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☆自己紹介④☆大学入学~卒業...そして就職までの道☆

憧れの関西国際大学へ入学!!

高校野球を引退し、卒業して中学生の時から憧れであった「関西国際大学」へ入学しました。

なぜ憧れであったのか。
それは中学2年生の時に出会った、
所属チームのOBである当時高校3年生であった先輩に大変憧れておりました。

当時は

結果を出しても全然試合に出させてくれない。
練習でもライバルにばかり教える。

等、なぜか贔屓扱いを受けていたような感じでした。
まあ今思うと贔屓と思うことより、本当に精神的に強くなった3年間であったので財産です(笑)

でもそんな時に、その方も高校野球を引退し、
練習に顔を出していただいている時は
熱心に教えていただき、またそんな扱いをされている私を見て、

「見てる人は見てるから。それに持っている力は嘘をつかないから今のまま頑張ったらいいよ」

とずっと声を掛けていただいておりました。


その方が関西国際大学へ入学した事もあり、

プロにいけなかったら俺も絶対ここに入る!

と中学生の時から思ってました。
当然プロ野球選手になる一心で頑張っていました。
保険を掛けた訳ではなく、単純に憧れていました。

関西国際大学は、野球部創立して間もない学校ではありましたが、
快進撃を重ね、3部リーグからすぐに1部リーグへ昇格。
そして全国大会である華の神宮大会へ出場する等、当時の大学野球界では有名でした。

しかし、本当は高校2年生の時には違う大学からお声かけいただき
特待生として決まっていました。
そこは2011年の東日本大震災の影響で寮が倒壊し、受け入れ中止となり、話がなくなりました。

そこで進路はどうする?となった時に
関西国際大学が良いという話をした時に、
当時の高校の監督と大学の監督が年齢は先輩後輩だが幼馴染みであり、話してみるとなり、練習会への参加、指定校推薦で入学及び入部が決まりました。
また、大学の監督については、
私の中学野球のチームのOBで2期生にあたる方でした。

小・中・高と全て”縁”で繋がってきた私の進路<人生>。
ここでも繋がることができました。

しかしやはり入部してからも大変でした(笑)

怪我とイップス克服のために…

まず”イップス”になった事は一切後悔もしていません!
なぜなら、その苦境を越える為の行動や研究する姿勢、
その為に練習をするという事。
こういう経験は今、社会人になってすごく活きているし、
活きる事だと思っていたからです。
高校生の時は、確かに苦しかったです。
しかし指導者を目指す事に決めた頃から楽しくて仕方ない!

その経験や習慣はその時から根付いており、
楽しいんです!!(笑)

そして高校生編でも書いたように、
肩痛とイップスを発症していた私。

4ヶ月ほど投げずに入学する事に。

思い通りで投げ方は良い意味で忘れていました(笑)

しかし、イップスならではの”不安”はありました。
実際にボールをピッチャーに返球する際、ピッチャー頭上にある屋根を越えてしまったり(笑)
当然、友人やコーチに笑われましたし、私も笑っていました(笑)

ここからは、めちゃくちゃ地道な練習の継続です。
1m前の的に投げる。的に正しいフォームで投げて的に行く数が多くなれば
1m距離を長くする…
この積み重ねで約2ヶ月、毎日300球ほど(1ケース100球くらい)をしていました。みんなが昼食食べている時も自分は早く食べて練習に戻る。
この繰り返し。全く楽しくない(笑)

けど成果はしっかりとでてきました。
ちゃんと投げれるようになりました(笑)
この過程は高校から積み重ねてきた姿勢で、
絶対よくなると信じるというか、そうするんだ!という覚悟があったから、
周りから見たら地味で、何の練習?みたいな練習でも続ける事が出来、
結果に出てきました。つまり根拠がありました。

「これをするからこうなる」
「○○をするとこうなるのではないか」
失敗しても成功しても絶対についてくるものですよね。
また途中で失敗しても最終的に成功したら、それが成功の道であるということ。はじめから近道はわからないし、遠回りの道もわからない。
だからこそ考えて実行する。これがビジネスでも大事だと思います。
やるしかない。この言葉だと思います。

キャンプメンバー選出!

