見出し画像

自分を愛する

私は自分を嫌っていた。

幼い頃に大人達から色々教えられ、コンプレックスを持ち、人と比べることを覚え、勝手な判断基準が出来上がり、自分をその基準で推し測り、どんどん自分が劣っているように感じた。

だから私は私が嫌いになった。

こんな私じゃダメ!!と厳しくなり、周りも私に冷たくなっていった。

私は小柄な可愛らしい妖精さんのような女性になりたかった、そうすればみんなから愛され人気者になれる気がした。

実際は身長が思ったよりも伸び、小学校の高学年でクラスの女子では後ろから3番目になるくらい成長した。

私はそれが気に入らない、何で身長が伸びるの?もっと低い方が良かったのに!といつも自分にダメ出ししていた。

高校生の時、私の体型は大柄だと決定されてしまった。

制服の為の採寸で、私は業者の人に驚かれた、女子の平均よりも肩幅が断トツで大きかったらしい。

そんなことをあからさまに言ってくる業者のオジサンが憎かった。

それからと言うもの、数々の大柄だと認識する出来事が起こった。

体育の授業で、クラスの女子で一番大きい手だと教師に感心されたこともトラウマになった。

当時大親友だったMちゃんは、小柄な可愛らしい私の理想の体型をしていた、私は心の中で彼女を羨み妬ましく感じていた、まるで彼女の引き立て役みたいで隣にいると惨めな気分にもなった。

そのエピソードとして、靴屋でMちゃんと一緒に、お揃いのオシャレなサンダルを見ていた、店員のオジサンが来て、Mちゃんの小さい足を褒め、私の足を大きいと貶しながら、こんなサンダルは足の小さい人に似合うと言いやがった。

だから欲しかったピンクのサンダルをMちゃんに譲り、くすんだ冴えない色のサンダルを買った、あの時私は悔しくて、お揃いの色違いのサンダルが買えて喜んでいるMちゃんを、あんたは褒められていい気分だろうよ!と内心憎み嫉妬した。

私の欲しいものを持っているMちゃんが、大好きでその反対に大嫌いでもあった。

そんな歪んだ心が、後にMちゃんとの絶交という結末を迎える要因になったのだろう。

今改めて思うと、Mちゃんと私の娘の体型は似ている。

私の娘も、余り身長は伸びず、私よりも低い、そして全体的に私よりも小さい、それがどうしても羨ましく思ってしまう。

私の母はいつも私に愚痴を言っていた。

自分が大柄なことがとても嫌だったらしい、それに比べて私は細身だった為、母は羨ましく思っていたようだ。

結局、母の身長を抜くことなく、私は159cmで成長が止まった。

母にいつも嫌味を言われた、普通は親の背を抜くものなのに、なんで成長が止まるのか!と。

でも私は満足していた、母よりも少しでも小さい私になれたことが何だか嬉しかった。

今は母の気持ちがよくわかる。

私の娘は私の背を抜くほどの身長にはならなかった、それが何故だか悲しい、そして非常に羨ましい。

私は小さいことに魅力を感じる性質なのだ。

手も足も小さい方が可愛らしいと思う。

あくまでも私の好みで、小柄で色白で儚げな女性にとても憧れてしまう。

私は高校生で自分が大柄でみっともないと思い込み、自信を無くしてしまった。

それを今までずっと引きずってきたように思う。

私が自信を無くす時は、必ず勝手な基準を持ち出し、人と比べて劣っていると感じる時だ。

でもそれは幻だった。

真実は、全てが私の思い込みが映像化した鏡の世界だったのだ。

肉体を持った“個”の私は、これで完全で完璧だ。

比べる必要の無い唯一無二の尊い存在だったのだ。

そう強く確信する度に、私は自分を好きになる。

自分の体型も私にはピッタリで、これが私らしい!と思える。

小柄な可愛らしい女性には憧れるけど、私はこの自分の体型で完璧だと認められるようになった。

全ては私らしさを表現していたのだと思う。

その為には、様々な人と比べて劣等感や優越感を感じることも必要だったのだろう。

今の私は、確かにコンプレックスはあるので悩みは消えていない、それでも本当の私はここにはいない、“個”である私がリアルに存在しているかのように、脳が錯覚させているだけだと知っている。

コンプレックスに苦しんだり、自分の本当の美しさを思い出して自分を好きになったり、そういう感情の変化を楽しみたくて、ここに生かされているのだろう。

全部が私、全部許されている、私はそのままの自分を愛せるようになってきている。


ここまで読んでくださって感謝します。

幸せをありがとうございます✴️









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?