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スポーツ記者ほど素敵な商売はない。なんてイメージを持つ人が多いかもしれない。外れてはいないが、危険を感じたことは何回あったことか。それもこれも、無事終われば酒とともに……。忘れないうちに、ここだけの話を始めよう。


――by Drifter (Koji Shiraishi) Tokyo Sports News paperに約20年在籍した。対象案件に深く入らなければ、面白いストーリーは得られない。一つ間違えば……を何度も経験した。

☆麻薬大国コロンビア

【無酸素ゴルフ】

「どうだ、ロサンゼルスでインタビューをやって、南米のゴルフで速報ってのは?」
 Sデスクの甲高い声が、近くで響いた。おッ!? 来たかッ!? と思った。Sデスクの問いかけは、ほとんど決定事項のようだった。こちらも、あちこち経験して、"地力"を付けたいところであった。渡りに船――。

 1980年秋、私はまずはロサンゼルスへ飛び、リトル・トウキョウで金物屋を本業にしていたボクシング・プロデューサーのノリ・タカタニ氏に会って、ボクシング関係の情報を仕入れた。ちょうど日本からフライ級で世界へ出ようとしていた、T.もいて好都合だった。そしてガーデナーにいたジョージ・ドモン氏にも会って、格闘技、プロレス関係の情報を提供してもらった。
 
 二日後、リトル・トウキョウで、インスタントの日本食を買い込んで、コロンビアのボコダへ出発した。「日本選手に差し入れしてあげなさいよ」とのタカタニ氏のアドバイスもあった。

 メキシコ・シティでワンストップ。アルゼンチン航空でボコダへ。乗り継ぎを含めて、11時間くらいかかった。着陸の雰囲気も変だった。1万メートルくらいを巡行していて、海抜2600メートルへ降りる。通常は海からとかの進入で海抜0……エンジンの音の変化がいつもと違う感じだった。
 機は無事にボコダのエメラルド国際空港に降りた。
 この頃のコロンビアは、あの悪名を世界に轟かせていた、メデジン・カルテルのパブロ・エスコバルに乗っ取られていた。金と外人傭兵によって、国が仕切られていた、と言っていいかもしれない。かなり危ない国。私は知らなかったが、我が社のベテラン記者は誰もこの取材企画に乗らなかったらしく、こちらにお鉢が回ってきた、ようだった。――P.エスコバルは1993年12月2日、故郷のメデジンで特殊部隊と銃撃戦の末、死去した。

"さぁ、いっちょう、やってやろうか"……長旅の疲れもそれほどなく、コロンビア通貨のペソを仕入れて、ターミナルビル前のタクシーを探した。いや、あっという間に拉致されるように、一台の客となった。
"ワールド・カップの取材なんだ。会場のゴルフ場知ってますか?"
「シー、セニョール‼」
 タクシーはどんどん、彼方に見える高層ビル群へ向けて走っている。
「ワールド・カップ・ゴルフだよ」
「シー、セニョール‼」
 運転手の背中に、少し不安が見えたような気がした。道路脇に停めて振り向いたので、もう一度言った。
「ワールド・カップ・ゴルフの会場へ行きたいんだ」
 運転手は首を傾げた。
"まずい、英語はほとんど通じていない"。私は"ワールド・カップ・ゴルフ"を連呼しながら、運転手にも降りてもらって、ゴルフのシャドウ・スイングをやらかした。
「ああ、ゴルフ!?」
 そんな感じだった。最初から、言っているんだけど。そして会場名、"El rincon"を務めてスペイン語らしくして、言った。
「シー、セニョール‼」
 運転手は"分かったぞ~"という感じで、車を走らせた。本当に分かっているのだろうか? 何だか、息も切れるような感覚があった。運転手とのハード・コミュニケーションでエネルギーを使って、海抜をすっかり忘れていた。
 タクシーは、あるゴルフ場らしきところの通用門に停まった。
"おお、ゴルフ場じゃないか。やっと着いたか"
 運転手とともに、ゲートの受付に行って、"Tokyo Sports Press”と告げた。受付の男はノートを広げて登録らしきものを探していたようだったが、さほど時間を置かずに、「No セニョール」と。
"そんなはずは……東京から申請してありますよ"
「Que es eso?」
 ゲートの男は両手を広げて、肩をすくめた。どうやら"what?"のようだった。英語は少しだけ通じたらしい。そこで、ワールド・カップ・ゴルフと会場のEl Rinconを繰り返し、告げた。ゲートの男はようやく納得がいったようで、安堵の表情を見せた。タクシーの運転手に人差し指を顔の前で横に振りながら、早口でまくしたていた、
「シー、セニョール‼」
 運転手はようやく、この東洋人がどこへ行きたいのかを理解したようだった。
 車は30分ほど走って、やっとワールド・カップ・ゴルフの会場のEl Rinconに着いた。エルドラド国際空港を出てから2時間が経とうとしていた。

