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PGAツアー天国と地獄

【テキサスでの出来事】

☆大会中の悲報☆今年のチャールズ・シュワブ・チャレンジは、デイビス・ライリーの優勝で幕を閉じた。この大会はそもそもコロニアル・インビテーショナルの名称で、ベン・ホーガンを称えたようなトーナメントである。会場のコロニアルCCは距離が長く、ハードな設定で知られていた。しかし、今年の大会前のテレビ放送だったか、「コロニアルは距離が短いですが……」と。道具の発達で、そんな事になったのか、と思った。
 コロニアルCC。ベン・ホーガンのいるプロ・ショップがあった。店内をうろつきながら、粘っていれば、インタビューができるか……取材をした頃の風景を思い浮かべていると、次のニュースに驚かされることになった。グレイソン・マレーが30歳で命を絶った。この大会に出場して途中棄権だった。
 マレーはアルコール依存、うつ病とも戦い、今年のソニー・オープンで復活優勝を遂げていたのに。確か、TV放送でその話を聞いていたはずだった。全米を転戦するPGAツアーは過酷だ。個人競技。中堅以下は様々な業務を自らこなさなければならない。痛みを分かち合えるようなキャディと巡り合うのも運が物を言う。アルコールに逃げたくなる時だってあるはずだ、もっとも、マレーの悲報の因がその再発にあったという材料は持ち合わせていない。

☆ベン・ホーガン☆現代ゴルフの神様。前述したが、コロニアルCCのプロ・ショップで仕事していることが多かった。ゴルフ記者時代、何度かインタビューを試みたが、叶わなかった。
 1982年のメンフィス・クラシックがカメラマンも同行して、現地から生の写真を本社に電送した記念すべき第一試合である。この年は"プレイ・ボーイ"レイモンド・フロイドが優勝した。
 この一年後くらいにPGAツアー会員記者となった。協会とも多少の顔もできたので、この筋を頼って、ベン・ホーガンへのつなぎを探したが、ダメだった。選手筋からは公開されていなかった話を聞いた。ベン・ホーガンの父は37歳で自殺している。それも仕事から帰って、家族団らんの居間で、拳銃を口に入れて……だったそうだ。この衝撃を目の当たりに見せられたホーガンは、以後寡黙な人間になった、と付き合いのできた何人かのPGA選手は口を揃えた。そのホーガン自身、その父の64回目の誕生日に、生死を彷徨う交通事故を起こしている。何かの因縁なのだろうか?
 マレーの悲報とは関係ないのだが、コロニアルの風景を思い出しているうちに、次々と思い浮かんできた。

