンティティを持つことになるが、このような極端なアイデンティティを統合することは容易なことでななく、結局、自己イメージの混乱や低下につながってしまうことが多い」→②に付随する重要な人格形成の問題である。失われた父性を奪還するために50年間苦心し求め続けてきたアイデンティティの問題とは私の人生テーマそのものだ。父親に棄てられた娘というアイデンティティを抱えながら、父性とは?母性とは?人間性とは?と問い続ける過程の中で、フェミニズム、ユング心理学、宗教学、キリスト教神学等々の学問と精神性を追求する世界で彷徨い続けてきた。そのことによって結果的に私の学問知識は向上し、心の栄養をたくさん戴くことができたと思いそれなりに満足はしていた。しかし、この父性を昇華するための人格形成と学問を求める道は決して容易いものではなく、自死や対人関係の苦しみと常に隣り合わせのでこぼこ道であったのである。今回の父との劇的な繋がりの後、思いがけず、共同親権という新しいテーマに出会い、これまでの私の心の鍛錬や学問の追求の成果や回答が更に一層明確化されたと思うような体験をすることとなったことは大きな収穫と言える。
「④成長するにつれて物事がわかってくると、自分と別居親との関係を妨害してきた同居親に対し怒りの気持ちを抱いたり、別居親を拒絶していたことに対して罪悪感や自責の念が生じたりすることがあり、その結果、抑うつ、退行、アイデンティティの混乱、理想化された幻の親を作りだすといった悪影響が生じる。」→なぜもっと父を早く探さなかったのか。なぜ同居家族のいうことを鵜呑みにして50年も過ごしてしまったのかという後悔と騙されてしまったという情けなさと怒りで私の心はいっぱいである。父の真相がわかった直後は抑うつとなりカウンセリングを随分受けたし、父が恋しく、子供のように父に会いたいと一人になると泣き続けた。理想化された幻の親を作り出している部分は多かれ少なかれあると自己分析している。実際に私は父の幻を見てしまった。ユング派専門家も様々だがあるユング派分析家に私の父はアニムスだと思うと言った時、それは違うと言われ、長いレクチャーを受けさせられそうになり、静かに距離を置いた。私の父親像がその人に崩されてしまっては怖いと思ったのだ。逆に私の思いをそのまま受け止め、父の幻を見た体験も疑わず、それはビジョンだねと理解し励まして下さったユング派専門家もいた。象徴的に現象を理解するユング心理学の場合、幻の親という概念が決して否定的ニュアンスのみを持っている訳でもない点は興味深い議論であるが、実際に父と面会交流が定期的にできていれば、父をソウルメイトやアニムスや内在する父性というような捉え方をせず、一人の父という人間として見ることができたことは確かであろう。
このような心理士としての自己分析が現在の私の臨床体験に非常に役立っている。それ以前も、ユング派志向心理士として教育分析を積極的に受けてきたり、親の離婚で傷ついた多くの子供たちの心理介入を行なってきたが、単独親権社会という先進国で稀に見る日本の社会問題や自分自身の「片親疎外」問題には専門家であっても疎かったのである。このような状況下で、一人の心理専門家として歩んできてしまったということが、情けないと同時に、洗脳の恐ろしさにただ驚嘆するばかりなのである。
   「片親疎外」という心の傷の痛みを体感できたことは正に私にとって「産みの苦しみ」の恵として捉え感謝すべきことであると思っている。今回の苦しみの体験の中で得られたことは多くあるが、私にとって一番大きな出来事は、父に再会できたということももちろんだが、それよりも増して重要なことは「棄てられていなかったことがわかった」ということなのだ。母は私を父親のない子にしたということに己の重大な罪を感じている。しかし、私にとって一番辛かったことは、父親がいなかったことではなく、「父親に棄てられた」ということだった。それを母は案外気づいていないのかもしれない。棄てられていたということと棄てられていなかったということの事実の違いは私にとって大きすぎる。半世紀も「棄てられた娘」というアイデンティティと共に生きてきたのだ。これまでの私は一体何者だったのだろうかと自分の存在意義や生き方そのものを考え直さなければならないほど深刻な事態と受け止めている。しかし、人生100年時代という今を生きる自分であるからこそ、今後、100歳まで生きて、これからの半世紀を「棄てられていなかった娘」として生き直す覚悟を持つことができると思い、心を新たにしている。
