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日本のアメリカン・フットボールは未だアマチュア。なぜか? サッカーがJリーグを誕生させ、五輪、W杯がかなり身近なものに。バスケットボールもBリーグの誕生で、結構な人気スポーツに昇格。世界で戦える可能性を見せ始めた。頂点のプロ化で、底辺が広がって、選手層が厚くなり、異才を持つ選手が出て来たからである。では日本のフットボールは? 見せる、魅せるスポーツとしては群を抜いている。1934年に始まって、ほぼ一世紀が経過しようとしているのだが?

――by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports Pressに約20年在籍した。新聞社のキャリアの後半で、日本のアメリカン・フットボール界のレジェンド、日本大学フェニックスの鬼監督、篠竹幹夫さんと知り合ったことから、社会人フットボールと関りが出来、「これはプロ化するべきだ」と思った。それは歴史と競技の特異性を見れば歴然なのだ。

☆Do your best

and
  It must be first class‼

           ――Paul Rusch

私と山梨日々新聞時代の井尻俊之氏の共著。
出版記念パーティーには、高松宮ご御夫妻の御臨席も賜った。

【直近のドタバタ話】

①幻の増補版 
 何年振りだったのか、『1934――』の相棒、というか、"日本のフットボールの父"ポール・ラッシュの"私設公報担当"の井尻俊之氏から、電話があった。
「KEEP協会(Kiyosato Educational Experiment Project=清里教育実験計画)の理事から連絡がいきます。我々の本の増刷を企画しているようです。話を聞いてあげてくれますか?」
 しばらく、頭の中から日本のフットボールの文字は消えていたが、自分も関わった出版物なので、「知りません」とは言えない。「ほとんど家にいますから」と答えた。
 翌日、早速ポール・ラッシュが作ったKEEP協会の理事というN.氏から電話があり、近くの喫茶店で会った。ポール・ラッシュの"本籍地"のような日本聖公会の聖職者も務めているので、至極真面目な人だった。聞けば、W大のフットボール経験者で社会人の名門、Rでもプレーしたという。
「清里の清泉寮で販売していたのですが、在庫切れ。読むほどに是が非でももっともっと広く読んでいただきたいと思いました。そこで、新たに増補本を出したいと考えています。是非、著者として、執筆、アイデアの提供をお願いしたいところです」
 しかし、今さら書き足す材料があるのだろうか? あれば物書き人生をやってきたわけだから……。版元のスポーツ専門のB社にも聞いてみなければならない。ふと、不安がよぎる。夢や綺麗事だけでは出版は成立しない。結局、次に進むに当たってプロの知識が必要になるのである。出版社はどこかで採算が取れるような青写真がなければならない。当たり前である。
 私はその辺も理解してもらうために、井尻氏も含めて井尻氏の地元(山梨県甲府)で打ち合わせ会をお願いした。旅行も兼ねて。後腐れないように自費。甲府の駅ビルにある寿司屋で会った。
 2時間ほど、あれこれと解説した。分かってもらえたような気がして帰ってきたが、やっぱり細部までは難しかったようだった。
 再度「打ち合わせをお願いします」と連絡が来たので、口頭では難しいかと思い、増補版を作るには、まずどうすべきなのかを改めて書面で送ったりもした。
「日本協会の〇〇さんも、販促に協力してくれることになりました」
 こんなリアクションが何度か届いた。私から言わせれば、日本のフットボール界の盛り上げ、"日本のフットボールの父"のPRしようというのに、日本の協会が"協力しても良い”なんて、どういう感覚なのか? 本来なら、汗かきを買って出るべきだ。私はここで、またか、と思った。協会という所は肝心なところで、いつも木で鼻をくくったようなリアクションなのである。
"これは無理かもしれない”
 私は再度、井尻氏に事の顛末をレポートして報告した。結局、この話はB社を口説く前に終わった。
 上記の『1934――』はすでに絶版となって、B社の管轄を離れ、在庫は引き取り業者の手に渡り、ネット上では販売されていた。
 増補版を出す――原本をデータ化して、一からの作業になる。細部が詰められないまま、幻となった。出版社からの"起こり"であれば、話は別だった。

