猪熊さん、改めて感謝いたします‼
令和六年秋、ユーチューブ上に、猪熊さんの番組に出会った。それは戦後の日本柔道を支えた功労者の人生の最終章を見届けた人の証言であった。何年か振りで、この話に遭遇した。私は何度か、猪熊さんの話を聞いて記事を書いたことがあった。日本柔道界のスーパースター、山下泰裕さんの結婚式の時、(故)松前重義東海大学総長の祝儀メッセージを仕立てたこともあった。ここで改めて、猪熊さんとのやり取りを振り返ってみよう。
――by Drifter(Koji Shiraishi)Tokyo Sports press に約20年在籍した。幻のモスクワ五輪のこともあって、柔道の取材にも力を入れていた。最初は先輩の紹介で、猪熊さんと東海建設の専務室で顔を合わせたことから。
☆えッ!? 猪熊さんが亡くなった!?
【自刃したって? なんで!?】
2001年の10月か11月頃だったか、江古田の馴染みの割烹で飲んでいた時、知り合いの体育協会関係者がポツリと言った。
「知ってますか? 最近、あの猪熊さんが亡くなったそうなんですよ」
「えッ!? なんでまた!?」
「それがね、日本刀で自刃だっていうんですよ」
「えッ!? なんでまた!?」
思わず、同じフレーズで訊き返してしまった。
話によれば、2001年9月28日、東海建設社長室において、アマチュア・レスリング関係者を含めて5~6人が見守る中、秘書の井上 斌さんの付き添いで自刃された、と。猪熊さんは三島由紀夫さん、その活動部隊の縦の会に心酔していたところがあったそうで、バブルが弾けて社長を務める東海建設が巨額の赤字を背負ったことに対する責任、尊敬する松前重義東海大総長に対する責任……などを果たすため、その道を選んだ、とのことだった。
その後、井上さんが上梓された『勝負あり 猪熊 功 の光と陰』(河出書房新社)によれば、決行の二週間前から予行演習を行ったこと、「※円谷だって
できたんだ」というコメントを知った。心酔する三島由紀夫さんのように、潔くだったのだろうか。
※円谷幸吉 1964年の東京オリンピックのマラソンで銅メダル。当然次のメキシコも期待されたが、その年の1月初頭、「幸吉はもう走れません」の言葉を残して剃刀で自刃した。同じ体育学校の、レスリング、グレコローマン52kg、ミュンヘンで銀の平山紘一郎さんは後に、「それは大変だったけど、翌日はその部屋で麻雀やってました。まだ血が散ってましたけどね。自衛隊ですよ」との後日談も。ちょっと脱線した。
【真実は闇の中へ】
もう一つ、別の動機を上げた人もいた。
「猪熊さんは松前さんを国際柔道連盟の会長に据えるべく、選挙活動に走り回っていました。選挙となるとアフリカの票がポイントになる。そこで、アフリカに影響力があるソ連の人脈に協力を求めた。猪熊さんが日本を出る時はトランクにキャッシュを詰めていたそうです」
だとすれば、金の流れはいずれ、何かがあった時は明るみに出ないとは限らない。今となっては確証はない。
☆日本の柔道を守りたいんだ
【パーマーの暴走を止めろ‼】
1977年の春先だったか、猪熊さんから私の先輩に連絡が入った。
「お~、猪熊さんが話があるから誰か寄越してくれないかって言ってるんだ」
ということで、若手の私にお鉢が回って来た。少し緊張気味に、新宿の東口駅前にあった、東海建設に行った。猪熊さんは専務室で待っていた。
挨拶を交わすと、猪熊さんはすぐ切り出した。
「今、国際柔連の会長はパーマーなんですが、やることなすこと、柔道を発信してきた日本の精神とかなりずれているんですよ。有料の昇段試験にしてもお金の流れが不透明……次の選挙で何としても、指導者の座を日本に戻さないと。そういう記事を書いてもらいたいんですよ」
柔道は1964年の東京オリンピックから正式種目となった。国際柔道連盟は1951年に立ち上がり、52年、講道館の(故嘉納履正氏が会長の座に着いた。多分に東京五輪に当たって、世界の柔道界が本家に筋を通した、と判断して良さそうだ。東京五輪の翌年の選挙で、イギリスのチャールズ・パーマーが会長の座に着いて、何となく本家日本が外れた格好になってしまった。
猪熊さんは66年に警視庁から東海建設に移った。これは当時の松前重義総長をイズムに傾倒したこともあったはずである。69年、東海大学柔道部の監督に、"寝技の鬼"佐藤宣践さんを迎え、チームは一気に強くなった。そして"怪物"山下泰裕をスカウトした。
猪熊さんは自身も東海大学の教授になったが、一方で、松前さんの国際柔連会長選挙への足固めに力を入れていた。
【日本柔道が真っ二つ】
猪熊さんの努力も実って79年、松前重義さんは国際柔道連盟会長の座に着いた。しかし、83年に始まった正力杯柔道大会の運営を巡って、全日本学生柔道連盟と講道館の嘉納行光館長が"黒幕"とされる全日本柔道連盟の間に亀裂が生まれ、その後、裁判に発展することになってしまう。
出口の見えない感じの裁判が続く中の86年初頭、84年のロサンゼルス・オリンピックで負傷を越えて念願の金メダルを獲得した山下の結婚が発表された。式は5月5日、媒酌人は東海大総長の松前重義氏。会場は赤坂プリンス・ホテルだった。
この頃、私の立場はどうやら、数少ない反体制派に見られていたようで、"戦いの場"を与えられることが少なくなっていた。しかし、時々ニュースを書かなければ社内に示しが付かない。
ツーカーではない上司から、ボールは投げられてくる。
「何か、どっきりするようなネタは無いかね? 山下の結婚は決まっているんだけど、関連でできる物はないかな?」
4月に入って、他紙は山下のハッピーでラブラブな話題をちらちら載せだした。ここはTousupo流をぶちかまさないと、立場がなくなりそうだ。
私は一つの作戦を考えた。それは全日本学生柔道連盟と全日本柔道連盟の裁判騒動を絡める手はないだろうか? と。裁判は何度も傍聴していたので、頭にこびり付いていたこともあった。山下という存在はそんな争いをはるかに超越するものなのである。争いが長引いて、巻き込むことがあってはならないはずだ。ここは一つ、猪熊さんに会ってみるべきではないか?
