The Brit Pack
#みんなの文藝春秋
#ゲンロンカフェ
#SNS
『掃除婦たちへ:原則、友だちの家では働かないこと。遅かれ早かれ、知りすぎたせいで憎まれる。でなければいろいろ知りすぎて、こっちが向こうを嫌になる。
/掃除婦のための手引き書
(A Manual for Cleaning Woman)
ルシア・ベルリン』
『花時間』と出会う。
27才の時、日本橋ー横浜のクタクタに疲れた帰り道で
その頃、住んでいた駅チカの高架下に小さな本屋があって、その路地を通り抜けようと思った時、目がとまった。
店先にならべられた雑誌のひとつに。
表紙があざやかなピンクのバラ。
日本の花ではないことがなぜかわかる。
おなじバラの写真でもカメラマンが日本人でも、そのバラは海外の花だと直感で感じた。
私には趣味も特技もなかった。
スポーツはまずわたしの人生にない。
なんでオリンピックや駅伝がそんなにおもしろいのか今でも全然わからない。
なぜに失語症?
履歴書に書く趣味の欄はいつもテキトーで
「映画観賞」なんて、趣味と言えるほど観てはいなかったのに。だから趣味なんてなくて自分の言葉や考えに自信が持てなかった。
言いたいことを言語化できない苦しみというか、あれはいま思うとよくわからない。
それは日常の単なるワンシーンのひとつなのに衝撃だった!
駅は今では改装されてキレイだけど当時は古くて横浜線が通り過ぎる音が高架下に大きく響く中で、雑誌を素早く立ち読みした。
ページの内容は「英国の花特集」
今でもそうだけど、パラパラめくったページに惹かれたら買ってしまうので内容は関係ない。
その雑誌1冊でその日からわたしに趣味ができた。これから趣味は「フラワーアレンジメント」と書くことにしよう!
その1冊の中にたくさんの出会いがあった。
まず英国の有名な薔薇のガーデナーとフラワーアーティスト、そして日本のフラワーアーティスト2人の記事だった。
英国のフラワーアーティストは日本人にはない色彩感覚の独特なパターンが当時からフローリストの憧れだった。まるで油絵のタッチでその花のそれぞれの配置が緻密に計算されていて次々に開花する花の色まで計算されている。なによりそのテクニックと感覚に魅了される。
もうひとりは日本で活躍しているやはり色彩感覚がずば抜けていてそれは水彩画のようなタッチでもとは写真家だというそのアーティストのページだけが誌面で特別だった。
表紙のあざやかなピンクの薔薇はデヴィッドオースティンの薔薇だとはじめて知る。
カゴにアレンジされた牧歌的なイメージは英国風でも仏風でも後にわたしの求める憧れの作風になった。
まるで野原でかごに花摘みをしたように、
「さぁ摘んできたわ、」そんなゆるいムードの作風をいつもめざすようになった。
NEW Flower Artist
花屋の店先にならぶようなブーケやアレンジメントではなく。売り物にはしたくないような高貴なムード、「ノーヴルな花たち」。
そこに商業的(純粋なもうけ)意識がないかというと、それはウソになる。そこからはじまってさらに探求は
「作家(アーティスト)になりたいのか?
商業デザイナーになりたいのか?」
がテーマになった。
作家(アーティスト)には創作をして
「これはわたしが作りました。今日からわたしはアーティストです」と名乗ってもいい。
だけど商業デザイナーはかけたコストと売れなければどんなに素晴らしい作品でもそれは失敗だという考えが常にあるからだった。
SFのブリットパック
SNSがわたしの世界を大きく躍進させたのは事実で20年ぐらい前はホンキでその英国のアーティストと縁のある日本人の先生の下についていつか、英国にくっついていくことぐらいしか考えられなかった。ものすごく気の長い話になる。
だけど当時はみんなそうで
Instagramやtwitterの出現は、まるでドラえもんの
「どこでもドアー」のような存在。
スマートフォンの出現だけでも20年ぐらい前からするとまるでSFの世界なのに
わたしたちは難しいアポイントメントを取る必要がなくなり、そして「無料」であるからこそ相手にしてもらえる。
時々、わたしは彼女たちの目にはどう映っているのかとても疑問に思うけどきっとかなりシャイだと思われているにちがいない。
ソーシャルメディアは特殊な世界観で
感情や思考が画面上で伝わらないかというと、対面であるよりもインパクトがあるように思える。送信する前にもちろん躊躇することはやめることだってできるのだから。
ところでわたしは雑誌とSNSの今後の使い方について、いつもなにを考えているかというと、
んんん、ん、、、それはまたこんどの
The BritPackで。
mayaya/Tuesday