そうこうしているうちに一年が過ぎ、沖縄キャンプの時期になりました。
沖縄キャンプは2月末から3月上旬で開催され、寒い時期に温かい沖縄へ行き、実践練習や試合等内容の濃いスケジュールで1週間動きます。
約120名ほどいるメンバーで約40名ほど選出されていきます。この40名は4月から始まる春季リーグ戦の最終選考に残るメンバーです。
このメンバーに入る事ができました。

そこではあまり良い結果を出す事はできず、
春季リーグ戦のメンバーにも1試合のみ入っただけで、
試合には出れませんでした。しかし、やってきた事は間違いないという確信と自信をつける事ができました。

大学三年生~大病を患い…~

大学3年生になったとき、まさかの健康診断でひっかかり、精密検査を受ける事に。

結果は「特発性膜性腎症」という腎臓の病気でした。

まさか自分がこんな病気を患うとは…という感じでした。
基本的に腎臓の病気を患うと治らないと言われており、21歳の私にとって今後の人生がどうなるのか。等すごく不安になった事を覚えております。

しかし、このタイミングで当時の指導者からは
「学生コーチ」への転向打診があり、検討するという回答で終わっていました。
そして腎臓病を患い、選択は
「辞めて、母校の高校野球部へ行けるときには全て行き、指導者の練習をする」

「大学で学生コーチになり、指導者の練習をする」
かの2択でした。

当時の学生コーチに転向するという事に対してのイメージは、

引退前の時間稼ぎ

で転向する人が多く、やる気のない人ばかりでした。

きつい練習することもなく、
寮でのご飯と食べる事もでき、
大学で野球部に最後まで所属したという事を履歴書に書ける

こんな居心地の良い所はありません。
私からしたら「情けない」という印象でした。

もちろんコーチから打診を頂いたときは、
そんな生半可な想いで私に勧めてくれたわけではありません。
私が指導者になりたい事を知っていたからであり、普段の練習でも先輩後輩関係なく教えている姿を見て頂いていたとの事です。

この病気を患い、指導者に返答をしなければいけないときに私の想いも話をしました。

「正直、学生コーチに対しての印象は良くないです。
引退までの時間稼ぎでしかない。真剣にやるには僕にも色々経験させてください。そしてみんなが思う学生コーチに対するイメージを僕が変えます。その想いで私もやりたいのでよろしくお願いします。」
と伝えました。

すると、その想いを汲んでくれたのか、
コーチ道具一式とコーチとしての背番号を頂きました。

本来大学野球では
50番が監督、
51番、52番がコーチで、この3名だけの背番号は存在しております。
そこで私は53番の背番号をいただき、

「これでしっかりとコーチ業をしてくれ」

と言っていただき託してくれました。

これは気持ちも燃えるしかなく、
華の神宮へ出場できるように全力を注ぐ決意をしました。

入院中のできごと

とはいいつつも、すぐに入院することとなり3週間入院しました。
それは治療というようい検査入院で、治療に関しては降圧剤を飲み、食事制限をすることのみでした。当時はスポーツも控えてくださいとのこと…

つらかった。

何もかも制限され、大好きな野球も取り上げられた気分でした。
選手をやめていなかったらもっと落ち込んでいたことでしょう。

しかし、そんな気持ちの中支えてくれたのは、

両親

野球部の仲間

でした。

実家は大阪ですが、
大学は兵庫県の為、病院は神戸。
それでも母親は毎日来てくれて、父親も仕事が休みの時は来てくれていました。

野球部の仲間もわざわざ1時間弱かけて(三木市から神戸市まで)
毎日だれか来てくれて、それには後輩も先輩も同級生も来てくれました。
本当に支えてくれました。

それに後輩は毎日、私に素振りの動画を送ってきて、

指導してほしい

とお願いしてくれました。

毎日5人動画を送ってきてくれて、それに対する意見等を
ノートに絵も書いたりして送って。

これで結果がでた!

という事も聞きながら、また指導をして。


こんな毎日で、あっという間の3週間で下を向いている暇等はありませんでした。


前を向くのは自分でする奮い立たせるだけではなく、
仲間にも支えられてもなるものだ。
そう思える事が心底できた経験でした。



退院から引退まで

さてそんな3週間が終わり、野球部へ戻りました。
初日は練習で紅白戦等があったのですが.…

一日立っている事ができず、足がプルプルと震え出しました(笑)
それくらい筋肉が衰えていました(笑)

それでも徐々に回復していきました。
そのなかで

コーチングの勉強
ノック等技術面の練習

に没頭し励みました。

私はその時点で大学の必修科目での単位は取り終え、
後は教員免許の単位のみでした。
なので空いている時間は、
グラウンド整備は草抜き、ノックの練習やデータ取り及び分析に時間を充て、毎日が充実していました。

