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=終末期にどうありたいか=【積極的な治療をしない・延命しない】ということと【無治療・何もしない】とは違うという話

 福祉の現場にいると、ご病気をお持ちの方がご高齢で(もしくは知的障害や認知の低下が強度で)これ以上の積極的な治療をしない方針、痛みや苦しみを取り除いてくれればそれでいい、ということがよくあります。
 手術や抗がん剤などの積極的な治療をせずに苦痛緩和を目指すことは立派な医療であり、ケアであり、介護です。

 こうおっしゃる方は、決して【無治療】を望まれているのではないはずです。
 【緩和医療】を望まれていることが多いはず。
 【積極的な治療をしない】ということは【無治療】とは違います。

 でも、【積極的な治療をしない】ということを【何もしない方針】【無治療】と言い換えてしまい、たまに本当に何もしない支援者に出会うことがあります。


1.ある男性の終末期

 15年くらい前、肺がん末期の90代の男性にケアマネジャーとしてかかわっていました。
 ご本人もご家族も、無治療→緩和ケアがご希望でした。
 
 肺の腫瘍は徐々に大きくはなっているものの日常生活に影響してくるまでは自宅で妻との生活を楽しんでおられました。
 行きたいところにも行かれていたし、少し介護が必要な妻の支援をされることも彼の生き甲斐でした。

 だんだん呼吸が苦しくなるなどの症状が出てきて、疲れやすくなり、日常の様々なことに支援が必要になってこられたので訪問看護や訪問医療・訪問介護を利用しながら在宅生活を送られていました。

 ある日、急激な呼吸困難が起こり、心臓にも負荷をかけてしまい急変のような形であっという間に旅立たれました。
 がん末期で、ある程度死期が近いことは分かっていたとはいえ、あまりにもあっけなく逝ってしまわれたのでした。
 亡くなる半日前にたまたま撮った肺のレントゲンで、片肺が全く酸素交換できていなかっただろうということがわかりました。


2.訪問看護師が把握していた内容と問題意識

 訪問看護師が毎日のように入っていて呼吸音を聞いていたし、血中酸素濃度も測っていましたので、ここ数日のご様子はどうだったのかとお尋ねしたら、

『左の呼吸音は全く聞こえてなかったよ、血中酸素濃度もここのとこ下がってたし。』

 と、平気な顔でおっしゃるではありませんか。無治療なのだから、知っていたけど、異常を異常と捉えなかったと言うのです。この患者さんは必ずしも急変ではなく、数日かけて悪くなっておられたのだと知りました。

 訪問看護師は、

『わかったからってどうするの?何もしないのに。』

 とも、言われました。

 訪問看護師はその異常を医師にもケアマネにも報告することはありませんでした。
 患者さんは徐々に悪くなった呼吸機能を酸素で補うことも、しんどくて出来なくなった生活動作を福祉用具やヘルパーの支援で更に助けてもらうこともできずに、辛いまま逝かれたのではないかと、今も私の心の中で強い後悔となって引っかかっています。

 もしわかっていたら、ケアマネとして呼吸や生活を楽にするお手伝いくらいはできたんじゃないか、ご家族だってもっとお別れの準備ができたんじゃないか、という強い後悔です。(お年寄りは症状の出方も緩徐であることが多いですから、本当のところは何ができたかわかりませんが・・・)

 当時、年齢的に大先輩であるその看護師に物申すことはできませんでしたが、私は今でもあの判断は違うと思っていて、胸が痛みます。

 積極的な治療をしないからこそ、その細かな症状の変化には細心の注意を払い、起こるかもしれない症状を推測しながら精一杯の観察をし、異常をいち早く察知することで、今後起こるかもしれない苦痛を先取りして和らげて差し上げることができるのではないでしょうか、そのための専門職じゃないでしょうかと、今なら言いたいです。


