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幾億も連なる、この生命の情熱を思い出せ:岡本かの子について

こんばんは。月に一度の別冊夢想ハウス.にこにこです。
今月は梅雨時にぴったりの美しい作品、岡本かの子「過去世」を読みました。

👆ここで毎月朗読してる📚ぜひ聴きに来てね🍻



人生で初めての蛍見物

みなさん蛍の光を見たことはありますか?私は今年初めて見に行って、幻想的な美しさに胸を打たれました。緑がかった光がちかちか瞬きながら、ゆっくりと動いている…こんな素晴らしい光景をもしも自宅の窓から見ることができたら、蛍の時期はずーっと家にこもって眺めていますね。
今回の舞台はそんな夢のような大豪邸です。いいな~美しいお屋敷~~と思いながら読み進めていくと…いややっぱり私はええわ。身の丈に合った場所にいたいわ…そんな気持ちになるお話。雨音とともにどうぞ。

岡本かの子作品は、過去に「家霊」を読んだことがあるけれど、今作はそれよりも重たい、荘厳な雰囲気の語り口。描写される芸術品やそれに類する衣装やお屋敷の描写も、美しいのだけどそれ以上に恐れ多いというか。
博物館のアンバーな光の中の展示品をひとりっきりで眺めているような、現世と隔絶されたような気持ちになる。

池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青蘆の洲とは、両脇から錆び込む腐蝕のやうに黝ずんで来た。

岡本かの子「過去世」

これがこの作品の最初の段落なんやけど、美しすぎてなんかもう笑ってしまう。凄い文章だな。
ある人間が過去に見た、一番感じ入った景色をその時の感情込みで流し込まれたような気分になる。

また、同じお屋敷の描写でも現在の食事会は暗く沈んだ夜であり、思い出の中の、兄弟が生きていた頃の描写は明るい昼間の出来事で、その映像的な対比も美しい。

あらすじ

語り手(岡本かの子自身と思われる)が女学生時代の友人・久隅雪子の新居に招かれ、もともとその家に住んでいたある家族の話を聴くことになる。
雪子は女学校を出たあとその一家に預けられ、蒐集品の手入れなどをして暮らしていたのだが、とんでもない父親のもと危ういバランスで暮らしている奇矯な兄弟がある日…という話。

父親は弟の梅麿を溺愛する一方で兄の鞆之助のことを使用人のように扱っている。
ある日、梅麿の着物の綻びをきっかけに、必要以上のプライドをかけた奇妙な兄弟げんかが勃発する。

過去世を思い出す…ということ

さて、タイトルにもなっている「過去世」というのは仏教の言葉。岡本かの子は仏教の研究でも有名だそうだ。むしろ本格的に小説を発表する前に、仏教を研究していたとのこと。
驚いたんですが、彼女が小説を書いたのは1936年から脳溢血で倒れる1939年というわずかな期間らしい。その間に沢山の名作を生みだし今も読み継がれているんだからすごい才能の持ち主だ…。

「前世」というほうがメジャーだと思うけど、前世は一つ前の生のみを指しているのに対し「過去世」は今生まれる以前の全てを指すそうだ。
浄土真宗のお寺のホームページにこんな興味深い記事が。

初期経典でしばしば言及される「過去世」を思い出すということについて。

彼は心が定まり、清浄に、浄化され、無垢であり、付随する煩悩から離れて、しなやかになり、適した作業〔に従事し〕、確立し、不動に至り、過去世の住所(生存)を思い出す智慧へ心を向ける。…(中略)…
1つの生存も、2つの生存も、3つの生存も、4つの生存も、5つの生存も、10の生存も、20の生存も、30の生存も、40の生存も、50の生存も、100の生存も、1000の生存も、100,000の生存も、多くの消滅の劫(非常に長い期間)も、多くの再生の劫も、多くの消滅と再生の劫も〔思い出すのである〕。
「そこで私はこのような名であった、このような家系であった、このような身分であった、このような食物を〔食べ〕、このように楽と苦を享受し、このような生涯であり、彼はそこから消え、そこで生まれ、そこでまたこのような名であった、このような家系であった、このような身分であった、このような食物を〔食べ〕、このように楽と苦を享受し、このような生涯であったと、彼はそこから消え、ここで再生した」と。

最尊寺ホームページ 初期仏教のお話13 「過去世(前世)を思い出す」

このくだりは雪子が梅麿の裸体を見て得た衝撃の描写と重なり合う。

だが、雪子の魅せられたのはさういふ一々のものではない。何代か封建制度の下に凝り固めた情熱を、明治、大正になつてまだ点火されず、若し点火されたら恨みの色を帯びた妖艶な焔となつて燃えさうな、全部白臘で作つたやうな脂肉のいろ光沢だつた。それにはまた喰ひ込まれてゐる白金の縄を感じた。

岡本かの子「過去世」

連綿とつらなる夥しい過去世のなか、封建制度のもとで抑圧されてきたいくつもの生命の鼓動とでも言おうか、雪子一人のものではない大量の思念が共鳴し呼び起こされる。
いまもなお「家」に縛られ抜け出す術のないこの兄弟。弟が持つ、しなやかで完璧な、ただそこに存在する肉体を見て。普段は恥じるように着物の下に押し込められている光沢を見て。

父親に歪んだ優劣をつけられて、この屋敷のなかで決められた役回りを演じること以外禁じられているような生活。
鞆之助は男の針仕事を恥じていたけれど、実際なんてことはない優しい、自然な行動だった。
梅麿は兄を虐げながら縋り、雪子を潔癖に無視し、平気な顔をして父を操っていたが心の内はどんなだったろう。
ただ生命のままに生きようと思っても、作られた枠組みの中で役割を果たさなければならなかった、長い時間の中で、凝り固まった情熱。
「それにはまた喰ひ込まれてゐる白金の縄を感じた。」…。

岡本かの子について

岡本かの子自身が豪商の娘であり、幼いころから漢文や短歌に親しんでおり、この作品は本当に彼女の体験なんじゃないか?と思う。
そんな彼女の有名エピソードといえば、やはり岡本太郎の母というところだけど、「仕事中は幼少期の太郎氏を兵児帯で箪笥に縛っていた」。
岡本太郎氏が母かの子についてどう書いているかくわしく引用しているブログをみつけて興味深かったので紹介させてもらうよ。

「私は自分の経験に即して言うのだが、母親が子どもの面倒を見る、見ないなんてことはどうでもいいことだ。ただ、人間として、いつもなま身でマトモに対決すること。親と子などという、きまり、枠の中にはまり込んで、惰性的になれあってしまわないで、人間対人間として、ヒタと向いあう、それが大事だと思うのだ。」

岡本太郎『一平 かの子・・・心に生きる凄い父母』

まさにこの思想は、世間の常識やお仕着せの価値観に囚われず、魂の目で世の中を見ている人にしか辿り着けない気がする。
この「過去世」で雪子が魅せられた命の情熱を、岡本かの子自身も実際に体験し、忘れずに一生を過ごしたとしか思えない。
エッセイも読んでみたいな~。


次回予告:7/19(金)21:00~久生十蘭「黄泉から」

次回は久生十蘭「黄泉から」を読みます。今年2回目の十蘭先生!このころにはきっともう夏ですね。怖い話ではなく、すこし切ない美しいお話です。
ぜひ来月も聴きにきてね!


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