見出し画像

☆自己紹介③☆高校3年生~一番戻りたくない時期だが、大切な事を経験できた時期~

さて、前の記事でも長々と書いてしまいました・・・最後まで読んでいただいた方、お疲れ様です。ありがとうございました。
しかし、まだまだ続きますので、本記事も休憩をはさみながら最後までお読みください。


新チーム発足!!甲子園に向けて!


新チームとしてスタートし、キャプテンに任命していただき、正直やる気しかありませんでした。

戦力的には、
おそらく過去で一番強いんじゃないか。
というお声もありました。

息込んで臨んだ大会までの練習試合。
まーーたっく勝てない時期があり、焦りがありました。
しかし、チームとしてはドタバタするわけでもなく、私1人だけが焦っていました。

「キャプテンやめた方がよいのでは」

そんな弱音を吐いた事もありました。
(当時の副キャプテンにはめっちゃ怒られましたw)
その当時から

「リーダーシップ、キャプテンシーって何だろう」

という疑問と戦う事となり、また人生における必ず解かないといけない問題となりました。

又同時に、練習中にミス連発したり、声が出ていなかったりと味方同士で指摘し合う所までは良いのですが、それが喧嘩になり・・・
それを見たコーチ、監督は、その時では秋季大会メンバー18名は発表されていたのですが、

「3人はメンバーから外す」

と告げられました。

しかし、メンバーの交代はできないので、実質15名で戦う事を強いられました。

ですが、やはり15名だけで戦う事はやはり戦力的には非常に厳しい条件です。監督との話合いで、他の後輩等の部員を全員納得させる事ができたら、3名は復帰していいというのが条件でした。
一日使って話合いを部員全員で行い、その結果は復帰する事ができました。


そんないざこざがあり始まった秋季大会でした。

春のセンバツ甲子園をかけて


この秋季大会は春のセンバツ甲子園の切符を賭けて戦います。
初戦から快進撃を続け、ベスト8まで行きました。
このベスト8は太成学院大学高校史上初の快挙であり、次はベスト4をかけての戦いです。

結果は完敗でした.…

無残にも、3-0とスコア以上に内容が完敗でした。
その時点で”ほぼ”センバツ甲子園に出場することは不可能になりました。

負けたのに”ほぼ”には理由があります。


センバツ甲子園には現在、

「21世紀枠」

というのが存在します。

「21世紀枠」というのは、わかりやすくいうと
・実力がある程度あり、社会貢献している高校
に権利が与えられる枠であり、これを各都道府県1校、そしてそこから全国から3校のみ選出され、甲子園出場することができます。

21世紀枠大阪府代表になる最低条件は

「大阪府大会ベスト8以上」

でした。

結果.…

21世紀枠大阪府代表に選出されました!!

しかし、その後は全国の3校には選ばれる事ことはなく、
センバツ出場の目標は途絶えました。
残るは最後の「夏の甲子園」。

ここに向けて始動し始めました。

冬練~夏の甲子園までの軌跡


秋季大会が終わり、次の夏の甲子園に向けて、
大きく伸びるための土台作りをする「冬練」が始まります。

つい最近までは目の前に「センバツ甲子園出場」という大きな目標があったので燃えていましたが、燃え尽き症候群まではいきませんが、やる気がぐんっと下がってしまって、練習に文句を言う者、ネガティブ発言ばかりする者とチームはぐだぐだになりました。

確かに時間的に”遠くの目標”となってしまった甲子園。

気持ちを継続させる事が難しい高校生の年代。
そうなるのも少しわかりました。

しかし、そうなっている時間、ライバルたちは土台を作りで大きくなっていっています。そんな甘い事は言えないと思うしか当時はありませんでした。

そんな中、私はもう1つ大きな”爆弾”を抱えておりました。

それは”ケガ”です。
実は、2年生の夏頃から肩痛を発症し、ケアをしながら痛みがひどいときには痛み止めを服用し試合や練習に臨んでいました。
その結果、”イップス”にもなりました。
一時的にはイップスは回復しました。
その中で挑んだベスト4をかけた試合の時は痛み止め2錠を服用したものの、3回の守備の時には効果が切れてしまい、ほとんど右肩があがりませんでした。それでもそのまま試合終了までなんとかなったのですが…
試合終了後10分後くらいにアドレナリンが切れてしまったのか、
ズキズキの具合がズッキンズッキンという痛みに代わり、
帰宅した時には頭を洗う事も不可能なほど肩が壊れていました。

それでもだましだましでやらないといけない危機感に非常にさらされており、冬練の時も休める事はほとんどありませんでした。
これがダメだったのです。
その後ももちろん回復するわけもなく、また重度のイップスにまた陥り、大学入学まで治る事はありませんでした。ピッチャー返球するのもどこにいくかわからない。こんな状態です。
そして春季大会、夏の甲子園最後の大会でも毎試合でるわけもなく、ライバルにほとんど試合の出場機会を奪われました。

このライバルはH君で、私がキャッチャーでレギュラー取ってからはファーストのレギュラーでした。
毎日毎日悔しく、だんだんと心も腐りかけていました。

「レギュラーも取られる、キャプテンとしてもふがいない。」
野球が大っ嫌いになり全く楽しくありませんでした。
この時には中学生時代を思い出すことが多々ありました。
この時は野球人生で一番つらく、楽しくない時期でした。