3.もし、これが娘だったら・・・

 これがもし、娘だったらと思うと胸が締め付けられる思いです。

 娘は重度の知的障害ゆえ、病気の治療を理解して受けることが難しいであろう未来が予想されます。治療に協力的に振る舞えない場合が多いでしょうから、私たちがまだまだ元気なうちに付き添えればいいけれど…と願ってしまいます。

 我々や、彼女のことをよくわかった支援者が付き添えない事態や、治療による治癒の見込みによっては【緩和医療】をお願いしたい、心からそう思います。

 【積極的な治療をしないこと】は【医療の拒否】ではありません。できる限りの安心と苦痛の緩和を与えてやってほしい、母としては心からそう願っています。


4.積極的な治療をしない方への支援で必要なこと

 積極的な治療を選択しないということは、少しずつ状態が悪くなるという危険を常にはらんでいます。

 その際に絶対的に必要になるのはプロの観察力と先回りする能力です。

 むしろ【積極的治療をしない】という選択は【辛いのは嫌です】という方が選ばれていることがほとんどですから、【辛くないように】状況を先回りして気づいていかなくてはなりません。

 【積極的な治療をしない】ということは、決して、看護や福祉のスタッフが楽できることではないのです。
 むしろ細心の注意を払い、アンテナを高くしておかなくてはならず、専門職としての力量を試される状況だということを忘れてはならないはずなのです。

 そしてまた、皆さんが後悔のない選択がお出来になるようにわかりやすくその選択肢をお示しするのも専門職の役割です。
 医師がその説明を行いますが、患者さんの一番近くで関わる看護師などの専門職は、処置や投薬について聞かれたらメリットとデメリットくらいはお話ししつつ、患者さんやご家族がご自身で選択できるよう支援しなければならないと思います。


5.皆様に知っておいていただきたいこと

 ですが、専門職の中にでも【しない】の中身に対する思いのズレが少なからずあります。
 もちろん、専門職は患者さんやご家族の思いに添う努力を怠ってはいけないのですが、単に【何もしなくていいんです】だけでは具体的な中身がわからないことが往々にしてあるのです。

 これを読んでくださっている方の中には医療や福祉関係の方もいらっしゃるでしょうが、多くは専門職ではない一般社会人の方だと思います。

 みなさまにぜひイメージしておいていただきたいことがあります。

 ご自身やご家族の治療や終末期のあり方に対し、積極的治療の是非・延命の希望などいろいろな考え方があるとは思いますが、多くは、大まかに【延命治療はしない】【無治療を望む】【安らかに逝きたい(送りたい)】などと思っておられることと思います。
 ですが、大まかにでは、いざという時なかなか決断できないことが多いのです。

 実際その時になったら多少考えが変わってしまってもいいですから、少なくとも【何もしない】のではなく【何をしてほしい】【どうしてほしい】【どういうのは嫌だ】とイメージしておいてください。
 例えば【苦痛をとるための薬を飲む】とか【点滴はする(しない)】とか、【呼吸が苦しいのは嫌だから酸素は欲しいけど呼吸器は要らない】【誰々にそばにいてほしい】【誰々には伝えないでほしい】などです。

 現場の専門職との思いのズレが、思わぬ後悔を生むことがあるように思います。そんな思いを少しでも減らしたくてこれを書いてみました。


6.私自身の課題

 私自身、これからも、その方らしくその方の人生を全うされ終末期を迎える方々に関わらせていただくことになるでしょうから、常に自分磨きを忘れず、おひとりおひとりのかけがえのない大切な人生に寄り添える柔軟な自分でありたいと思います。

 また、私自身の終末を考えることはもちろんなのですが、娘の終末に当たって、彼女ではない私がどんなふうに考えて書き遺してやっておけばいいのか…今はまだ全く答えの出ない難しい問いと闘っています。

笑顔が増えるための活動をしています。 いただいたサポートは、稀少疾患であるアンジェルマン症候群の啓蒙活動、赤ちゃんから高齢者まで住み慣れた地域で1人でも多くの方が笑顔になるための地域活動の資金として大切に使わせていただきます(^^)