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スタンディングオベーションを浴びた薬 エンハーツ

 その発表が終わって会場の照明が明るくなると、数百人の聴衆が立ち上がって演者に拍手を送ったとのことです。お医者さん、大学の先生、製薬会社の社員、そして患者さん団体の関係者といったたくさんの人たち。それらの人々がみな上気した顔で興奮して懸命に拍手を送ったと。中には涙を流している人もいたそうです。その薬がもたらす希望に感動して。その薬が切り開いた未来を夢見て。

 それは今年の6月にシカゴで開催された米国臨床腫瘍学会(ASCO)でのこと。プレナリーセッションという大きな会場で行う目玉発表として、ある新しい薬の臨床試験の結果が発表されました。その薬の名前はエンハーツ(Trastuzumab deruxtecanとも呼ばれます)。日本の製薬会社である第一三共が生み出した薬です。

 シカゴでは毎年6月にこの学会が開かれます。がん治療の研究についての、世界で最も大きい学会で、世界中から数万人の研究者やお医者さんなどが集まります。それだけの大人数が入る会場はそうそうないので、毎年同じ会場、マコーミックプレイスという大きな建物を借り切って行われます。会場の中を歩き回るだけで疲れてしまうほどなのですが、その建物の中でもひときわ大きい会場で行われるプレナリーセッションでは、その年の大きな話題となる研究成果が発表されます。それに選ばれるということは、発表者にとって、ものすごく栄誉のあることです。ただし、話題となっている研究成果と言っても、その発表に対して、拍手喝さいやスタンディングオベーションが起こるようなことはまずありません。あくまでも、冷静に学問的な真理を追究する、科学的に厳格な学会であるからです。しかし、エンハーツの発表の際には聴衆がその興奮を抑えきれずに、「異例」なできごとが起こってしまったということです。いかにその薬の臨床試験の結果が素晴らしかったかということがわかります。

 エンハーツは乳がんの治療薬です。実はその発表の前に、すでに乳がんの治療薬として承認されており、実際の治療で世界中で使われていました。
 その学会での発表で新しかったのは、エンハーツを、Her2ハーツ―と呼びます)の量が少ない乳がんの患者さんに使ったという点です。それまでエンハーツは、Her2の量が多い乳がんの患者さんにしか使われていませんでした。そういう患者さんにはすごくよく効くということがわかっていたのですが、Her2が少ない人には効くかどうかがわからなかったのです。

 Her2というのはタンパク質の一つです。人間にはだいたい3万種類のタンパク質があるといわれていますが(動物も同じです、人間も動物の一つにすぎませんんから)、そのうちの一つで、細胞が増えるために必要な役割をするタンパク質です。乳房(おっぱいですね)にある乳腺の細胞でHer2は作られており、それが増えるために必要な役割をしています。
 乳がんは、その乳腺の細胞に異常(遺伝子が変になる異常、遺伝子変異)が起こり、増えることが止まらなくなってしまった病気です。健康な細胞であったときに乳腺細胞で作られていたHer2タンパクは、それが乳がん細胞に変化してしまっても作らており、乳がんの細胞が異常に増えてしまう原因の一つになっています。

 エンハーツは、そのHer2タンパク質にくっつく(結合する)性質を持つ抗体というものでできています。抗体は、本来は細菌やウイルスにくっついてそれを抑え込む働きを持つものですが、それを人工的に改造してHer2に結合するようにしているわけです。
 この抗体に、がんを殺す薬がくっつけられています。実際にがんの細胞を殺すのはこちらの薬の方です。トポイソメラーゼという、がん細胞が増えるために必要な酵素の働きを抑えることでがん細胞は増えなくなり、死んでしまうのです。
 でも、なんのためにわざわざ抗体にこの薬をくっつけているのでしょう?
 それは、この薬をそのまま飲んだり注射したりするのでは副作用が強すぎるからです。この薬はがん細胞を効率よく殺す働きがあるのですが、正常の健康な細胞にもやはりダメージを与えてしまいます。
 しかしエンハーツの場合は、抗体がこの薬をHer2を作っているがん細胞に選択的に運んでくれるのです。
 エンハーツの抗体部分は乳がん細胞の表面にたくさん露出しているHer2に結合すると、細胞はエンハーツを細胞の中に取り込みます。そして、乳がん細胞の中でエンハーツのがんを殺す薬の部分が働きがん細胞を殺す、という仕組みです。
 正常な細胞もHer2を作っているのですが、乳がんの細胞の方がずっと多い量のHer2を作っています。そのために、正常細胞に対するダメージを少なくすることができるのです。