ですが、正直私の代では神宮大会(全国大会)へ出場できる力は、
他のチームと比較した時に難しいと感じていました。
それでもなんとかするしかない。
でも私は、一軍メンバーよりも二軍メンバーの練習メニューを組んだり、
指導したり、試合では指揮を執ったりと、そこを任されていた事もあり、
1つ下の代と、その下の代で神宮に出れるように、俺は指導していこうと決め、毎日書いていた野球ノートには

絶対神宮で勝てるチームを作る!!

という言葉を毎日締めの言葉で書いてました。

その子たちあ4年生になったとき
見事神宮大会へ行き、ベスト4まで行きました。
もちろん私が教えたからとかではなく、単純に彼らが頑張ったからで、
でも本当にうれしかったです。

それくらい色々考えて仕込んで、一緒に練習も付き合って.…
そうしていくうちに何故か、「海老塾」と呼ばれるようになり、
塾生も増えていきました(笑)
夜も選手たちが気が済むまで夜中バットを振ったり、
朝早く4時頃からバッティング練習付き合ったりとしていくうちに、

与える

という事の大事さに気づきました。

人は欲しがる生き物。
結果、名誉、地位、金.…

でもそれには先に与えるという事が必要なのかもと思いました。
人望もほしいから手に入るものじゃない。
リーダーシップもついてきてほしいから作るようではついてきてくれない。
そこには

与えるもの

先にあって

もちろん計算的、意図的な要素も一部あるかもしれませんが、

自然と作られたものも必要で、その1つが
”誰かのために”与えるものと、社会人になって、この管理職についたときにより強く感じました。

私の代では神宮大会に行くことはできませんでしたが、
社会人になるにあたり、貴重な経験をする事ができ、充実した4年間でした。

引退から就職まで…


無事に単位も取ることができ、
教員免許も取得することができました。

教育実習も大変楽しく、
もちろん授業もしました。
より教師になりたいなと思えた経験でした。

就活については3年生の頃から考えはじめたのですが、
当時は、

母校で教師になって指導者になる

普通に企業へ就職して営業職をする

一浪してバイトしながら通信に通い違う免許を取り、
次は母校に限定せず教師になる

の三択でした。

私は大学で経営学科で地域マネジメントを専攻していました。
私は人と接すること、人と話しをする事が大好きで、
人前で話しすることも好きとは言いませんが、慣れていました。
なので、教師以外なら”営業職”をしてみたいという事を大学で授業を専攻していく中で芽生えてきました。そして、ゆくゆくは経営者、起業ができるようになればいいなと思っていました。

そして決断したのは、

母校で教師になり、高校野球の指導者になる

事でした。


理由は
高校時代に成せなかった甲子園出場
を果たしたかったからです。この理由一択です。
もちろん教える事も大好きです。
人の成長に関わる事ができること。素晴らしいです。
ですが、高校時代のS君との約束も果たしたい。
その目標を立てて、4年生になったのでした。

しかし、母校への復帰については条件がありました。
私立なのですが、その母校自体が”募集”をかけるという事が条件です。
そうなれば復帰はできたのですが…

この年は募集すらなく、
母校復帰という事は叶いませんでした。

そこで迷った私ですが、
何しろこの通知が来たのが、
大学4年生の2月。つまり卒業式1カ月前・・・
残りの2カ月で決めなければなりません。

まあ私としてもそれまで動かなったのですが…
理由としては
①内定をいただいても母校が復帰OKなら母校にいくつもりで、内定頂いた企業様には、お断りを入れる事になってしまいます。
なので就職活動はしないと決めていました。
②もし、母校復帰がダメであっても1~2カ月就職活動をし、
就職活動を経験し、希望する企業が無くても、一年浪人し、バイトしながら教員免許で違う科目を取り、2年後に一般の教員採用試験を受験する。

この2点の理由で何も動かずでいましたが、まさか本当に募集無しになるとは(笑)

そこから就職活動を必死にしました。
残り2カ月で決めるために、遊ぶ事もできず、卒業式も飲み会は出席できずでした。しかし全く後悔はありませんでした。
やっぱり自分で決めた道であれば、後悔するはずがありませんよね。