②指名手配
 時をほとんど同じくして、私を探しているフットボール関係者がいた。
 ある夜、酔って帰って携帯を充電する際、お報せがあるので開くと、人生の中でお世話になった、恩人的なイメージのあった、在阪のK.K.さんの着信歴があった。この人は、本場アメリカのフットボールに、日本で一番詳しいのではないか。過去にはテレビ解説、社会人チームのヘッドコーチも務めたこともあった。
"えーッ!? 一体どうしたことなのか?"
 翌日、電話を入れると、K.さんはやたらに興奮していた。
「いや~、随分探しましたよ。色々な人に聞いたんですが、なかなか分からなくて……」
「どうしましたか? ずっと同じ場所にいましたけど」
「不義理のままで申し訳なく思っていたのと、私もいい年になってきたので、人生まとめの一冊を出したいと思ってるんです。協力をお願いしたいんですよ」
「そうでしたか、近々大阪に用事もあるので、寄らせてもらいます」
 "用事"は方便であった。ここも何があっても"後腐れ"ないように、である。
 私は記者時代の知り合いと会って、K.著の出版物について参考意見を聞いた。
 もちろん"フットボール評論家"K.さんの名前は知られていた。
「しかし、一般の人はどうでしょう。何か思い切ったテーマにすれば、いけますかね」
 そこで私は、”知将の遺言 なぜ日本にプロフットボールは誕生しないのか?"にたどり着いた。これなら、自分自身も社会人フットボールのプロ化への青写真を作っていた事、日本大学フェニックスの闘将、"鬼の篠竹幹夫"(他界)をハブにした、社会人チームの"オーナー会"が次のステップへ向けて、動き出そうとしていた事実、それに1934年に日本のフットボールをスタートさせた、ポール・ラッシュの遺志、そして"知将"の日本のフットボールに対する"熱い思い"を組み合わせれば、読み応えのある"遺言"が出来ると確信した。K.K.さんは世が世なら、フットボール界の川渕三郎であったかもしれないのだ。
 この企画をもって、スポーツ出版の大手、B社を訪問して感触を聞いた。担当編集者は、もろ手を挙げて、とまではいかなかったが、著者側も"協力条件"を飲むという形で、基本合意した。"条件"とは、完成本の買い取り約束などで版元の負担を軽減するものである。
 態勢が整ったところで大阪へ行って、著者本人と打ち合わせをした。"なぜプロ化しないのか"の基本テーマには異議なし。それでは、あれを入れ、これを入れ……と具体的な話になって、企画は一気に前進しかけたのだが、ちょっとした"引っ掛かり"も出て来た。
 著者には、本を出すなら、こだわりたいものがあったようだ。まずは関西のフットボール界の人間関係。著者は色々とできる人で、様々な場面で声がかかったのだが、その都度、摩擦が起きた。"目の上のたんこぶ"のようなA.F.氏から年功序列的な"締め付け"を受けたそうだ。これがずっと続いて、腹に据えかねていたという。そこでファイナル・メッセージは、それを公にしたい……と。しかし、これは"私怨"である。このF.氏、関西のフットボール界に限って有名人であるが、一般には無名に近い。それを糾弾したところで、せっかく大所高所から、日本のフットボール界に提言しているのに、何のこっちゃ? となるだけである。逆に正論を述べていくことで、誰のやり方が間違っていたんだ? となるわけである。
 この解説で、著者も納得したようだった。
 こだわりのもう一つは、あの力道山。日本のフットボールのプロ化に、力道山も意欲を示して、メッセージを出していた、という逸話だ。力道山は確かに、「フットボールをプロ化して発展させるべきだ。大相撲からの人材も考えられるし……」とぶち上げたことはあった。それは興行中、リオ・ノメリーニのタックルを受けて肩を痛めた時、次男の義浩(慶応大で選手=他界)さんのプロテクターを着けて試合に出て、そのパフォーマンスを行っている。しかし、その時だけの話で、後援者で新田建設社長の新田新作氏も日本テレビの正力松太郎オーナーも、何のアクションも起こした形跡がないのである。しかも力道山は、非常に複雑な背景を持った人なので、この出版のテーマの中で、ポイントを置くのは危険と思われた。力道山に関する論客は少なくない。版元がスポーツ分野の大手、B社となれば、当然である。何かにつけて、「それは違うでしょう」と"口撃"される可能性があった。
 結局、この2点の溝が埋まらいまま、時間が経過。その過程で、"目の上のたんこぶ"と言っていた、関西のF.氏が亡くなった。著者のモチベーションが下がったのか? 出版社が立ててくれた進行スケジュールに合わなくなり、出版を断念せざるを得なくなってしまった。大変残念であった。
 日本のフットボールはなぜプロ化しないのか? 私の書き溜めた原稿もお蔵入り……とあきらめかけたが、noteのお陰で、息を吹き返すことになった。Big thanks‼