 Club El Rincon はロバート・トレント・ジョーンズによって設計され、1958年に開場していた。ボコダ郊外、山岳ではないが、少々アップダウンのある地形の中に造られていた。"帝王"J.ニクラウスが事前に訪れて、コースをチェックして、
「やっぱり、ボールが飛ぶ。5番アイアンで200ヤードは軽いね」
 こんな感想が世界を駆け巡った。当時はドライバーはパーシモンヘッドにスティ―ルシャフト。ボールも糸巻きで、ニクラウス・クラスで280ヤードくらい。だから、5番アイアンで200ヤード越えは「えッ!?」となったのである。
 しかし、ちょっと動くと息苦しい。海抜2600メートルは伊達ではなかった。会場のプレス・ルームで仕事机を確保して、この日は終了。英語が通じなかったのは、危なかった。何とかなったので、まずはOK。
 二日目。現地火曜日で練習ラウンドデー。コースへ行くと、日本代表コンビがクラブハウス前にいた。年長のH.Y. そして九州の何とかと言われた、N.S. もう一人、応援団らしき女性が談笑していたようだった。
「えッ!? 日本から来たの? えッ!? Tokyo Sports? ここまで来ちゃったの?」
 年長のYプロは、いつもの軽いタッチで、笑っていた。
"このゴルフ場はどうですか? 日本代表として……"
「そうだなぁ。ゴルフ場はうまく造られているんじゃないの。緑だしさぁ。えッ!? ボールが飛ぶから、面白いかって? いつもより飛んだら、計算が大変なんだよ。あんた、ゴルフ分かるの?」
 Y.プロはまくしたてて、笑った。

 二人とも、日本を代表するトッププロであるが、国を代表して凌ぎを削る戦になったかというと、残念ながら、そうでもなかった。当時のプロ・トーナメントは大会の主催者とテレビ局がタッグを組んで? 視聴率につながりそうなビッグ・ネームには縛りを掛けていた。マスターズ、全米オープン、全米プロ、全英オープンなどのメジャーに関しては別格として、その他の国際大会には、"国内ゴルフ大会の視聴率に貢献するよう"プレッシャーをかけていた。だから、ワールド・カップもメジャーの雰囲気はあるのだが、実際はそうではなかった。二人とも、その縛りの外にあったわけだ。これで、日の丸を背負えというのも、ちょっとねぇ。
 しかし、ひょっとして勝てば、また大変現場となるのである。スタート前の練習から、張り付いて取材した。

 ラウンドのフォローは斜面を歩くことが多く、通常でも疲れやすいが、海抜2600メートルでは、速足で10メートル歩くと息が切れる感じだった。こりゃ大変だ。日本の二人と対戦相手の二人のスコアをメモしなければならなかった。ベストボール、フォアサムの繰り返し。記録が大変。時々、「お~、今どうなってる?」とY.プロの声が飛んでくる。しんどいぞ。
 初日は何とか終わって、日本は5位くらいにつけていたか……しかし、日本チームのコミュニケーションはあまり良いとは言えなかった。ラウンド後、食事などを共にして、反省会を行うという雰囲気でもなかった。
 ともかく、現地に来たのだから、取材するしかない……気持ちがちょっと重くなった。

