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自分を愛するということ

昨年末から、とても多くのことに気づいてきました。
それは、新しいことを学ぶというより、
もともと知っていることを、
丁寧に、ゆっくりと、時に痛みを伴いながら、
思い出す作業であったように思います。
今日は、この数ヶ月の気づきを、本腰を入れて、文章にしてみようと思います。

「スピリチュアルな探求」?

その頃、
「スピリチュアリティ」「スピリチュアル」「自分を愛すれば○○できる」
という、いつの間にか商品化された、
そういう言葉の洪水に、とても疲れていました。

それ以前もわたしは、
「スピリチュアル業界」のトリックと手法を理解して、
『そういうのに引っかからないようにしよう。私たちはありのままで十分なんだから』というメッセージを
既に絵や文章を通じて発信していたにも関わらず、
あの頃、少し油断すると、
「わたしの知らないすごい情報があるに違いない」
という、強迫的な衝動に駆られて、
本で、Instagramで、誰かのブログで、
常に新しい情報を探していました。
それを「探究」だと自分に思いこませながら。


そういう時期は、
自分が描いた絵が、考えが、日常の全てが、
とても陳腐なもののように感じていました。

「あれ、おかしいな。わたし本当は、何がしたいんだっけ」

違和感を大事に


ありがたいことに、2021年後半以降のわたしは、
その頃感じた違和感を、決して無視しませんでした。
時折、「なんか効きそう」なメソッドに
飛びつきたくなってしまいそうになることはあっても、
何度でも、自分の心に立ち返り、
いのち(宇宙とか源とか愛とかのことを、わたしはいのちと呼ぶのが好きです)が自分を通して本当に表現したいことを、
感じとる作業を続けてきました。

感謝しているのは、わたしの周囲に、
実際にそういうふうに生きている美しい人たちがいてくれたことです。
彼女たちはわたしに何かを「教え」たりしませんでした。
ただ、彼女たちが自分のいのちを全うしている様子が、
本当に大切なことを思い出すリマインダーになりました。
ひとりでは、とてもできなかったと思います。

「自分を愛する」を、ことばにしてみる

ようやく、自分のいのちの軸を、
再び見つけられたような感覚があります。
そこで、このタイミングでここ数ヶ月を思い返し、
気づいたことを、ことばにしてみます。
自分でも驚くくらい、
それまで信じてきたことや、選んできた視点とは真逆でした。

ただし、これから書くことは
「今のわたしの、いのちの質感とその表現」なので、
『自分を愛するとはこういうことだ!』みたいな、
ハウツーのつもりではありません。

良い悪い、正しい間違っているのメガネを外して
好奇心を持って読んでくれたら嬉しいです。


自分を愛するとは…

■あきらめる

ここで言う、あきらめるとは…

1.探さない

自分の「欠点」を、わざわざ、探すことを、あきらめる。(私たちの多くは、無意識のうちに、自分の欠陥、愛せない理由、を探しているのだそう)
どんなにたくさん見つけて、
「ほら、私にはこんなにたくさん欠点がある。欠陥がある」と言ったところで、
いのちは、にっこり笑うだけ。

2.隠さない

欠点や欠陥と思われる部分を、隠すことを、あきらめる。
それは、完璧に設計されたパーツであり、
緻密に計算されてそこに置かれた色であり、
オーケストラの中のひとつの音。
あることは、ただある。すでにあるものを、隠すことはできない。
結局のところ、一生をかけて、隠そうと努力したところで、
いのちはそれを何度でも明らかにし、慈しみ、味わっているのだから。

3.補わない

欠点や欠陥を、「学び」で埋めようとすることを、あきらめる。
資格を取ったり、スピリチュアルな学びをして、
凹のへっこみを埋めようとすることを、あきらめる。
自分という存在に対して何かをすることを、すべて、あきらめる。
そして、いのちの手中に落ちていく。甘やかな降伏。


(補足:この"あきらめる"に関しては、メンタルモデルの由佐 美加子さんの理論に大きな影響を受けています。特に、欠陥欠損モデルに関する動画(私は本編を購入しました)はとてもわかりやすく、助けになりました)

■クリア後の世界を、生きる

ゲームで例えるなら、
全面クリアして、倒すべき敵も、
達成すべきタスクもない世界を生きる感覚。
たまにイベントがおこるけれど、
クリアしているから、結果はどっちでもいい。
クリアしているから、全部、大丈夫。
この、「どっちでもいい」という感覚。
わたしはそういう世界が大好きで、
この感覚で生きることを大事にしたい。

■あたりまえにする

自分のいのちの声を聞いたり、身体や心のケアをしたり、
自分という存在を大切に扱ったりすることを、
全部、「特別なこと」にしない。
「自分を愛すれば願いが叶う」
「自分を愛すれば幸せになれる」という言葉に踊らされて、
「自分を愛する」ことを、
「”自分を愛せない、という自分の欠陥”を補うための手段」にしない。
「自分を愛する」ことを、「願いを叶えるための手段」にしない。
「自分を愛する」ことを、「幸せになるための手段」にしない。

ただ、自分を愛さないことを、あきらめる。

「自分を愛する」とは、何かをすること(Do)では説明がつかない。
自分を愛すること=Doだと思っていると、
結局、何らかの手段になってしまう。
「自分を愛する」とは、
「自分が自分である(Be)」という、ただそれだけ。

どんなに自分を嫌いでも、
そんなこと言っても、私たちはもう、
どうしようもなく求められ、
創り出され、見事に存在(Be)してしまっているということを、
受け容れてしまう。

私たちは、自分のDoはいくらでもアレンジできるけれど、
Beは、いじれない。いじらない。いじる必要がない。

■捧げ物としてとして、生きる


わたし自身が、
「いのち」の美しい創造物であり、「いのち」への捧げ物。
その心づもりで、生きる。
"生き残る"のではなく、"生きる"。

最後に

もしこの記事が、
フッと視点が変わったかも…
そんなきっかけになっていれば嬉しいです。

これからは、もっと、もっとハダカの心で、
いのちを丸出しにして、絵を描いたり、
文章を書いたりしていきたいです。

もしよかったら、インスタやWebサイトにも遊びに来てください。

instagram  @drizella_jpn

Webサイト Deep Unlearning with Drizella
※お問い合わせはインスタのDMか、
上記サイトの「コンタクト」からお願いします。


ありがと。
ドリゼラ

お読みいただき、ありがとうございました。わたしという大地で収穫した「ことばや絵」というヘンテコな農産物🍎🍏をこれからも出荷していきます。サポートという形で貿易をしてくれる方がいれば、とても嬉しいです。