見せる、魅せるを兼ね備えたフットボール。
プロ化によって、さらに異才を持つ選手が出てくるはずだ。

☆プロ化への最大のチャンスがあった‼

【山梨県上野原に、フットボール・テーマパーク】

「日本のフットボールが目立ちませんね。専門誌が消え、新聞にもテレビにも露出度が低くなった」
 こういう私の感想に、フットボール関係者は判で押したように、コメントする。
「いやいや、ようやくオリンピックでフラッグ・フットボールが登場するんですよ」※2028年のロサンゼルス五輪で公開競技の予定。
 フラッグ・フットボールは背中に"旗"を付け、タックルの代わりに、それを取り合う。取られたらボール・デッド。5対5で競い合う。
 本物ではない。フラッグ・フットボールから、本物をイメージできる人が何人いるのだろうか? 1934年に第一ゲームを行われてから、ほぼ一世紀が経とうというのに、プロ化もされていない。競技が発展しているとは思えないのに、この喜びようは?
 また、プロ・リーグを誕生させるべきでは? との提言に対しては、
「NFL(National Football League)を見たら体格的に無理でしょう」が定番の答えのようだ。体格が違う……?、ではBリーグもアメリカのNBA(National Basketball Association)と比べるのか? と言いたくなる。日本のフットボールのプロ化は、そういう話だはないのではないか。何か、論点のずれがあるような気がする。

 1985年に日本社会人フットボール協会が出来ている。次のステップへ進むためのアクションだと思った。外れてはいないはずだ。
 日本社会人リーグⅠ部=7チーム、Ⅱ部=9チーム、関東社会人リーグ=6チーム、関西社会人リーグ=11チーム。
 サッカーもバスケットも、体育協会と一線を引く形で統括組織を立ち上げ、次のステップへ進む準備を行ったのである。だから、フットボールも……。
 日本社会人フットボールは、日本の一流企業が顔を揃えていた。
 アサヒビールに、アパレルのレナウン、オンワード、そしてゼネコン、銀行、証券会社、商社、IT産業などなど……。
 この頃、プロ化へ熱い思いを抱いていた一人が、日本大学フェニックスの鬼監督・篠竹幹夫さんだった。社会人チームに一流企業が揃っているということは、学生の卒業時に"夢"が多いということである。持ち前の行動力で、チームを持つ企業の経営者に呼びかけ、オーナー会なるものを立ち上げようとしていた。
 リーダー格はアサヒビールの(故)樋口廣太郎さんだった。
「会社の宣伝を背負って、選手はプレーに専念しても良いのでは。環境も大事です。うちは山梨の上野原に格好の土地を持っています。ちょっとしたテーマパークのようにすれが、おしゃれな大人の遊び場にもなりそうです」
 樋口さんは時間を作っては仲間と話を詰めていった。一社5億円くらいのファンド金を出し合って……と結構具体的な話になっていた。
 かくいう私は、フットボールの月刊誌の編集にも関わっていたので、紙面で煽った。
 樋口さんと個人的な付き合いのあった、徳間書店の(故)徳間康快社長も応援団で登場した。走り出したケーブル・テレビのコンテンツの一つとして、社会人フットボールを扱おうと提案した。防具を付けてぶつかり合う姿は画面映えするし、ヘルメットを取った素顔もなかなかイケメン揃いで、映像向きだった。
 徳間さんの実働部隊のN.S.さんはアタッシュケースに千万単位の現金を詰めて、社会人フットボールの"放映権"!の仮契約を直談判に行ったが、ノラリクラリだったという。実は社会人組織の理事につながりのある代理店の存在があったり、関西の協会には大阪D社の人間も関係していた。結構複雑な背景があった。見えない壁? 小さな利権争い? だったような……。
 見えない壁は、フットボール界の内部からも現れたのだ。
「オーナーさんたちが、気合を入れてくれるのはありがたいが、あまり力を持たれてしまうと、我々の居場所がなくなってしまう」
 社会人チームの現場責任者はその企業で禄を食んでいる。オーナーはその上司……何かあれば、協会もろとも抑え込まれてしまう、そんな事を恐れたようだった。次のステージが頭になかったはずはなかったろうが……。
 
