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作文嫌いの極み(小学生編)

自分がこうやって隙潰しに文章を書いてインターネットの海に垂れ流しているなど、小学生の頃の自分には信じがたいものだ。
なにしろ、運動会の感想を1時限の間に「私は、」まで書いて終わっていたのだから。当時はなぜこれほど作文が書けないのか、自分自身でも理解していなかった。
だが、今になって考えれば簡単なことだった。

1、嘘をつくのが苦手
2、自分の考えを知られたくない
3、そもそも興味がない

この3つが大きな壁となっていたと思う。
もし、作文が苦手だという小学生の方がここまで来て下さっていればぜひ参考にしていただきたい。

まず1つ目の「嘘をつくのが苦手」ということについてだ。
小学生の作文で嘘をつくタイミングとは、どこかわかるだろうか?
大人になった今なら、作文なんて思ったことを素直に書けば良いと思えるし、子供なんて素直なものだと思い込んでしまうが、案外小学生当時は気を遣っていた。私自身、集団行動も好きではないしスポーツもやっていなかった。だから運動会なんて正直言うと「全然楽しくなかった」が、それは間違った感情なので、「楽しかった」と書くべきだ。嘘が得意な子供にはこれは簡単なことである。
私は嘘が本当に苦手だったので、「面白かった(興味深かった)」と無意識に言い換えていた。
嘘をつかず、角の立たない言葉遣いが身につけばクリアできる問題だった。しかしこれが身につく頃には小学校は卒業しているだろう。

2つ目の「自分の考えを知られたくない」に関してはそのままの意味でわかりやすいと思う。何を思ったか知られることへの不安があった。何かを努力した結果を見られるのではなく、自分自身の持って生まれた感覚、変えようのない部分を評価されることが恐ろしかった。小学校なんて特に排他的になりやすい集団だ。その中では、いかになんでもない人物として過ごすかがとても重要である。
2年生ぐらいの時に一度だけどうしても納得できず、批判的な立場を取ったことがある。それは、国語のテスト問題だった。「登場人物の〇〇君の意見を聞いて、あなたならどうしますか」みたいな問題だった。賛成意見を書けとは指定されていなかったので、〇〇君の意見に私は一部賛成し、多くは反対意見を書いたのだ。今考えてもそれは間違ってはいなかったと思う。しかし、答案用紙が返ってくるとそこにはバツがつけられており、「反対のことは書いてはいけません」というようなことを書かれていた。しかも、それを教卓で「問題に書いてあることをダメだというのはおかしい」と発表され、最悪の気分になりながら悟った。結局、思ったことを本気で馬鹿正直に書くと損をするだけなのだ。
自分の意見としてはこの解答は間違っていなかったと言えるのだが、学校生活としては確かに間違った解答だったのかもしれない。変に反対意見を出すことで自分の身を危険にさらすのは辞めろと、この先生は教えてくれたのかもしれない。そう思うほかない。

そして最後に「そもそも興味がない」についてだ。
作文の題材になるものに関して本当に興味がなかったのかもしれない。私は記憶力が弱く、同時進行で物事をこなすことが難しい。そして興味がないものについてはほとんど記憶できない。行事が終わったあとに作文を書けと言われても、そもそももう覚えていないのである。記憶のないものについての感想文など書けるわけがない。
作文を書けないのは、なにか難しく考えすぎているんじゃないかとか、書き方が分からないんじゃないかとか、そういうことを発想しがちだろう。実際この理由も正しいと思う。しかし、それ以前にそもそも興味がなさすぎて書くことがない可能性は十分にある。例えば小学生に全然おもしろくないB級サメ映画を見させて、400字の感想を求めるのは酷だと思いませんか?そういうことです。

今となっては作文なんて簡単に書けるものである。しかしそれは私が本当に物事に興味を持って、その題材についての賛否を自分の中で考えることができるようになったからである。こんなことを小学生に求めるな。私が本気で努力した結果を、作文が苦手な小学生がちょっと頑張った程度のことだと思うな。
私は大人になった今でも、簡単に感想を述べるというようなことがクソほど苦手である。簡単に述べられるような意見なんて持っていない。もっと言葉にしがたい、複雑な感情が混じり合っている。それを表現できない小学生を、ただ作文が苦手なだけと簡単に言ってくれるな。
大人になった今ようやく、小学生の私の気持ちを代弁している。

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