【無酸素ギャンブル】

 三日目、ハーハー言いながら、日本チームをフォローしていると、背後から、「お疲れ様」の日本語を聞いた。おッ!? と振り返ると、長身の日本人の若者がコースサイドにいた。
"日本の方ですね? こちらにお住まいなので?"
「実は、あまり書かれると困るんですが、日本の商社で、こちらに駐在しているのです」
 どこか遊び人風で、ちょっと好感が持てたので色々と話すことになった。仕事も手伝ってもらった。日本の一流商社の駐在員だった。K.さんとしておこう。
 気が合ったのだから、仕事後は食事をして、酒も飲んだ。これで随分とボコダの状況を知る事ができた。
「せっかくですから、良い所へ案内しますよ」
 K.さんに案内されて、夜のボコダへ繰り出した。動作は務めてゆっくりと。行先は非公認のバクチ場だった。
「もめ事はダメですよ。何があってもゆったり行きましょう。酒も食べ物もフリーです」
 市内である。ちょっとしたナイトクラブのような所だった。ゲートにはポリス然としたガードマン。腰に大きいのを下げている。現職警官のアルバイトか? 闇のパワー全開。建物の入り口にはいかつい、脇を膨らませた男がいた。用心棒だろう。
 案内されて建物に入り、階段を下りていくと、紫煙が漂い、男のだみ声、女の嬌声が聞こえてきた。同時にルーレットの台、ポーカー、ブリッジのテーブルが目に飛び込んできた。バクチ場である。非公認の。メデジン・カルテルの支配下の”場所”に違いない。
「ルールを守って下さいね」
 商社駐在員のK.さんは言った。もちろんである。
「ブラックジャックが易しいから、まずは」
 K.さんの後について、テーブルの空き席を探した。
「カードの配り順で最初と最後の人の動きがおかくない所」
 K.さんは小声で言った。
 我々は一つのテーブルに座って、ブラックジャックを始めた。私はトランプの賭け事は、オイチョカブだけだったので、初の領域。ただ酒を飲みながら、K.さんのアドバイスも聞きながら、少額だが、勝ち続けた。
 ビギナーズ・ルック。一時間ほどで5万円くらい勝った。ボコダじゃ、ちょっとした小遣いだ。
「いったん引きましょうか」
 K.さんの一言で、チップを置いて席を立った。ディ―ラーは「もうやらないのか?」といった表情を見せた。

「もう少し面白い所へ案内しましょう」
 K.さんと共にタクシーに乗って、移動した。15分程度でクラブ風の一軒家に着いた。表の雰囲気は同じようだったが、建物の入り口には女性が立っていた。怪しげなウインクに迎えられて、中へ入った。
 ボックス席に座ると、両サイドに女性がやって来た。
「えッ? ハポネス? 飲み物は?」
 色々と詮索されて酒を飲んだ。
「気にいったら、個別の話し合いありだとか言ってますよ」
 K.さんはちょっと笑いながら言った。
 確かにラテン系にスペイン系の血が混ざったような、彫りの深い、やや褐色の肌を持つ女性たち。英語はあまり通じなかったが、マイナー基調の軽快なリズムが響いて、「踊らない?」と言われたら、断れる人はいないだろう。とかなんとか、思いつつ、小さなスペースに誘われて、ジルバ、サンバ系のステップを踏んだ。
「lindo‼ bonito‼」
 黄色い声が飛んだ。"おッ‼ まだまだ捨てたもんじゃないぜ"と思ったとたん、目の前が白くなった。そう、海抜2600mで飲んで、踊って……酸欠となった。個別のお話し合いに移るどころではない。ボックスシートに戻って、水を飲んで安静状態。呼吸が落ち着いたところで、「帰りましょうか」となった。帰り際、周囲を見渡すと、鍵のかかる談話室がいくつかあって、すべて使用中であった。なるほど……。
 昼間の本業もトラブル続きだった。この頃、ボコダは午後3~4時に、日常的な停電があった。ちょうど試合が終わって、原稿制作、送りの時間であった。アメリカからのプレスは、ワープロとパソコンを組み合わせたような、卓上電子タイプライターと格闘していた。そこへ停電、「Oh no‼ F××○‼」悲鳴、怒号が飛んだ。当時は自動保存の機能などない。こちらも、電話が使えず、ひたすら待機しかなかった。
「ろうそくありますよ」
 ボランティア・スタッフの若い女性が走り回っていたが、「あのさぁ、ろうそくでどうやって、原稿を送れるんだ」