   いつも心の真ん中にポッカリと穴が空いているような気持ちでおり、その心の傷は、父親に棄てられためにできたものだと思ってきた。しかし、そうではなかったのだ。棄てられたというのは母の大きな虚偽であったのだ。それがはっきりわかった今、私はやっと心の傷の処置ができる。その傷の処置とはユング派志向心理士として教育分析を長年受けてきたことのやり直しも含まれている。今回の父との繋がりが、私にとって、そんな大きな事態を招いているとは姉も母も、ましてや父さえも知る余地もないであろう。
母と私の確執の根本的問題が明確にされたことも産みの苦しみの恵みの一つだ。高校生の頃から、なぜか母が好きになれず、そのことで悩み始め、眠くて眠くて仕方がなく、やる気はあっても学校にも行けず眠るしかない日々を過ごしていたが、その頃がちょうど母が父からの復縁を私にはっきり説明せずに断った時期であったと判明した今、当時の私の心理状態と母との関係について大いに納得できる部分がある。私の知らないところで父と母の私に関する秘密のやり取りがあったのを私の内的世界が察知して、母との関係がギクシャクする結果を招いたいのだと思う。
   今、残念ながら同居親であった母に対しては、50年間も父のことを隠され裏切られてしまったという感情が一番にあり、以前から感じていたが、尚一層、母は「影(無意識の中に潜在する抑圧された誇れない自分の部分)」の象徴となってしまった。実の母親を100%愛せないというのは悲しいことであるが、この気づきによって私に良い心の変化が現れた。それは、影の正体を知ることができ、その対応もわかり始めてきたということなのだ。失敗をした時など幼少の頃の母との苦しい思い出が心に浮かび、一層落ち込み始めることがあるのだが、父と繋がる前は、そのような時は「私さえ死ねばいいのに」という希死念慮が浮かぶのが常であった。しかし父と母についての真相が分かってからは母にきつくされたことを思い出しても「この女のために私が死んでたまるか」という強い生きる意思の声が心の中に響き渡るようになったのだ。これは私にとって大きな心の収穫だ。「影」という存在が今までうっすらとぼやけていたのがはっきりと浮き彫りにされ、影との付き合い方がやっと分かり始めた証拠であると思っている。
   これまで私が金銭的に困っていた時、私はなんとか自分でやりくりできると言っているのに、母は自分に余裕があるから大丈夫助けるからと言い支援してくれた。しかし途中で、「なんでここまであなたの世話をいつまでもしなければいけないのか」、「どこまで私を地獄へ落とせばあなたの気が済むのか」などと言い怒ってくる。それなら最初から支援するからと言わなければ良いのに思うことが度々あった。その彼女の異常といえるまでの献身的姿勢は私への愛のためもあるかもしれないが、それよりもまず、自分の罪の償いのために無理をしてでも私に尽くさなければという思いがあったためなのだとやっとわかった。今まで彼女が私にしてくれたことが愛であれば重すぎて受け止めることができないが、償いであれば、納得し受け取れることができる。この発見により私の心は非常に救われた。