Do your best
and
It must be first class
 ベストを尽くせ
  やるなら一流を目指せ‼


"父"ポール・ラッシュの言葉は、どこに生きているのだろうか?
 プロ化への波は次第に凪いでしまった。
 この時、壁になった人たちがポール・ラッシュのホーム、清里の清泉寮裏庭の旧ポール・ラッシュ邸に作られた、日本のフットボールの殿堂に名を連ねていた。
 実は『1934――』の増補版の話が起こった時、私は、殿堂名簿を巻末に挟んで、その家族をも巻き込もうと考えた。念のため、顔ぶれをチェックしてみると、えッ!? なんでこの人が、というケースが結構あった。殿堂というのは、その業界を広くアッピールしたり、何かの良い改革に貢献した人が、後世まで語り継がれるためのものであるはずだ。
 それが、長く業界にいた、という理由しか見当たらない人も少なくなかった。逆に長年関東の学生フットボールに貢献したはずなのにどうして? というケースも。また、フットボールの魅力をマスコミに広報した筆頭格の人もいないのはなぜ?……これは増補版には少々無理がありそうだ、と思ったのだ、聞けば、推薦による互選というシステムだった。仲良しグループなら、何とかなるって話なのか。ポール・ラッシュが聞いたら、怒るに違いない。

【二つの祖国】

 改めて、日本のフットボールの起こりの背景を見てみよう。
 記念すべき第一試合は1934年と書いた。"父"ポール・ラッシュが日本にやってきたのは、1925年(大正14年)5月。23年(大正12年)9月1日の関東大震災で壊れたYMCA再建のため、米国YMCAからの派遣だった。それから、築地の聖路加病院のトイスラー博士と交流が出来たことから、立教大学で教育にも関わるようになる。
 この頃の六大学には、共通の問題があった。それはアメリカからの留学生である。留学生と言っても、中身は日本人の血が100%流れていた。この学生たちは日本人移民の二世であった。明治の時代から、ハワイを口切に出稼ぎ移民が始まった。農家の次男、三男らが、[職&食]を求めて、ハワイ、ロサンゼルス、南米に渡った。その二世たちが年頃になった時、日本の対中国政策の問題で、アメリカと日本に摩擦が起き始めた。
 日系一世たちは、円に対して高いドル……日本で大学教育を選択させた方が経済的にメリットがあるし、子どもたちに故郷での生活を体験させたい、と考えた。さらには、万が一、日米が戦うことにでもなったら、徴兵される危険も避けられる。そこで、続々と故郷へ、留学生として送り返した。そして立教、早稲田、明治、法政、慶応……六大学の私学に籍を置いたのである。
 留学生たちは100%日本人の血が流れていたが、生活、趣味はアメリカナイズされていた。日本人学生たちの中にすんなり溶け込めずにいた。さらに日米の外交関係が微妙な時、日本の官憲が目を光らせてもいた。姿、形は日本人だが、いざとなったら、アメリカへ加担する行動に出るかもしれない。スパイ活動の恐れはないのか……。
 留学生たちは何となく浮いてしまった格好だった。ストレスがたまる。もやもやした空気は傍目にも明らかだった。
「何とならないか、何とかしなくては」
 ポール・ラッシュは熟考の末、
「学生たちにフットボールをやらせよう。日本人の学生も巻き込んで、壁をなくそう」と。
 これが1934年に初の公式戦を行うことになった、原点である。