 試合は個人戦がスコットランドのサンディ・ライル、国別団体戦はカナダのダン・オールドマン、ジム・ネルフォード組が優勝した。日本勢は特筆すべき成績ではなかった。試合後、Y.プロから「一回くらい食事をしよう」と誘われた。
 ホテルのレストランでワインとステーキをご馳走になった。
「一週間ありがとう。期待に応えられなくて悪かったね。しかし、息苦しかったね」
 Y.プロは空いた時間に宝石を物色して買い込んでいたという。
「ルビーが有名だっていうんでさ。日本で倍くらいになるらしい」
 しっかり元を取っていたようだった。

 こちらは一日だけオフができたので、街を探索した。空気が澄んでいて、きれいな街だった。しかし、相変わらず10メートルほど歩くと、息が切れそうで立ち止まった。必ず、セールスマンが近づいて来た。ポケットから包みを出して見せた。
 宝石、金、銀、そして葉っぱ……危ないので断り続けた。セールスマンの中には制服のポリスもいた。買ったらどうなるのか? セーフの場合、罠の場合もあると聞いた。後者の場合は日本の土が踏めなくなるかもしれない。
危ねぇ、危ねぇ……。

☆韓国へなりすまし入国

【合法?or違法?】

 1970年代半ば、細かい時期は4月の下旬だったろうか。T.デスクが寄って来て、「ちょっと打ち合わせしよう」と。
「五月の連休の予定はどうなっている?」
「サッカーの試合とか、見ておこうか、と思ってます」
「実は韓国へ行ってもらえないか、という話なんだ」
「えッ!? だって、○○プロの韓国遠征は、デスクの範疇だったのでは?」
「そうなんだ、もうチケットもブッキングされてしまったのだが、急に国内のテレビ放送の解説が入ってしまって……」
「こちらはOKです。ブッキングされたチケットの名義変更すれば良いんですね?」
「何とかなるなら、頼みたいんだ」
 早速、ほとんどの取材関係のチケット手配を頼んでいる、A山大学の元応援団長、T.ツーリストのN.さんに連絡でして、状況を伝えた。この人は曲がった事は嫌いだが、時々、"奥の手”を貸してくれた。すると――。
「ガチガチのツアーチケット、名義変更は無理ですね。といって、今から改めてチケットを取るのも、時期的に不可能ですね」
「となると、今あるツアーチケットを何とか生かす方法があれば、ですね」
「そうです。旅行の専門家としては、おまり公にするようなものではありませんが……」
 N.さんの"奥の手"はこうだった。
 私はデスクのT.さんのパスポートとツアーチケットのバウチャーを持って羽田へ行く。そこでツアー・コンテンダーに手渡す。コンテンダーはツアー全体のチェックインを代行する。私はそれを受け取って、今度は自分のパスポートで税関を通る。出国して飛行機に乗って韓国へ。韓国税関でも自分のパスポートで入国。当たり前である。
「くれぐれも出し間違い無しでお願いします」
 N.さんはちょっと笑いながら、言っていた。間違ったら、笑い事では済まされない。北と微妙な緊張状態ある韓国。どこかでバレれば、必ず拘束されたはずである。さらに、飛行機は事故がゼロという乗り物ではない。万が一の場合、搭乗名簿の人物は健在で、乗っていなかったというミステリーが生まれるに違いない。

 ともかく、"奥の手"で無事に入国して取材活動に入った。ソウルから原稿を送って紙面を飾った。しかし、である。"奥の手"を使って入国し、観光ビザで取材活動をして、東京では"ソウル発=○○特派員"の活字が紙面を踊っている。
 ある意味、自ら身の危険を呼び寄せているよなものではないか。気のせいか、盗聴、尾行の気配をやたらと感じた滞在だった。預かったパスポートも万が一、落としたり、盗まれたりしたら……南山(KCIA本部)で絞り上げられるかもしれない。こちらにも神経を使った。
 ソウルからの帰国時も、往きと同じ方法で。羽田に着いて税関を出てフリー。レストランに飛び込んで、ビールをあおった。実に美味かった。他人のパスポートを使って海外へ行ったのは、これが最初で最後だった。当たり前だな……。