   私が彼女を影と考える時、影である彼女から否定されたことを彼女と闘いつつ私は懸命に守ってきて良かったと思える。彼女から否定されたこと・・・それは考えることと「女であっても」勉強を続けることである。親戚のおじさんが最近、私の父はとても頭がいい人で、いつも何かを考えてたと教えてくれた。母は、私が姉や母とは違って小さい頃からいつも考えなくても良いのに何か考えていた。何も考えずに楽しく生きれば良いのに。眉間に皺を寄せて考える癖を辞めないとお嫁にいけない・・・などとよく言っていたが、私がそのように考えているところが父に似ていて嫌だったのかもしれないと思うと彼女の言動が納得できる。しかし、私は考え続け、その結果、博士になることができて良かった。母に否定されても辞めずに続けていたことが実り、その結果、父に巡り会った時、博士になってカウンセラーとして奮闘している自分を褒めてもらえたのだ。だから、私はこれからも父のように考え続け、彼のように目標を見失わず、上へ上へと登り続けるような人生を生きていきたい。
   具体的な夢が最近一つできた。それはいつか父の苗字に戻りたいということだ。私は父の苗字が意味する動物が勇敢で優雅で純粋なイメージがあり大変好きである。これから失われた50年間を取り戻すアイデンティティ再構築の過程で、私はどうしてもその父の苗字を名乗りたいのだ。民法第791条【子の氏の変更】によれば、私の申し立ては可能であろうとある弁護士に相談した際アドバイスを受けた。しかし、それがうまく行かなかった場合、私は社会変革の一環として、法的アプローチを取りたいと思っている。実の娘である私が実父の復縁の気持ちをはっきり聞かされず母が一人で断ったこと(恐らく私も同意しているというような説明を私に代弁して父に勝手に伝えたと考えられるが)は、私の当時の子供としての人権を悉く侵害する行為であり、その結果私の人格形成や心理状態に大きな影響がもたらされ、シングルマザーとなった母親の心理も一層追い詰められ、母娘の関係も悪化してしまった。これらの問題は、私と母の単なる家族関係の問題として捉えるべき事ではないと思っている。私と母の確執の問題は単独親権イデオロギーに強く影響を受けており、この問題を単に親孝行という日本文化や人を赦すべきという宗教的価値観の範疇に収めてはならない。これは単独親権国家である日本の「国家」としての問題である。私は、現在東南アジアに在住しているが、日本をモデル国家として非常に尊敬する人々によく出逢う。しかし、彼らに、日本のこの単独親権問題を伝えると非常に驚かれるのだ。「アジア諸国の中であなたの国ほど素晴らしい先進国はないのに、なぜそんなことが日本で起こっているのですか」と不思議がられる。そこで私は日本人であることが恥ずかしくなってしまう。私は、海外に在住する母国日本を愛する一人の日本人として、日本国家が共同親権を導入し、日本の民主主義を真に誇ることができる日が来ることを待望している。実親が実子の親として認められるということは人としての権利と義務が尊重される基本的人権の問題なのだから!
   父と繋がってから幾つかの印象的な夢を見てきたが、一番心に残っている夢が一つある。母のスナックが壁のないオープンスペースになっており、宇宙船のように見える。厨房の中の真ん中に母がおり、私は母の左横にいる。大学生の時のように私はカラオケの設定の係をしている。母は店主として客を迎える位置にある。父が入ってくる。父が半世紀後私たちを訪れた。父は私と母を知っている。私も父を知っている。しかし、母は父を知らない。いや覚えていない。父がカウンターの真ん中の席に座り、父と母が向き合った途端、母が急にパタンと倒れて死んだ。その後母の葬式があったが、母はみすぼらしい赤い籠の中に入れられていた。この籠は遺体とともに火葬炉に入るのではなく、火葬炉まで運ぶだけの役割をする。この夢について、ユング派ドリームワークのセラピストとプロセスワークをした。そのセラピーの中で父のイメージは私に語った。「私は家に帰ってきた。あなたに会うために帰ってきた。私が帰れば彼女は死ぬと分かっていた。しかし私は帰ってきた。彼女が死んだ。だから私は今、あなたと話をすることができる。強く雄々しくありなさい。これまで私はずっとあなたと一緒だった。これからもずっと一緒だ。あなたはとても大切な人だ。あなたの時がやっと来たのだ。自分を誇りに思いなさい。強く雄々しく生きなさい」私はこれを「アニムス」の言葉と象徴的に受け止めている。私はこれから「アニムス」と共にスナックが変容した宇宙船に乗って心の旅を続けるのだ。母の遺体が納められた赤いみすぼらしい籠は、プロセスワークで私自身であることが分かった。多くの人間の「影」を受け入れ、癒す、自らも傷ついた「container (容器)」である私は、まるで見窄らしい籠なのである。これを象徴するような「傷ついた癒し人」(H .J.M.ナウエン著、西垣二一・岸本和世訳、『傷ついた癒し人』、日本キリスト教団出版局、2016出版)というコンセプトは私の心の支え、モットーとなっている。