【戦後の再出発】

「日本が再び、世界の仲間入りするためには、すべての学校にスポーツを復活させることから始めなければならない。そして、米国人を理解するには、アメリカン・フットボールと向き合うことがベストではないか」
 GHQ(General Head Quarters=連合軍最高司令官総司令部)将校として再び日本の土を踏んだポール・ラッシュは、こう声明を出した。
 すでに文部省は軍事教練を撤廃して、GHQの指導に沿って、民主的スポーツの復活を奨励していた。
 大手を振って、フットボールに取り組む環境が出来たのであった。

 戦後、フットボール復活の牽引役となったのは、ポール・ラッシュの一の教え子の(故)服部慎吾さん。1947年から、6年間、日本協会の理事長を務め、日本のフットボールをファースト・クラスにすべく、奔走している。
 1994年春、私は『1934――』制作の取材のため、川崎の自宅で病床の服部さんに会った。内蔵の疾患で大手術の後、リハビリ中と聞いたが、ベッドからやっと半身を起こしたような状態だった。私の取材申し込みに、本人がどうしても語っておきたい、ということで取材は実現したものだった。
 2時間ほどのインタビューで、内容は多岐に渡ったものだったが、ここでは日本のフットボールを一流に押し上げるための舞台造りについて述べることにとどめたい。

日比谷の帝国ホテル。
この隣に日本のマジソン・スクエア―・ガーデンを造る構想があった。

【夢の専用競技場】

 日本のフットボールの復活にアメリカは非常に協力的であった。面白い話を最初に紹介しておく。ポール・ラッシュの直系の立教大学の練習に、巣鴨プリズン(現サンシャインビル)の中庭を使ったこともあったという。岸信介、正力松太郎(いずれも故)ら戦犯とされた人たちが整備した天然芝のグラウンドを使ったというのだから、何か皮肉な話ではある。
 服部さんらの牽引によって、観客席の付いた専用競技場の建設要望がポール・ラッシュを通じて、GHQから日本へ伝えられた。まずは芝公園にあったナイター設備のある、陸上競技場ベースのグラウンドの改修であった。
 申し入れから一ヵ月半後、服部さんはGHQ軍政長官から呼び出された。設計図が4枚あり、「どれが良いか」と感想を聞かれたという。設計図はどれも陸上のトラックが外され、天然芝、ナイター設備、ロッカールーム、4千人収容のスタジアムが描かれていた。
 これができれば、ファースト・クラスに近づける。おそらく、プロ化も早かったはずである。
 その二ヵ月半後、服部さんは再び、軍政長官から、呼ぼ出された。幹部ともども、わくわくしながら出かけた。しかし――
「申し訳ないが、ドッジの金融引き締め政策のお陰で、計画は実行できなくなった。東京都が予算が組めないと泣きついてきた。済まんが、もう少し時期を見てくれ」
 悪名高き? 経済学者のドッジ。ここにも顔を出して、夢を幻にしてしまった。
 夢はもう一つ、実現に向けて進行していた。1946年12月、ポール・ラッシュは、戦前からの友人と立教の教え子たちを集めて、セント・ポール・クラブなるものを発足させた。日本人と連合国の相互理解を深める"交流の場"である。
 本部を毎日新聞社のパレスサイド・ビル8Fに借りた。GHQの入る第一生命ビルはお隣である。
・会長=松崎半三郎(立教大学理事、森永製菓社長)
・名誉会長=高松宮、三笠宮、竹田宮、東久邇宮
・理事=原為雄総務局長、神田五雄編集局長(毎日新聞社)
 ファースト・クラスの陣容である。ここで立教大学、聖路加国際病院の復興資金集めが行われた。資金集めに"宝くじ"の販売も行われた、という。
 そして、このクラブから『日比谷シビックセンター構想』なるものが生まれた。ポール・ラッシュの日本の居場所である、日本聖公会の大聖堂を日比谷に建設。その周囲にコンベンション・ホール、フットボールを始めとする各種スポーツ、イベントが開催できるスタジアムを建設するというものだった。いわゆる米国ニューヨークのマンハッタンにあるマジソン・スクエア―・ガーデン。これを東京のど真ん中に造ろうというのであった。
 1947年5月、松崎会長が動いて、大和生命保険の足立壮社長から、千代田区内幸町一丁目一番地の所有地、六千百十二坪(約二万平方メートル)の賃貸契約の内諾を得た。
 大聖堂と同胞会本部には、日産コンツェルン総師・鮎川義介(故)がグループ内の内外ビルを百万円で譲渡し、そこへ建てられることになった。シビック・センターは鹿鳴館の跡地、帝国ホテルのお隣だった。
 この構想の実現をスピードアップさせるべく、新会社が設立された。甲州財閥の(故)田辺宗英後楽園スタジアム社長が、5百万円を出資して、社長に内定した。一大構想は実現に向けて動き出した。
 しかし、当時の日本は急速な復興状態にあり、建設費が日々高騰して募金が追い付かず、資金の目途が立たなくなって、計画は挫折してしまった。
 こちらも完成していれば、立派にプロの舞台になったはずである。
 