☆やくざの戦争も売り物だ

【Y.I.抗争速報】

 1984年8月5日、鉄壁の規律を誇っていたはずの、神戸Y組が、三代目の死去に伴った、跡目争いから、内部分裂。反体制派はI会を旗揚げした。
 Tokyo Sportsがどう関係したかとというと、実に巧妙なものだった。一日100万部と言われた"紙の爆弾"も、時代の流れもあって、少しずつ下降線を辿っていた。ここで、やり手のS.デスクが捨て身の戦法で打って出た。本人はそんなに必死風ではなく、楽しそうに”戦争"を始めた。
 S.デスクは右筋にも、多彩な人脈を持っていた。多分、政治の裏側を嗅ぎ回るトップ屋の筋ではないかと思った。トップ屋も微妙な立場にいる人も多い。あちら側にいたが、今はペンを武器に生業を立てている人もいるわけだ。
 S.デスクはこうした筋から、抗争の現場に近い組の関係者で口の堅い人を紹介してもらい、毎朝、生の情報を電話で受け取っていた。それを、"Y.I.戦争速報"と派手な活字をTokyo Sportsの一面に踊らせたのである。どこの組がバズーカ砲を仕入れた、手榴弾を、カラシニコフのオートマチックを……凄い紙面だった。映画じゃない。昼間はテレビのワイドショーが中継するなども後追いのような形で報じた。怖い物見たさ、を狙ったものだった。
 新聞も売れた。しかし、新聞を作っている方は真剣そのもの。名前を間違ったり、組の組織を勘違いしたり、は危険な未来が予測できた。S.デスクは常にY.組、I.会の組織図を確認しながら、制作にあたった。名前、肩書……絶対に間違ってはいけないのである。
 しかし、新聞の速報だから、たまに間違いも出る。すぐ抗議の電話が入る。現場の人たちも新聞の発売と同時に買い込んでいたらしい。そこには最前線の人たちも知らない情報が載っていたのだ。

 Y.組とI.会の抗争は、84年8月5日に表面化して、89年3月30日mに幕を閉じた。この間、I.会の死者19人、負傷49人。Y.組は死者10人、負傷17人と。警察官、一般市民の負傷は4人を数えた。

 Tokyo Sportsのビルの前には、時々、一目で素人でなさそうな服装の人たちがウロウロしていることも何回かあった。
 新聞を売るための命がけのミッションであった。ここまでやるのか。私はS.デスクのプロ魂を改めて見直した。
 しかし本人はどこ吹く風。速報展開中もいつものように飲み歩いていた。数年前、80歳で他界された。Tokyo Sports=S.デスクと言って良い存在だった。

☆記者を痛めつけろ‼

【レイスを挑発して失神】

 まずは笑える話からいってみよう。197年代半ば、全日本プロレスの巡業に付いて、北海道へ行った。外人の目玉はNWA王者のハリー・レイス。練習を見て、試合を見て原稿を送る毎日。伊達紋別の試合後だったか、食堂へ行くとレイスがいた。
「少し飲みますか? スコッチ?」
「へぇ~、いいね」
 私は手持ちのダルマを部屋から持って来て、食堂の奥へ。カーテンで仕切って、一般客から見えないようになっていた。ホテルの外は何もなかった。雑談をしながら、ダルマをチビチビやっているうちに、エンジンがかかって、私はレイスに絡みだしたようだった。
「NWA王者って、どのくらい強いんですかねぇ?」
「大したことないかもよ」
「じゃ、ちょっとテストさせてください」
「やめといた方がいいよ」
「いやいや、そう言わずに」 
 私が立ち上がったら、レイスも立った。
 そこで、真ん前に立つと、
「じゃ、いきますよ‼」
 私はレイスの腹に必殺の右ストレート。
「うッ!?」
 うなったのは私で、こぶしがレイスの腹に当たろうとした瞬間、上から、フロントヘッドロックに決められた。もがいているうちに"別世界"へ。気が付いたのは翌朝、自分のベッドの上。頭がずきずきしていた。聞けば、レイスに担がれて運ばれたそうだ。試合前に顔を合わせると、
「ご馳走さん、楽しかったよ」とレイスはウインクした。