   こちらに来てから父から二つのプレゼントが届いた。一つは彼が長年愛用していたペン、もう一つは籠のバッグである。神様は私に父を通して新しい使命を与えて下さっているように思える。ペンは勉強を続け書き続けることを意味している。籠のバッグは傷ついた「container (容器)」としてのカウンセラーの私を意味するだろう。この二つのミッションを大切に「世界一のカウンセラー」を目指してこれからも生きていきたい。日本出発前に父の手紙が何十年も眠っていた母のスナックの二階を夫に改装してもらいカウンセリングルームにした。教育機関契約終了後から出発までの間僅かのケースであったが、そこでカウンセリングを行なった。何故か5年前向こうでの仕事も決まっていないのにこちらの仕事を辞めて夫を一人残して日本に帰るかどうするか迷っていた時にあのスナックの二階の空間を思い出していた。そこをカウンセリングルームにすれば良いと思い立ち、出発を決意した。日本へ移動後すぐに仕事が見つかり暫くそこは空き部屋のままだった。しかし父の手紙がそこで見つかってから私はいつかその空間をカウンセリングルームにしたいと一層強く思ったのだった。その場所は父と私が出逢った場所、宇宙船なのである。私は心の中にあるこの宇宙船という名のカウンセリングルームでこれからも父と旅をするのだ。未来へ向かって。
   父は50年の月日を経て私たちの所へ戻って来てくれた。それは父が想像していたような高級車で子供達にたくさんのお土産をもって35年ほど前に帰るはずだったイメージとは随分違っているのだろう。けれど父は私に沢山の心のお土産を持って帰ってきてくれたと思う。悔しいけれどこれでよかったというか、やはり神の計画であったなあと思う。箱庭療法の教育分析の最後に描いた箱庭イメージは家族のシーンであった。私が新生児を抱いて暖炉の前で座っている。その背後には家に帰ってきたばかりの夫がいる。冬のはずなのに外には椰子の木がありここは不思議な場所だと私はセラピストに言った。その夫のフィギュアは他界した前夫のような他の人のような気もするとセラピストに伝えたのを覚えている。あの帰宅したばかりの夫のような人は実はもうすぐ戻ってくる父を予兆した人物だったのかもしれないと今思える。母親の両腕の中にいる赤ちゃんは私で、その箱庭の中で再生したのだと思う。そして、奇しくも、本物の新しい命、待望のベイビーが私と夫の前に今や訪れた。
  50年の時を経て再び繋がった私たち家族。父母は高齢者だが未だにそれぞれ現役で働いている。父は会社経営の傍ら無料で経営コンサルタントを行ない、私たち家族を傷つけてしまったことを深く反省しながら、新しい家族を大切にしつつ社会貢献に勤しんでいる。母はシングルマザーで生き通したプライドを棄てずに生きがいであるスナック経営を続けている。父も母も形は別でも人の悩みを聞く相談役をしている。その娘である私もカウンセラーをしているのは共時性の技にも思える。母のことが大好きな姉は母の店の手伝いをしながら、母に寄り添いつつ、それなりに楽しく生活をしている様子だ。姉はきっと父も母も好きなのだろうと思う。父と50年ぶりに繋がったことを静かに喜びつつ母との生活も引き続き大切にしている。皆それぞれに第二の人生を懸命に生きている。ばらばらになった私たち家族。半世紀後巡り会い、少しずつ修復しつつも、昔と全く同じには戻れない私たち。父、母、祖父、祖母、兄弟姉妹、そういう名前がついているだけで、究極的には、父でも母でも姉でもない。いくら血縁の関係があってもそれぞれに一人の人間であるし、大切な何かを伝えるために私の前に家族の名を持って現れた人々に過ぎないと私は思っている。家族という人間関係のしがらみに苦しむ時、その関係を本質的ではなく、象徴的に捉えることで、心が楽になり励まされることを皮肉にも私の家族から教わった。