 そして、1985年頃にプロ化への舞台造りは、再び浮上する。アサヒ・ビールの樋口社長をリーダーにした"オーナー会"によって、山梨県上野原にフットボール・タウン構想が描かれようとした。これは、日本のフットボール界内部に現れた"壁"によって、その先に進むことはなかった。なんという展開なのだろうか?

 日本のフットボールの競技人口は、高校生=4千人、大学生=1万人、社会人=5千人、となっているそうだ。世界ランクとなると、アメリカ、カナダの次いで3位だそうだ。
 本場アメリカの競技人口は9百万人。頂点にプロのNFLがある。
 アメリカではまずはフットボール、そしてバスケットボール、野球……いろいろやってダメならゴルフなんて話も聞く。
 さて、日本のフットボールはどこへ進もうとしているのだろうか?

【ポール・ラッシュの実像は?】

 ポール・ラッシュが"日本のフットボールの父"であるのは間違いない。1925年に、関東大震災で崩壊したYMCAを再建するために、YMCAから派遣されて来日。聖路加国際病院の再建にも関わるようになり、立教大学で教育の場にも活動の場が広がる。それが縁で、日系二世の留学生に手を差し伸べることに。日米が戦争に突入して帰国。日本通であることから、情報戦のための米国陸軍の日本語学校の校長に。終戦と同時にGHQ将校として再来日する。ポジションはCIS(Civil Intelligence Section=民間諜報局)である。
 CISは戦争の様々な場面で仕事をした人たちの、犯罪性を分析する部署である。天皇家を始めとする宮家もここで分析され、マッカーサーに報告されて、検討が行われたたという。そして東京裁判にかけられることはなかった。噂によれば731部隊の生き残りもCISの範疇だったという。その"知識"をCIAに橋渡ししたとの話もある。いざ、どこかで戦いが起これば、必要となる知識だというのだ。一説によると、大手印刷会社の技術者も、戦時中は敵国の偽札造りに従事し、戦後、アメリカに渡ったとも。偽札は敵国の経済を攪乱させるものである。
 毎年8月になろうとすると、戦争秘話物がテレビに登場する。しかし、ポール・ラッシュの名前が表に出ることはない。ずっと不思議に思っていた。戦後に関わった仕事が、かなり微妙なニュアンスを持ったものだったのだろうか?
 ポール・ラッシュは晩年、
「私はフリー・メイソンの会員になった。パスポートもある」と語っていたそうだ。不思議な人だ。

 さてこの先、日本のフットボールのプロ化はあるのだろうか? ファースト・クラスに入ることができるのだろうか? 過去、良い機会に不運に遭遇したりもあったが、そうでないケースもあった。"父”は今の日本のフットボール界の状況をどう見ているのだろうか? どんな言葉が返ってくるのだろうか? 会えるものなら、直接聞いてみたくなった。

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※『緊急検証』として、"日本ではなぜフットボールが誕生しないのか?"を書いた。
『清里の父 ポール・ラッシュ伝』(山梨日日新聞社編=取材執筆・井尻俊之)
『1934フットボール元年』(初版・ベースボール・マガジン社=執筆・井尻俊之/白石孝次)
上記を参考文献としたことを、お断りしておく。





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