【まず記者をやれ‼】

 流血レスラーの代表格は、アブドーラ・ザ・ブッチャーだろう。ファイトが佳境に入ると、奇声を発しながら、リング内外を血だらけになって暴れ回った。
 私は来日時にインタビューをしたり、巡業のバス旅で一緒したりで、ちょっとだけ親しくなった。こうなると危ないことが増えてくる。
 例えば、ちょっと小ぎれいなスーツなどを着て取材に行く。ブッチャーと顔を合わせる。ブッチャーは早速、
「おッ、おめかしして、今夜は良い事があるのかな?」と探りを入れてくる。
「たまたま、スーツを着ているだけ。何もないよ。何なら、食事に行きますか?」
 要注意である。当時はプロレス会場には原稿を送るための臨時電話を引いていた。もう昭和を描くテレビドラマでしかお目にかかれない、黒いやつである。試合の進行を見ながら、東京本社のデスクに連絡したり、原稿を送ったりしたのだ。取材スペースは大体リングアナウンサーの近くに設置された。ここへ血だらけのブッチャーがなだれ込んでくるのである。
 こちらも、来ることはある程度予測があるので、試合展開を見ながら電話を持って避難した。
 その日は特に新しいスーツを着ていたので、逃げ道を想定して試合を見ていた。
「来る‼」と思ったので、行動を起こした。しかし、背中に壁を感じて動きを封じられてしまった。振り向くと乱闘で追われた日本選手が、私の退路を塞いだ格好だった。
「あッ!? えッ!?」と思った瞬間、血だらけのブッチャーが体当たりしてきた。電話を持ったまま吹っ飛んでしまった。幸い、どこもけがはなかったようだったが、新しいスーツは血にまみれてしまった。やられた。試合後、控室に行くと、ブッチャーがにやにやしていた。
「おッ、悪かったね。いたのが分からなかったよ」
 そうかい、そうかい。プロレスの取材は着ていく物にご用心。
 黒い呪術師、流血大王の形容詞の付いたブッチャー。日常的に流血していると、血が薄くなって抵抗力が落ちる。オフでアメリカに戻った時、血液の入れ替えをやっていた、という話を聞いたことがある。プロ中のプロであった。
 2019年2月19日、日本で引退セレモニーを行った。

【記者の前歯が飛んだ‼】

 Tokyo Sports第二運動部。後輩の記者にA.S.がいた。学習院大からの入社。お坊ちゃまで使えるのか、との声があったが、どうして、プロレスの世界へうまく溶け込んでいった。心配ご無用だった。
 ある時、ストロング・スタイルで急速に人気を集め出した、A.M.のニュースを書いた。”A.M.、婚約か‼"――特ダネである。しかし、書かれた本人は怒っていた。後輩のS.記者を後楽園ホールの控室で、問い詰めた。
「誰の許可で書いたんだ!?」
 脅しに近い。M.はテンションを上げているうちに自制不能となったか、右の平手でS.記者の頬を打った。パシーン‼ S.記者はぶっ飛んだ。同時に刺し歯にしていた前歯も飛んでしまった。時を置かずに謝罪が入って、治療費も申し出たので、事件にはならなかった。もめれば、立派な傷害事件であった。危ねぇなぁ。