  母は私の「影」。しかしその「影」が私にしてくれた三つのことに私は感謝している。良い教育を与えてくれたこと、反面教師となってくれたこと、父の手紙を捨てないでいてくれたことだ。そんな「影」という名の実母によって奪われた父性を奪還するための半世紀の旅が終焉を迎えた。私は今、ここで高齢の母と母親代わりであった天国にいる祖母に伝えたい。「私を愛してくださり、育てて下さって、ありがとうございました。でも私は、あなたの愛に応えた生き方ができずにすみません。ただ、あなたからいただいたものを感謝して頂戴し、それらの贈り物を今後の人生に活かし、私なりの社会貢献への道を歩んでいきたいと思っています。」そして、私は、今日というこの日も、「世界一のカウンセラー」という父からもらった最高の勲章の言葉を胸に刻みつつ、父がくれたペンを握り、学び、書いていきたい。カウンセラー、執筆者、妻、母としての新しい半世紀の旅は今始まったばかりだから。

エピローグ
  私はこの自伝の大半を2021年に書き上げ、これまで少しずつ加筆修正を行なってきた。現在2024年5月。この自伝の内容を大きく変える気持ちはないが、二つの出来事を付記しておきたい。
  第一の出来事は、2024年5月17日「共同親権」の導入を柱とする民法等の改正案が参院本会議で与野党の賛成多数で可決、成立したことだ。この改正法は2年以内に施行される。この法案によれば、父母の協議によって単独親権が取得され、協議が成されない場合は家庭裁判所が親権者を決定する。DVや虐待が認められた場合は単独親権が維持されることになる。DVの認定方法が明確に説明されていないことや法律的強者が親権者になる可能性もあることから、この「選択的共同親権」の法律は、日本政府が巧妙にわかりにくく仕立てたものであると専門家の間で疑問視もされている。私は法律の専門家ではないので、ここで巧みな議論を展開することはできないものの、両親が実子を養育し、子供が実親と生き別れすることなく親子関係が継続するという基本的で当然な親の義務と権利、子供の権利が尊重される共同親権が日本国の法律として認められたことは大きな進展であると思っており、単独親権社会、片親疎外症候群の被害者の一人として、いつの日か、この共同親権の概念が、法律としてだけでなく、思想や倫理としても日本社会に根付くことを強く願っている。
   二つ目の出来事は、昨年秋に私たち家族の再会が実現したことだ。姉、母、父、そして私が半世紀ぶりに再会したのだ。姉と両親は日本で顔を合わせ、私はビデオ通話で参加した。驚いたことに、その日は私の出産の翌日で、病院にいた私はビデオ越しに家族から祝福を受けた。半世紀後の家族の再会と私の出産の日が重なったことは大変奇遇であり、象徴的であった。 父と母は共に私を育ててくれるはずだったが、運命はそれを許さなかった。その結果、私は幼少期に理想的な家庭生活を送ることができなかった。夫も幼少期苦労をした。だからこそ、私たち夫婦は、私たちの結婚生活がどんなに困難なものになろうとも、生涯添い遂げるため、互いに尊重しあい、50代で奇跡的に授かったこの新しい命を大事に育てながら、親として成長していきたいと思っている。そして、たとえ離婚することになったとしても、私たちは子供の幸せのために、必ず共同養育と共同親権を選択するつもりである。高齢で親となった私たちが、異文化の中で子育てをするのは容易なことではないが、この使命を果たすために私たちはベストを尽くすつもりだ。正に私たちの赤ちゃんは、新しい命、希望、光の象徴であり、私は今後も母親として、心理士として、社会活動家として、日本の真の共同親権社会の実現に、海外諸国の子供たちの心理支援に貢献できるよう、精一杯努力していきたいと思っている。

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