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ドリルフィールドと時計

・「時間」とは

人間とそれ以外の生物が感覚を共有できる数少ないものの内の一つに、「時間」という概念が存在します。正しく言うと、人間が勝手に「時間」って言ってるだけで実際はそんなもん存在しないんですけども、例えば日が昇ったら鶏が鳴くだとか、日が最も高い頃には猫は木陰で休むだとか、夜に犬とその飼い主は同じ布団で寝る(又は仕事や狩りを開始する)だっていう、一日の巡りに対応した行動はあらゆる生物が感覚を同じくして共有しているものなんじゃないかなと、そんなものは他には少ないんじゃないかなと、私は考えているわけです。

「時間」はそんなすてきなものである一方で、私達をあらゆる形で縛りつけます。「出勤に間に合わなかった」「課題を終わらせるには足らなかった」「もうこんな時間か、寝なければ」「こんな時間から晩飯を食ったら太る」とか、そんな感じで。一方で、これらが全部、時間通りにいっていたとしてもそれは当然な事で、喜びの感情に結び付くことは少ないですよね、私、これはとてもフェアじゃない事だと思うんですよ。

話題を変えます。

・すばらしき時計

ドリルフィールドはとても、時計が好きです。それは、時間という概念を表す最も洗練された道具でありながら、洗練され過ぎて逆に余裕が出来ちゃって、デザインの工夫とか遊び心が満載なところが、とても好きです(因みに壁掛け時計も腕時計も、置時計も好きですが、デジタル時計は事務的な顔をしてて冷たいのであまり好きじゃない)。私は私生活において、あまりにもストレスを遠ざけたい一心から、時間にかなりルーズなのですけども、時計は決められた時刻を正確に伝えるために黙々と針をすすめる、そんな仕事人な部分に尊敬を持てるし、(電池が切れかけて)疲れたり、年老いたら正確じゃなくなる、そんな人間みたいなところにも好感が持てます。名前も良い。「じけい」じゃなくてほんとによかった、「とけい」の方がお洒落だしかわいい。

今張った写真は私の気に入っている腕時計の写真です。それぞれに出会いの思い出があります。フリーマーケットで値切った思い出とか、誕生日にもらった思い出とか、色々。

気づいた方もいるかもしれませんが、私の腕時計は(一部の例外を除いて)その全てが10時10分を指しています。

・美しき10時10分

10時10分という時刻を指すアナログ時計は、この世で最も美しい形のものである事は明確です。気づいてない人は何言ってんだって一瞬思ったかもしれませんが、言われて思い返してみたらそんな気がしてきたんじゃないですか?長針、短針、動き続ける秒針を考えるとあまり均整の取れてるとは言えないのにも関わらず、きれいに感じるとても不思議な形。

形だけではなく、時刻的な意味での10時10分に目を向けると、それが朝でも夜でも、その時間から何かを始めるには、まだきっと遅くない時間なんじゃないかと思うんですよね。

10時10分はまだ遅くないという安心と、これから何かをしようという行動力をくれる程よい時間、そして美しい。だから私の時計達は少し贅沢ですけども、10時10分に止めてある。贅沢だけれど、時間が私達を縛るなら、「時間通り」がフェアじゃないなら、そんな時左手首をちらっと見るだけで出来る、そんな現実逃避もありなんじゃないの?と、そういう話でした。

おしまい


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