【Tokyo Sportsは取材拒否だ‼」

 まず、Tokyo Sportsとプロレス業界の関係を説明する。プロレスの興行には、売り興行、手打ち興行の二つの形がある。"売り"は一試合でいくら? でその土地の主催者に買ってもらう。"手打ち"は自主興行である。地方都市の場合、"売り"にした方がリスクが少ない。買う方は、Tokyo Sportsに掲載された情報を以て、セールスを行い、集客を行う。よって、この紙面情報は魅力的で、派手であってほしいのである。
1980年代の前半、日本のプロレスは、全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスの、三団体時代であった。Tokyo Sportsはその団体の企画に応じて、スペースを割いていた。その興行にあったようにページを割いていくわけにもいかない。主催者の意に反して、ということもある。
 某年・某団体の大きめのシリーズの九州巡業。地元の興行会社が、九電までの3試合をセットで買っていた。博多の九電体育館、九州スポーツセンターは一つの山場になる。その手前の2~3試合は盛り上げを行う。
 私はその盛り上げ試合からフォローに入った。観客の集まりはもう一つだった。結構、外人の顔ぶれも良いのに、どうしたんだろう、と感じていた。
 九電の二つ前の試合。会場で原稿を送って、引き揚げようとしていたら、興行会社の若手スタッフが近づいて来て、言った。
「あのさぁ、みんな怒ってんだよ。あんたんとこがしっかり書いてくれないから、客の入りが良くないって。最後はどうなるか。分かんねぇぞ」
「それはペーペーのこっちに言われてもねぇ。会社には言っておくよ」
 そして一つの山場になっている九電体育館。私とS.カメラマンは、メインイベントの勝者プレゼンターの編集局長を待った。早めに到着。前夜にいきさつを報告していたので、表情が少し硬かった。
「じゃあ、引き揚げようか?」
 Tokyo Sportsの社主は知る人ぞ知る右派なので、こじれれば、大変なことになる。とりあえずは穏便に……。
 我々は何事も無かったかのように、関係者入り口から、入館しようとした。すると――。
「取材拒否だって言ってだろう‼ お~‼ あんたらに迷惑をこうむっているんだぜ‼」
 興行会社のトップが、押し出して来た。一般社会では聞かない"物言い"であった。
 S.カメラマンが黙っていられなくなって、前に出て興行会社のトップと相対した。
「○○さん、知らない仲じゃないんだから、ここは一つ、お願いしますよ」
 S.カメラマンは務めて柔らかく言ったが、相手の怒りはさほど鎮まらなかった。
 どうしたものか? プロレス団体のトップが駆けつけて来て、控室で密談になった。20分ほどして、トラブルは沈静化した。おそらく、プロレス団体の方から詫びと何かの提案があったようだった。中身は分からない。
 プロレスは華やかなスポーツ・エンタテイメントであるが、チケットを一枚売ってナンボの地道なビジネスである事を、再認識させられた一日であった。

【取材者も血ダルマに】

 1980年の前半に事件は起こった。流血王A.B.とザ。S.の遺恨試合。後楽園ホール。荒れてリングのの内外が血まみれになることは目に見えていた。
 この試合は決まった時から、不穏な情報が流れていた。
 それは、マスコミの誰かも血まみれになって、臨場感アップの材料にする、というものだった。そして、密かにこの候補者を予想する者がいた。ほんの2~3人。
「テレビのK.がやばいらしい」
 その理由が……やっぱり金銭がらみ、なのだと。K.氏は仕事上、選手と食事をしたり、飲みに行ったり……は当然だったが、その都度、払いをかわしているのだという。食事や飲み会が終わるころ、「じゃ、ゴッツアンです」と。これには日本人選手、外人の常連から反感を買っていたという。
 試合が始まると、すぐさま乱戦に突入した。案の定、両者流血となってリング外もめちゃくちゃにした。K.氏はマイクを握って二人の流血戦を実況していた。すると、ザ・S.は顔をゆがめながら、K.氏のネクタイをつかんで観客席を引きずり回した。A.B.もその後を追って、覆いかぶさった。嫌な予感がした。なんとK.氏の額もざっくり割れて、血が流れていた。混乱の中でザ・S.にやられたらしい。
 ゴングが打ち鳴らされて、大流血のK.氏は日本人の若手によって、控室に運ばれた。額の血は止まらない。プロレス団体のトップもやって来て、傷を見た。
「動脈まで切れてるぞ。救急車を呼べ」

 プロレスf団体のトップは翌日、テレビ局を訪れ、詫びを入れ、当事者に見舞金を贈ったという。惨事を記録したテープはお蔵入り。犯罪になることはなかった。
※まだ差し障りが出る可能性があるので、極力、固有名詞を避けた事をお断りしておく。

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