私は迷ったときは常に
「俺はどうしたいのか」「どうなりたいのか」
「ではどうすればよいのか」
これが常にあります。
『○○から言われたからこうした』
という自分の意志がそこに存在しない事が嫌いで、誰かから言われたとしても自分の意志が無い事が、私の中では許せないんですね。

野球部を引退、そして卒業。
そして周りのみんなは就職先は決まっている。
なので誘いはたくさんありました。
そりゃいきたいなーとは思いましたが、就職活動に没頭しました。
結果は不動産関係と塾講師の内定を頂きました。

不動産では営業職、
塾ではもちろん塾講師。
塾を受けた理由は、将来の教師生活に生かすことができればと思い受けました。
しかし内定は頂いたものの、説明会や試験を受けている中で、
「教師」と「講師」の違いに気づき、私がなりたかったのは、
「教師」でした。

そんな事も就職活動をしながら、たくさん気づきがあり、
たった1~2カ月ですが見る角度が変わりました。

内定をお断りの電話をいれた後、
残る選択肢は浪人でした。

3月中旬。
さあバイトの面接いれようかと思ったとき、
一本の電話がありました。
その電話は高校時代に亡くしたS君の父親でした。

「高校の時に月命日で食事会した時にいつもおった人覚えてるかー?その人がえびちゃん就職どうなったんかなって言ってたで」

というお電話でした。
全て経緯等を説明し、すると「電話してみてくれへんか」と言われたので、
とりあえずいわれるがままに電話をすることに。
その人の事は正直全く覚えていませんでした(笑)

しかし電話をし、経緯や今後教師もやっぱり目指したいという事も
伝えましたが、それでも「ウチに来て働いてほしい。高校生でキャプテンとしてやってきた事もしっているし、食事会で話しした時に『この子のような子が来てくれたらいいな』と思っててん」と言ってくれました。

少しお時間をくださいとお願いし、
どうするか考える事に。
営業職もおもしろそうで、興味はあった。
しかし、もう残された”一浪”するという道でほぼ意志が固まっていた自分。

揺らぎました。


しかし選んだ道は、
お誘いいただいた会社でお世話になることに決めました。
それが今の会社で8年目に入ります。
また私を誘っていただいた方は、この会社の社長です。

なぜ、この会社に決めたのか。

最後の私の背中を押したのは
ずーっとつながってきた”人との縁”でした。
”人との縁”でここまでつながってきたと過言ではないくらい、
誰が欠けても今の自分はいない。
ここもつながってきたのかと思うと、
この会社で働く事に対しての意欲がわいてきました。

そしてすぐにお返事をさせていただき入社が決まりました。
その日が3月31日で、翌日の4月1日からの出社となりました。

この時の私が選んだ道は間違っていないと今でも思います。
成功するかわからない。でも自分で決めた道だから必死にするだけ。
他人から失敗すると言われても自分で決めた道なので、
成功するように頑張ればいいし、絶対成功する。

「置かれた場所で咲きなさい」

好きな言葉になったのはこの頃で、この言葉を胸に
今与えられた場所は、選んだ場所で、超えないといけない壁。
だったらとことんやってやろう。
そういう気持ちで社会人へと進むのでした。


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☆PROFILE☆
海老谷 大樹
1994.1.18 大阪市生まれ 
男 B型

⚾球歴⚾
◇小学4年生~中学3年生
-大阪平野富士ボーイズ-
◇太成学院大学高等学校へ入学
☆主将☆
☆2010年大阪府秋季大会ベスト8☆
☆2010年大阪府21世紀枠選出☆
◇関西国際大学へ入学
☆人間科学部経営学科 地域マネジメント専攻☆
☆高等学校教員免許(公民科)取得☆
◇株式会社岩崎製作所へ入社(2016年)
営業部へ配属
☆2019年 営業部課長☆
☆2020年 営業部部長☆
☆2021年〜2024年3月 営業部部長兼経営補佐☆
☆2023年10月 FP2級取得📚
◇2024年4月〜
・First end株式会社 CMO
・株式会社エヴィスクリエイション


☑️目標の立て方
☑️分析の仕方
☑️組織の作り方
などなど、経験と結果から基づく根拠を基に発信します!

🍀好きな言葉🍀
「置かれた場所で咲きなさい」
「優れるな異なれ」
・・・表裏一体の言葉の意味。そこには「どの角度から物事をとらえ、考え実践するか」。推測ばかりではなく、やるしかない。これがスタート。

 




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