最近の記事
- 固定された記事
アルゼンチンが1位、日本は15位。24年のFIFAランキングだ。今や、日本のサッカーはアジアの強豪。選手は世界の強豪チームで何人も活躍している。しかし、1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得してから、1996年のアトランタ五輪まで、五輪は予選敗退を続けていた。W杯に至っては1998年フランス大会まで"無縁"だった。アジアの壁——予選では韓国、北朝鮮、中国、オーストラリアなどに苦杯をなめ続けた。まさに夜明け前。それが……世界の15位まで上昇した。何があったのか? ㊙取材メモを紐解く。
——by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports Pressに約20年在籍した。入社二年目で整理部記者から運動部記者に。取材のテスト飛行が実業団サッカーリーグ戦。なんて退屈なんだ、と思った。上司のデスクも「そうだろう」と言った。何とか、会社を、読者を驚かせるネタはないか? サッカーを枕にどうしたら面白いストーリーが書けるのか? 日々もがいた時期があった。 ☆サッカーじゃ新聞は売れない【ベッケンバウワーをキャッチせよ‼】 "皇帝”ベッケンバ
事件は埼玉県戸田市の葬祭場で起こった。お骨の拾い上げ場面。「あんたにはやらん‼」男性の怒声。「小さいので良いんです‼」女性の悲鳴混じりの声。主人公は門脇恒さんという、異色のゴルフ評論家。私のゴルフの師匠でもあった。旅立ち直後の"お骨争奪戦"――さぁ、ありえない話の全貌を振り返ってみよう。
――by Drifter(Koji Shiraishi)Tokyo Sports Press に約20年在籍した。米国PGA、LPGAのメンバー記者としても活動した。ゴルフブームでは、紙面の拡充において、ゴルフ評論家で作家の門脇恒氏と交流が深くなり、最後の場面にも立ち会うことになった。 ☆変人の中の変人【物を言う・物を書く評論家】 ゴルフ評論家・門脇恒さん。おそらく、変人のジャンルに入れても良いと思う。そもそもはTokyo Sports野球部のデスク、猪狩普さんとのゴル
- 固定された記事
二日酔いで休んでたら、仕事にならない。体調がどうであろうと、まずはニュースを書く。それが流儀だ。酒が残った身体でも、うなりながら書く。そして飲む。酔う。再び書く。一歩外へ出れば、グルメの街、築地は有り難い場所だった。食べたい物が、すぐそこにあった。当時はグルメなんて意識したことはなかった。さてさて、何を食べ、何を飲んで、物を書いてきたのか? 独断と偏見で、食のワンダーランドへのご案内ーー
――by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports Pressに約20年在籍した。K談社などから、原稿を頼まれて書いた。原稿料をもらっては飲んだ。プロレス界のレジェンド記者、大先輩の門馬忠雄さんは、「家一軒は飲んだ」と豪語していたが、こちらも似たようなものだったかもしれない。 ☆酒と酒と酒の日々【お相撲さんが逃げた】 Tokyo Sportsの編集局は、築地の日刊印刷ビルの2階にあった。新大橋通りを築地3丁目の信号を聖路加病院に向かってす
日本のアメリカン・フットボールは未だアマチュア。なぜか? サッカーがJリーグを誕生させ、五輪、W杯がかなり身近なものに。バスケットボールもBリーグの誕生で、結構な人気スポーツに昇格。世界で戦える可能性を見せ始めた。頂点のプロ化で、底辺が広がって、選手層が厚くなり、異才を持つ選手が出て来たからである。では日本のフットボールは? 見せる、魅せるスポーツとしては群を抜いている。1934年に始まって、ほぼ一世紀が経過しようとしているのだが?