☆心中未遂?☆ Tokyo Sports News Paperは夕刊紙であった。西海岸をのぞき、PGAツアーのタイム・スケジュールは夕刊紙の締め切りに適合していた。青木、中島、倉本、メジャーとなると尾崎も、女子は岡本などが米国挑戦を始め出した頃だった。ダンロップ、ブリヂストン、ミズノなどウエア、用具を開発して、選手と契約しているメーカーは、本場アメリカでの動向が売り上げを左右するので、ニュースは気になった。一般のゴルフ愛好家ももちろんで、夕刊紙の速報には大きな興味を示した。というわけで我が新聞社はPGAツアーを張り付くようにして、取材した。ゴルフが大きな売り物になったのだ。
 日本選手がいない場合も試合会場にいて、休みではなかった。日本のゴルフ・ファンが「ほ~」と思えるような話題を探して記事を送った。米国選手との付き合いも増えた。試合後の夕食を共にしたり、移動経費を減らすためにレンタカーに同乗させたり、なんて日常的な事になった。
 予選で落ちる選手もいる。一般的なトーナメントで150人程度がエントリーすれば、その半分は予選で落ちる。当然収入ゼロ。こうした選手に声をかけて、次の試合地の近くで、非公式のプロアマ戦を仕切るベテラン・プロがいた。大御所サム・スニードの甥、J.C.スニードがその代表格だった。OKしてお座敷に出て700~800ドルのアルバイト。何とか一週間の経費が捻出できた。
 中堅以下の選手は満足にスポンサーがついているわけではない。経費稼ぎは必死だ。中には年間契約で経費を確保している選手も何人かいた。例えば年間5万ドルをスポンサー筋に保証してもらう。選手は賞金を稼ぎ、5万ドル以上になったら、元本を引いて浮いた部分を折半という仕組みだった。賞金10万ドルを稼がば、元本を引いて浮いた5万ドルを2.5万ドルづつ、である。
 優勝、ベスト5、ベスト10が身近でなければ、生活はカツカツ。アルバイトは欠かせないということになる。
 常に上位を賑わす一握りのビッグ・ネームたちはには、"特別待遇"があった。いわゆる<アゴアシ>である。
 アルバイトに行く選手は帯同の奥さんとは別行動にならざるを得ない。こちらは頼まれて奥さんたちを連れて次の試合地へ移動したことも何度か。飛行場のカウンターでは、受付でニヤニヤされたりした。最寄りの飛行場から、こちらのレンタカーに乗せて予約した宿舎(ほとんどはモーテル)へ連れて行った。
 この中の一組の夫婦との話である。Aプロとしておく。年間経費保証組で、未勝利だっが、パワーと技術を兼ね備えた選手だった。パーシモンの時代、右でも左でも280ヤードくらいのドライバーショットを打てた。左でも、と書いたが、右打ち用のドライバーでヘッドをくるりとひっくり返して。練習ラウンドを共にしたセベ・バレステロスが目をむいていた。
 しかし、女神はなかなか微笑まなかった。それまでの人生、どこを切り取ってもどんよりとしていたものだった。
 あるテキサスの試合。奥さんも来ていた。初日はまずまず。中位より少し上。二日目は大きなミスをしなければ、久々の予選通過。17番まで2ストロークの余裕を残していた。18番は池越えのパー5。Aプロの飛距離なら、抑え気味に3オンで楽々パー。「OK」と思った。奥さんとも目を合わせて、お互いにちょっと安心。しかし、不運は待ち構えていた。Aプロはいけると判断したのだろう。アイアンで池越えの230ヤードを選択した。ボールは高く舞い上がってグリーンへ向かった。弾道からいって2オンする、と思った次の瞬間、グリーンを捉えるべく落下してきたボールは、グリーンに張り出した小さい木の枝に当たって、グリーン手前の池に落ちた。2打の余裕を吐き出し、1打足りずに予選落ちとなってしまった。
 本社に試合結果などを送って、クラブハウスへ戻ってみると、その前庭で奥さんともども、しゃがみこんでいた。
「残念だったが、次に行くしかないね。後でご飯を食べて、気分転換しませんか?」と声をかけた。
 奥さんは泣いていたようだった。目が合うと小走りに来て、こちらの胸に顔をうずめた。そして、
「予選落ちは残念です。しかし、油断したのか、キャディーバッグに入れてあった500ドルをキャディーに持ち逃げされたんですよ。なんてこと……」
 Aプロはこちらを見て、苦笑するしかないようだった。
「ともかく部屋に帰って、落ち着いたら連絡ください。待ってます」
 二人はようやく宿舎に戻って行った。こちらもプレスルームに戻って荷物を片付けて同じ宿舎に戻った。シャワーを浴びて連絡を待った。しかし、あれから2時間近く経とうとしていたが、部屋の電話は鳴らなかった。
 午後8時が近づいて来た。少し心配になった。こうした時、どうしたら良いのか、答えが見つからなかったが、電話を入れてみることにした。話中のようだった。少し待って、かけ直した。話中のままだった。
 少し、嫌な予感がよぎったので、直接部屋へ行った。ドアは少し開いていて、すすり泣きが漏れていた。
 困った。しかし、捨て置くわけにもいかないので、ドアを静かに開けて、いつもの感じで、「よッ‼ ご飯は?」と。
 Aプロは受話器を左耳に押し付けるようにして、ベッドに腰かけ、電話の向こうに何か説明しているようだった。奥さんは少し距離を取ったところでうつむいていた。
「ご飯食べた?」と声をかけると、近づいてきて、小さく首を横に振った。
「お腹も空かないし」。その目は赤かった。
「もう8時だし、何か食べないとだめだ。一緒に行きましょう」
 Aプロは年間契約のスポンサーに事情を説明して、"緊急融資"を頼み込んでいたそうだ。
 沈み込んだ二人を、半ば強引に連れ出し、車に乗せて近くのレストランに行った。BGM、他人の会話を聞き、食べ物を口にした二人は徐々に生気を取り戻したようだった。顔にも赤みが差してきていた。
「助かりました。来ていただいて。あのまま二人だったら……悪い事ばっかり重なって」
 奥さんははにかむように言った。やっぱり。部屋を訪ねて正解だったようだ。
 もう大丈夫か……ちょっと安心して杯を重ねた。この夜は酒気帯び運転。事故がなくて良かった。失礼。
 当時は記事にはしにくい内容であった。今になって振り返ると、自分の人生の中では大きいニュース・ストーリーの一つだったと思う。

――by Drifter(Koji Shiraishi)
Tokyo Sports Newspaperに約20年在籍。PGA、LPGAツアー記者。カメラマンを帯同して、写真電送も併せたニュース速報の道を開いた。



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