私は早速、猪熊さんに連絡を入れた。猪熊さんは虎ノ門の東海大会館の理事室にいた。
「山下さんの結婚式に合わせて、企画を作りたいのでご協力願えませんか?」
「怖いねぇ、私に何をさせようと言うんでしょうか?」
「できれば、松前総長から山下への祝いのメッセージを出していただけると、有難いですね」
「内容は? おめでとう……だけで良いんですか?」
「総長のメッセージとしては、これを機に、山下のめでたき日を機に、柔道界の争いをやめようじゃないか……と発進していただきたいと思うんですよ」
「なんだって!? 君、裁判中なんだぜ‼ 勝手にやめましょうなんて、言えるわけ無いよ‼」
「そこですよ、山下の結婚式の良き日に、取材を受けてつい口が滑った、って言い訳もありですよ。Tokyo Sportsにうまく乗せられたっていう、言い訳でも……しかし、日本の柔道がいつまでも二つに分かれて争っているのも自然じゃないですよね。これも、和解へのきっかけになるかもしれませんよ」
「君、そうかもしれんが、親父(松前氏)の立場もあるからね」
「聞くだけ、聞いてもらえませんか?」
「そうは言ってもねぇ、親父は忙しいんだよ」
「だめでしょうか?」
「残念だけどな」
私は、これはダメかなと思って、非礼を詫びて、部屋を出た。
同行のカメラマンは、「企画は大胆過ぎるよ。無理でしょ。相手は超大物だし」と、あっという間に引き揚げてしまった。軽く見られちゃったか……
しょうがない、とつぶやきながら、虎ノ門の地下鉄駅へ向かった。一応、公衆電話から編集部に連絡を入れた。すると、
「猪熊さんが会館へ戻ってくれと言ってきた。カメラマンも。カメラはこちらから手配する」と興奮気味のメッセージが飛んできた。
私は慌てて、会館の理事室へ戻った。猪熊さんは少し顔を紅潮させていた。
「まったく、困った人だな、お宅は。総長がオーケーだと言ってるんだよ」
「じゃあ、お話を直接うかがえるんですね? 写真も撮りたいので、どちらへ伺えばよろしいですか?」
「隣にいるんですよ。話を聞いていたようです」
「とにかく、傷つかないように、失礼のないように頼みますよ」
猪熊さんの後について、隣室に入った。白髪の紳士がソファに座っていた。松前総長だった。
「やぁ、話は聞きました。お手柔らかに頼みますよ」
交渉は成立した。原稿の中身は猪熊さんと話し合っていたので、松前総長とのインタビュー写真を撮って、取材は終了した。
帰社して、内容を伝えると、編集部の何人かは少しは驚いたようだったが、さほどでもなかった。現場で苦労をしないで、位だけ手にした編集者の典型……仕方ない。
国際柔道連盟会長、東海大学総長が緊急提言‼
日本柔道は争いをやめて、一つになろう‼
山下泰裕の結婚を祝して‼
こんな見出しで原稿となった。山下の結婚式の5月5日発行予定で、5月に入った時点で、ほぼ完成していた。
ほっとして、この頃追っている仕事も他になかったので、夕方になると飲みに行った。5日の新聞が出るまでは、他社の仲間とは飲めなかった。酔ってほのめかしたら、かぎつけられてしまうのだ。
編集部から、捜索の電話が入った。
「猪熊さんが話したがってる。連絡してくれ」
ちょっと嫌な予感がしたが、店の電話を借りて折り返した。
猪熊さんはややとんがった感じで、話し出した。
「あのさぁ、いろいろ考えたり、知り合いに相談したりしたんだけど、この前の企画、ちょっと考えてみてくれませんか」
「掲載はまずい ってことですか? 日本の柔道界のためにも、誰かが言わなきゃいけないと思うんですけど」
「確かにそうなんですけど、裁判の当事者でもあるんでねぇ。こちらから和解提案と取られると……」
「山下の結婚であるし、腹くくってくださいよ」
「じゃ、万が一の場合は、あんたにうまくやられたってことにしますよ」
翌日もこんなやり取りがあり、ようやく猪熊さんは腹をくくった。
5月5日、山下泰裕の結婚式。披露宴あたりで都内のどこかで出たTokyo Sportsをどこかの新聞社の関係者が手に入れて、松前総長の緊急提案を知る事となった。これはいくつかの新聞の編集部から、結婚式に出席している担当記者に伝えられた。
「うちは結婚おめでとう以外に何か出せるのか?」
「どういうことですか?」
「Tokyo Sportsに松前総長の緊急提案なんてのが出てるぞ‼ どうなっているんだ!?」
私はそれを伝え聞いて、役割を果たした思いで、ほっとした。他の記事も含めて、他社を出し抜いたのであるが、編集局の空気は昔と違うものだった。
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