 Her2をたくさん作る性質を持つ乳がんの患者さんにエンハーツがよく効くことは、すでに実際の治療の中でわかっていました。
 しかし、Her2の量が多い乳がんの患者さんというのは、実はあまり多くないのです。すべての乳がん患者のだいたい15~20%がHer2が多い患者さんであるといわれています。つまり、そうではない患者さんが約8割もいるのです。このHer2が少ない患者さん(専門的に言うと、In situ hybridization 法が陰性で、Immunohistochemistry法で1+または2+の「HER2低発現乳がん」)にエンハーツが効くかどうかを調べた臨床試験の結果がこの学会で発表された内容でした。

 DESTINY-Breast04と名付けられた臨床試験がそれです。これは、第3相と呼ばれる段階の、薬の効果を最終的に判断する勝負の試験という位置づけの臨床試験になります。世界中からHer2が少ない乳がん患者が集められました。そして、その331人にエンハーツによる治療が行われ、別の163人に一般に行われる化学療法と呼ばれる治療が行われました。その結果を2年ほどにわたって追跡して、その効果の比較を行ったというものです。
 その結果、がんが大きくならずにいた期間(無増悪生存期間と呼ばれます、英語ではProgression-free Survival、PFSと略されます)が、エンハーツの方がずっと長いことが示されました。
 それぞれのグループにおける無憎悪生存期間の中央値を比べると、エンハーツのグループでは約10か月、化学療法のグループではその半分の約5か月でした。集団全体として比べたときに、がんが大きくなるのを防いでいた期間が、エンハーツの場合の方が倍も長かったことになります。
 がんが大きくならずにいた期間は重要な指標で、よくこのようながん治療薬の臨床試験での指標として使われます。しかし、がん治療において最終的にもっとも重要なのは、それによってどれだけ生存期間が延びたかです。全生存期間(英語ではOverall survival、OS)と呼ばれますが、それを比較すると、エンハーツ群では約24か月、そして化学療法では18か月弱でした。
 この試験でエンハーツ治療と比べられた化学療法は、これまで乳がんの治療における最も進んだ治療であり、ようするにこれがこれまでの治療の限界であったわけです。
 エンハーツを使うと、明らかにこれまでの治療よりも命を延ばすことができることがこの試験で示されました。本当に画期的な成果です。それが多くの人が学会でのその発表に感動し、立ち上がって拍手を送った理由だったのです。

 この研究成果により、エンハーツが、Her2の量が多い乳がん患者さんだけではなく、Her2が少ない患者さんにも非常に有効であることがわかりました。これからはそういった患者さんに対しても、エンハーツがスタンダードな治療薬として使われるようになるでしょう。より多くの乳がん患者さんがこの薬を使うことができるようになるわけです。

 また、この試験の中では、Her2が少ないタイプの中でもより悪性度が悪い、トリプルネガティブ乳がん(Triple Negative Breast Cancer、TNBC)という患者についてもエンハーツの効果が試されました。その結果、このタイプの患者さんに対してもエンハーツは同じくらいの全生存期間を延ばす効果があることがわかりました。
 TNBCタイプの患者さんに対しては、これまで有効な治療法が限られていましたので、エンハーツが使えることが示されたことは大きな進歩です。これもまたこの研究結果に注目が集まった理由の一つです。

 今回の臨床試験の結果はまったくもって素晴らしいものです。乳がんの治療を大きく進歩させ、多くの患者さんに希望をもたらす画期的な成果と言えるでしょう。たくさんの人から「異例の」スタンディングオベーションを受けたのも当然のことと思えますね。


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