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坂道のディスクール・断章 『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』は「恋愛」と「告発」の映画だと思った一人の「残酷な観客」の感想

ところで、不在は他者についてのみ言えることなのだ。出発するのは相手の方であり、わたしはとどまる。あの人はたえず出発し、旅立とうとしている。本来が移動するもの、逃げ去るものなのだ。これとは逆に、わたしは、恋をしているわたしは、本来が引きこもりがちで、不動で、受身で、待ちつづけ、その場に押しひしがれ、取り残されている。

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』「不在」の章より抜粋

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乃木坂も日向坂も欅坂も好きなのです。


ただ、一番面倒臭いことをあれこれ考えたくなるのは、やはり欅坂じゃないかなと思っています。


というわけで欅坂46のドキュメンタリー映画を観てきました。


この映画は欅坂46をよく知ってる、あるいは少しでも良いと思ったことがないとスクリーンで何が起きてるか認識することがいささか難しく、その意味でほぼ『エヴァンゲリオン DEATH』編と類似した構造になっています。たとえば状況の切迫度に伴って途中から時系列を意図的に崩すところとか。この辺は、思わせぶりに謎やそのヒントを提示し続けているようにも見えた欅坂46と、エヴァンゲリオンとの相関を想起せずにはいられません。


しかしまあ、エヴァンゲリオンとの類似性はさて置くとしても、映画としての『Documentary of 欅坂46』最大の特徴はまた別にあります。


それは、世間的にはそう認知されているであろう欅坂46の主役=平手友梨奈が不在であるということです。


もちろん、彼女はすでに欅坂46を離れていますから、そのため必然的に不在なのです。


が、単にいないということ以上に、この映画が「絶対的センター」だの「欅坂の象徴」だのの呼称がついて回った彼女、欅坂46と言えばまず彼女が引き合いに出されていた平手友梨奈の不在を主題にしたことは明白です。それは、不在なのに映画的には主人公の位置にいること、不在の彼女以外の人間が彼女を語ることで、逆に存在が際立つという手法が強調されていることから理解されます。


そして言葉を選ばずにいうと、おそらくですが、映画の制作者たちは平手友梨奈の不在という欅坂46の状況を利用したのでしょう。そしてこれもまたおそらくですが、利用、といっても悪意を持ってのことではないでしょう。


「良い作品を作るため」に利用したのです。


同時にその、良い作品という曖昧な概念が持つあやうさとの境界は、この映画の中で断片的に語られることとなります。

■あの衝動はまるで恋だね

基本的な映画のタイムラインとしては、デビューから始まり、そのうち平手友梨奈もメンバーも精神的肉体的重圧を抱えるようになり、そして平手は離れ、その後の欅坂46は活動終了と改名を宣言する、という流れを追ってます。その流れの中に、様々なライブ映像や、現役メンバーを主な対象としたインタビューが挟まれます。つまり、この手のショウビズドキュメンタリーによくある構成に、本作もまたなっているのです。


ただしやはり特筆すべきは、インタビューなどその様々な「語り」のほとんどが、不在の平手友梨奈についてだということ。


いや、彼女は絶対的センターだったから、天才なんだから、当然でしょ?と、そう言ってしまうのはその通りの部分があると思いつつも、そう片付けてしまうといささかイージーな気がします。


そう、メンバーは多かれ少なかれ、不在の平手について語り、それはまるでかつての恋人の呪縛や、そこからの自立について語るかのようでした。


中でも欅坂のキャプテン菅井友香が語る場面は、キャプテンだけに必然的に多く、優等生的とも評される彼女は言葉を選びながら、しかし誠実に、欅坂46の置かれた状況について、つまりはほぼ、不在の平手友梨奈についてを語ります。その語り口はまるで、失った苦しい恋を振り返るかのようで、語れば語るほど苦しさは増すように見えました。しかもその間、彼女の目線はほぼカメラと合うことはありません。そこに業や根の深さを感じました。


平手じゃないと、平手以外は考えられなかったと、他ならぬメンバーたちの口から語られる言葉。


多少の例外はあれど、映画を見る限り、メンバーは基本的にかなりの度合いで、平手友梨奈あってこその欅坂46であり、平手友梨奈と自分たちは違う立ち位置である、という想念や状況に、言葉を選ばず言えば依存していたようにも見えました。


また、そこには、作品のために、良い作品のために、といったニュアンスが添えられています。しかし、そのことはある種の口実に働いたように映画の中では見えました。おそらくは誰も、平手友梨奈と同じ目線に立とうとすることは、なかったし、できなかったのではないか……と、そう言外に感じさせる映像や言葉たちが続き、作品のために平手友梨奈が存在しているかのような状況は、結局彼女を孤独へと誘ったことが、断続的に描写されます。


そして離れる彼女。


ここにいるのに気付いてもらえない、だから一人きりで角を曲がるしかなかった。欅坂46になくてはならない存在であったとともに、であり過ぎたがゆえに欅坂46とって不在の他者となってしまった彼女。


それはお互い不幸な結末だったのか?