――by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports Pressに約20年在籍した。新聞社のキャリアの後半で、日本のアメリカン・フットボール界のレジェンド、日本大学フェニックスの鬼監督、篠竹幹夫さんと知り合ったことから、社会人フットボールと関りが出来、「これはプロ化するべきだ」と思った。それは歴史と競技の特異性を見れば歴然なのだ。 ☆Do your best and It must be first class‼
大学時代、朝日新聞社でアルバイトしたのをきっかけに、マスコミは面白そうだ、と誤解? 次は産経新聞社に飛び込み、そして、当時はカストリ紙とも酷評されたTokyo Sports Pressに流れ着いた。しかし、これが我が人生の伴走車となってくれたのである。まずは感謝をして、紙面からはみ出した話を振り返ってみよう。
――by Drifter (Koji Shiraishi) Tokyo Sports Pressに約20年在籍した。スタートは整理部記者。グーテンベルグの世界を経験して、取材に移った。一般社会では出会わないような怪物、怪人との出会いが、記者生活の大きな支えであったような気がする。さてさて――。 ☆えッ!? グーテンベルグの世界【Tokyo Sportsで整理部記者募集】 1970年だったか、私は産経新聞の通信部で嘱託みたいな身分で、夜勤をしていた。産経は大手町だから、練
スポーツ記者ほど素敵な商売はない。なんてイメージを持つ人が多いかもしれない。外れてはいないが、危険を感じたことは何回あったことか。それもこれも、無事終われば酒とともに……。忘れないうちに、ここだけの話を始めよう。
――by Drifter (Koji Shiraishi) Tokyo Sports News paperに約20年在籍した。対象案件に深く入らなければ、面白いストーリーは得られない。一つ間違えば……を何度も経験した。 ☆麻薬大国コロンビア【無酸素ゴルフ】 「どうだ、ロサンゼルスでインタビューをやって、南米のゴルフで速報ってのは?」 Sデスクの甲高い声が、近くで響いた。おッ!? 来たかッ!? と思った。Sデスクの問いかけは、ほとんど決定事項のようだった。こちらも、あちこ
更なる上を求めて、少年は再び闘いを始める。’24全国少年少女レスリング大会。46キロ級、完勝でV2を達成した唯翔少年。1984年ロサンゼルス五輪フリー57キロ級で王座に着いた富山英明氏(現・日本レスリング協会会長)から、王者への心構えを探る。
――by Drifter(koji Shiraishi) Tokyo Sports Press News Paperに約20年在籍した。谷津嘉章さんが日本大学三年時、アントニオ・猪木と対戦する、"柔道王"ウイリエム・ルスカのスパーリング・パートナーを務めたのがきっかけでアマチュア・レスリングの取材を始める。その時に大学一年生の富山英明氏とも知り合い、公私ともの付き合いが続いている。 【夢を喰らう――PART Ⅱ】 2024年の7月上旬、新宿東口のK'sシネマへ行った。こ
日本のアメリカン・フットボールの代名詞と言えば、篠竹幹夫である。日本大学フェニックスを率いて、伝説を作り上げた男だ。2006年7月10日、糖尿病を患った末に他界された。享年73歳。個人的にはプロ化へのキーマン的存在だと思っていたので、残念の思いは未だに消えない。
――by Drifter(Koji Shiraishi)Tokyo Sports Press News Paperに約20年在籍した。アメリカン・フットボールはNFL、カレッジの来日時に取材したくらいだったが、篠竹幹夫との出会いで、日本のフットボールに注目するようになった。 【監督が呼んでます】 1987年(昭和62年)晩秋、11月中旬、デスクの電話が鳴った。不惑間近、野良犬のように外を這い回ってネタを集めることも、あまり歓迎されない状況になっていた。もやもやが続いてい
1970年代から、ゴルフ界もバブルに包まれていた。その裏側で様々な人種が蠢いていた。経済人、反社、マスコミ、政治家……㊙取材メモを紐解いてみよう。
――by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports NewsPaperに約20年在籍した。日本のゴルフ界はもちろん、米国PGA、LPGAの会員記者としても活動した。 【病院を取られた?】 「うちのメンバーさんがやられたらしいんですよ。賭けゴルフでね」 1980年前半、埼玉県でも評判の良い、I.C.C.の支配人が語り出した。このゴルフ場はフロントの女性が、一度来場した人の名前を憶えていて、二度目には「○○さん、お早うございます」と。これも評
プロレス、サッカー、アジア大会……お隣の韓国へは何度も取材に行った。"独裁大統領"の戒厳令下では、危険を感じたことも何度かあった。今やアジアの観光スポットの一つである韓国の知られざる一面である。
――by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports Press NewsPaperに約20年在籍した。海外取材としては、韓国が一番多かった。今、取材メモをめくってみることにしよう。 【戒厳令下のプロレス】 「お客さん、これ八百長です‼ 大熊が約束を破った‼ セメント‼ セメント‼」 1965年(昭和40年)11月28日、蚕室(チャムシル)体育館。満員の会場に、"異声"が響き渡った。お客さんの表情に「?」が浮かんだ。 韓国ヘビー級王者の
1978年秋、呪われる前の”鉄の爪"を訪ねた。ダラスのオフィス。「ちょっと来てくれ」「Yes sir‼」ブルーザー・ブロディは直立不動で、ボスの前に立った。
――by Drifter(Koji Shiraishi)。Tokyo Sports Press NewsPaperに約20年在籍した。1978年9月15日。ニューオーリンズでモハメド・アリの三度目の世界王座復帰を見た。そしてアメリカン・プロレスを探る旅に出た。 【大先輩からの電話】 2024年4月中旬、車を走らせていると、携帯電話が鳴った。発信元は大先輩、プロレス界のレジェンド的存在、T.Mさんだった。 「あのさぁ、5月の上旬に、藤波辰巳とトークショーやることなったんだ