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トラウマと私③「大切なものを、大切にしてもいい」

少しずつ、自分を取り戻していく

自分の苦しみを認め、
カウンセリングやセラピーを受けて、「人との関係性」の中で受けた傷を、「人との関係性」の中で癒す勇気を持ち始めたことで、
わたしは少しずつ、 “生き残る” “生きのびる” のではなく、
 “生きる”というのがどんな感じであるかを、体験し始めることになります。

それまでは、つらいとき、「こんなことくらいで苦しむなんておかしい!」と
自らの苦しみに蓋をすることで生存しようとしていましたが、
そのおかしさに、だんだんと気づきはじめました。

つらいとき、苦しいとき、悲しいとき、
それを他の誰かの状況と比較せず、
ありのまま、認められるようになっていきました。

他にも、「嫌だな」「なんか変だな」というような「ちょっとした違和感」を無視して無かったことにするのではなく、
その感覚を信じて、それに基づいた選択ができるようになりました。
それまでわたしは、日常のあらゆる面で違和感を感じても、それが社会的に「普通」のことだったり、権威のある人が支持するアイディアだったりすると、「違和感を感じるわたしの方がおかしいに決まっている」と、決めつけていたのです。


嘆きと弔いの時間

ですが、すべてが順風満帆に運んだかというと、もちろんそうではありません。
あまりにも多くの、嘆きと弔いの時間が必要でした。

「子どもの頃、こんなふうに愛されたかった。あの場面で、こう声をかけて欲しかった」

そういった、満たされなかったあらゆる願いに気づき、それを嘆く時間が必要でした。

そして、満たされない願いを胸に抱いたまま、通り過ぎてしまった、子供時代のわたし自身に想いを馳せ、悼み、弔う時間も必要でした。
これは私なりの「インナーチャイルドワーク」の一種なのかもしれません。安心感を得られないまま、過ぎ去っていった、子ども時代。
その時代の中にいた少女の私を、心の中で、弔いました。

それは、自分の中で、お葬式を執り行うような、どこか神聖な感覚でした。
失ったものや、手に入れられなかったものの大きさにしっかりと目を向け、自分を抱きしめ、嘆き、悲しむプロセスを、何度も経験しました。
夜、一人きりで声を押し殺して泣くこともあれば、日常のふとした瞬間に悲しみがこみ上げることもありました。

私にはその時間が、どうしても必要でした。


世界に対する見方が変わってきた

そうして自分の感情を取り戻す中で、少しずつ、本当にゆっくりと、
私の認知が変わっていったように思います。

「感情であれ経験であれ、大切なものを、大切にしてもいい」という世界を、初めて発見したのです。

「大切なものを大切にする」なんて、
当たり前のように聞こえるかもしれません。

でもかつての私には、それができませんでした。
そもそも何が大切なのかわからないし、「大切だな」「素敵だな」と思えるものがあっても、他の誰かから「そんなものが?」「それは価値がない」「もっと大事なものあるでしょ」と言われると、その意見に同意し、自分がそれを大切に想う気持ちを投げ捨てていました。

「大切なものを、大切にしていい」
「私が大切だと思うなら、それは大切なんだ」

そういう視点で世界を見渡すと、
大好きで、大切だと思えるものが、意外にもたくさんありました。

「大切」なものを、再発見


そして、私自身も、「大切なもの」のひとつでした。

「私はわたしを、大切に想って、大切にしても、いいんだ」
「他の誰かがわたしの一部やすべてを大切な存在だと思わなかったとしても、わたしは、わたしを大切にしていいんだ」

そのことに気づいたときの衝撃は、忘れられません。


④につづく

お読みいただき、ありがとうございました。わたしという大地で収穫した「ことばや絵」というヘンテコな農産物🍎🍏をこれからも出荷していきます。サポートという形で貿易をしてくれる方がいれば、とても嬉しいです。