メンバーの語る様々な葛藤や自立や奮起のエピソードは、まるで熱情的な恋愛の終焉のように、そして新しい恋を探すかのように、それらがなるべくしてなったようにも見え、ひとつの答えなのだろうと思いました。


不在の他者への語りが中核を占め、本来は他者ならざる者が他者へと転換してゆく、そしてそれぞれが異なる道を歩き出す様が、本作がまるで恋愛映画だと感じたゆえんなのです。


■ささやかで重い告発を添えて

ですが、もうひとつ、この映画を貫くテーマがあると思っています。


それは、告発、ではないでしょうか。


敢えて書くなら、欅坂46の作品とは大人が「大人への反逆を唆す」多重構造であり、マッチポンプであり、仕組まれた演劇です。もちろん、多くのファンはそんなことはわかっていてなお、欅坂46に惹かれているわけです。その点を突き詰めるとプロデューサー主導のアイドルというシステムそのものへの懐疑や否定に繋がるのですが、しかしそれは別にアイドルに限りません。およそ反逆や抵抗を歌う作品のほとんどは、ある種の大資本や権力が供給しているのですから。

でも、そんなことはきっと一番大事なことじゃなくて、欅坂46にとって決定的だったのはたぶん以下のようなことです。


反逆や反抗といった物語を世間に消費させる構造に明確に舵を切ったこと。

パフォーマーとして類稀なる才を持っていた平手友梨奈をその固定的象徴として担いだ構造。

その構造に当の平手やメンバーたち自身も没入していったこと。

そして、おそらくそれが、少なくともある程度の時点まで良い作品作りという大義名分のもと推進されたであろうこと。そして気付いた時には引き返せなくなっていたであろうこと。


平手友梨奈が、ここにいるのに気付いてもらえないから、一人きりで角を曲がるしかなかったこと。

ある卒業したメンバーは語りました。欅坂46のスタッフはみな優しいし、良くしてくれたと。平手友梨奈も、この映画が全てではないと、そのようなスタッフであるから安易に運営を責めないで欲しい、といった趣旨の発言もしているようです。


本当に、その通りなのでしょう。いわゆる運営の皆さんを糾弾する、みたいな心理は自分にはほとんどありません。たとえば自分も仮に仕事で関わったとしたら、同じように振舞うかもしれません。


総合すると、欅坂46の周囲にいた大人たちとは、良い作品を作ることに妥協のない、かつ優しい人たち、ということになります。エンターテインメント世界のプロフェッショナルの姿として間違っていないんだと思います。


だけど、果たして、一体、それはどういう優しさだったんでしょうか。あるいは「欅坂46として妥協せず良い作品作りをすること」が、大人として守るべき、年若い人間の何かを犠牲にする自縄自縛の構造に陥ってなかったと果たして言えるのでしょうか。目の前で倒れてうずくまる少女を見て、感じても、欅坂46というイメージを崩さないことが、果たして。そしてそれを見続けた我々ファンは、果たして。


映画の中で、もっとも強く印象に残ったシーンがあります。


監督なのか、インタビュアーなのか、この映画を撮影する側の人間が、欅坂46のコレオグラファーであるTAKAHIROさん(彼とメンバーが、単なる振付を超越した師弟関係にあることは、ファンならよくわかってることでしょう)へ、このようなことを問いかけます。


「大人の責任ってなんだと思いますか?」
と。


おそらくそれは、「(欅坂のこの状況って)貴方達がそう仕向けたんですよね?」という問いです。


わずかに感じられる逡巡、TAKAHIROさんは「見守ることでしょうか。点ではなく線で」という風に答えつつインタビュアーに逆に問いかけます。


「逆にどう思いますか?」
と。


おそらくTAKAHIROさんの言葉は、その立場から発した「責任を持って見届ける」という旨。ひとつの答えです。しかし迷いも感じられる。そこで逆に問うたのは、わずかに苛立ったからなのかもしれません。


「撮影してる君たちも、いや、何ならその映画を観る君たちも、もしそれを言いたいならば、共犯でしょう?」
と。


このシーンが劇中で一番スリリングな瞬間だったように思います。


我々観客たちも、運営主体も、なんならメンバー自身も一種の共犯関係にあることは、本来指摘されるまでもないことながら、それは皆一様に口をつぐみがちです。

特に我々観客たちの欲望は、写鏡のようにエンターテインメントの内容や内実に反映されます。映像作品としての出来はいささか疑問ではあったものの、欅坂46がグループとして最後に撮影したドラマの名前が『残酷な観客達』であったことは、たぶん偶然ではないのです。


映画内でTAKAHIROさんへの質問という形で、そして実直なTAKAHIROさんであるがゆえの回答を通じて控えめに示唆されたことは、欅坂46をここまで来させてしまった種々様々な欲望への告発だったのではないでしょうか。


共犯者たる我々には、最後まで見守ることしかできないのかもしれません。欅坂46を巡る構造を享受しながらも頭ごなしに否定することは、それこそ欺瞞的であるようにも思えます。

なにかと欅坂や平手友梨奈を天才だなんだと祭り上げたり逆に大したことないなどと嘲ったりする「僕ら」。反抗、反逆などの常套句に落とし込んで評するばかりのメディア。欅坂46的なものを再生産する安全牌を選ぶかのように見え、メンバーの疲弊が見えていてもドラスティックな手は打てなかった作り手。


この何年か、それらの環境は彼女達や「僕ら」を息苦しくしていたのではないでしょうか。そして、彼女達のうちある者たちは去ってゆきました。この映画を観て、ああ、やっぱり彼女達は息苦しかったんだな、それを見てた自分たちも息苦しいと言って良かったんだろうな、と改めて気付けたのは、たぶん良かったんだと思います。


彼女達は歩き出そうとしている。
だけど問題は、誰がその鐘を鳴らすのか?と問いながら。しかし、そばの誰が誰でも鳴らせば良い、と答えながら。


欅坂46の嘘や真実がたくさん詰まった箱は開けられました。その奥底には、希望が残った、と感じています。

あの人の不幸は、わたしからあの人を遠く運び去る。わたしにできることといえば、そんなあの人を息せき切って追いかけることでしかない。それでいて、あの人を捉えることも、合体することも、ついに望みえないのだ。それくらいなら、少しは身を隔てることにしよう、一定の距離を置くすべを学ぼうではないか。生きよう!

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』「共苦」の章より抜粋

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