とうとう監督に

「コンバートするか?」

とお声がかかりました。

正直揺らぎました。
試合には出たい。でもキャッチャーで出ておらず、H君が出ている試合でファーストで守る。それだけはイヤだという雑念があった。

チームの為になるのはどちらになるのか。
自分はどうしたいのか。

こればかり考えていました。
結論はコンバートしないでした。
理由は2つありました。

1つ目は、やはりH君が出ている試合でファーストを守っている自分が嫌だという雑念は絶対にぬぐえない。正直まだまだ未熟者でした。
そんな気持ちで出るなら、出ない方が良い。
ほころびが出る。

2つ目は、その話をピッチャー陣の同学年に相談しました。
「そんなんいわれたかー。お前のキャッチャーが好きやけどなー。返球だけやもんな」
どれだけ返球の練習しても治らない。
たまーーーにスイッチが入ったときは治るのですが、、、
イップスは一般的に「精神論」や「メンタル面」で片付けられる事が多いです。
しかし、私は今でも絶対違うと考えております。
「精神論」や「メンタル面」はあくまでも結果論であり、
それまでの過程には何か必ず”原因”があると考えており、私の場合は

投げ方を治す事は肩痛とイップスを治すことに繋がると信じていました。
もちろん知識がない中で、メンタル面等と一般的に言われるものですから、メンタルトレーニングの本を買い、イップス向けのメンタルトレーニングも信じて行いました。

結果は全く変わらなかったのです。

それでも

お前のキャッチャーが好きやけどなー

と言われた事がグサッときて
約2年半正捕手という位置、背番号2という番号にこだわってやってきた。
簡単に捨てる事はできませんでした。

上記2点の理由で、コンバートはしないことに決断を下しました。
もちろん後悔はありません。

それでも上手くなりたい。
負けたくない。
投げれるようになりたい。
ここで腐っていてはS君に合わせる顔が無い。

奮い立たせて練習にはげみました。
そうこうと毎日
「勉強」をし、「実践」をし、「見直し」をし、「改善」をし、
それを「習得」をする事で
知らない間に野球の技術面の知識の引き出しがとても増えている事にノートを見た時に感じました。
この時に、人生の目標であった

「プロ野球選手」

から

「母校で野球の監督になる」
に目標が変わりました。

また大学へ行ってから気づいたのですが、
この時の行動習慣であった
「勉強」をし、「実践」をし、「見直し」をし、「改善」が
PDCAサイクルが自然とできていたなと気づき、
当時のこの出来事は私にとってすごく大切な経験の1つとなりました。
この経験で得たことは私にとってかけがえのない経験で、
胸を張れる”挫折”です。

そんなこんなで挑んだ、
春季大会はベスト32
夏季大会はベスト64と結果は秋季大会を超える事ができず、
私の高校野球人生を終えました。

結果は簡単に書きましたが、
この夏の大会にかけて、
甲子園出場を後押しする後援会もOBによって発足していただき、
父兄、後援会、選手、スタッフと一体になって大会に挑みました。
本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。

高校野球を終えて…

高校野球を終えて、
またキャプテンとしてラスト1年突っ走ってきて
得たものはたくさんありました。

「出会い」「別れ」「挫折」「気づき」「絆」
この5つでも非常に濃いもので、私の財産です。

またキャプテンとしてずっと悩んでいたもの。
「リーダーシップとはなにか」
の答えは見つかる事はなく、結論から言うと大学でコーチをし、
社会人になって管理職について失敗した時に、
私なり答えを見つける事ができました。
でもそれはこの高校野球で経験したキャプテンから始まったものです。
この高校3年間、特にこの最後の1年間。

野球も辞めたくなったし、
キャプテンなんか辞めたくなったし、
「みんなわがままいうなよ」
「なんで俺だけやねん」

そんな事ばかり思っていたぐらい未熟者で、
精神的にも弱かったです。
またキャプテンとしての行動や言動、プレーはできていたのか。
そんな事も振り返りながら思っておりました。

背中で引っ張る

これができていたのか。
正直自信がありませんでした。

ですが、
引退した時や、
友人の結婚式の時にひさびさ会った時等
「えびちゃんがキャプテンで本当によかった」
という言葉に報われ、救われました。
少しはそういう事が出来ていたのかなと思います。

甲子園出場もできなかったし、
S君との誓いも果たす事もできなかったですが、
本当に誰にでもできる経験ではない分、
より経験できてよかったと心の底から思いました。

次の舞台は

大学野球

です。

そこに向けてまずは

肩痛を治す
イップスを治す

これが最優先事項でした。

色々勉強する中で

筋肉と脳は密接に関係する


という事を学びました。

なので、引退してからの約4カ月間
ほとんどボールは投げず、思い切って

投げ方を忘れよう!

という逆転の発想の行動をとりました。

その分違う練習をオフ期間で行い、
大学野球にステージを移すのでした。

高校野球終了!!!!



------------------------------------------------------

☆PROFILE☆
海老谷 大樹
1994.1.18 大阪市生まれ 
男 B型

⚾球歴⚾
◇小学4年生~中学3年生
-大阪平野富士ボーイズ-
◇太成学院大学高等学校へ入学
☆主将☆
☆2010年大阪府秋季大会ベスト8☆
☆2010年大阪府21世紀枠選出☆
◇関西国際大学へ入学
☆人間科学部経営学科 地域マネジメント専攻☆
☆高等学校教員免許(公民科)取得☆
◇株式会社岩崎製作所へ入社(2016年)
営業部へ配属
☆2019年 営業部課長☆
☆2020年 営業部部長☆
☆2021年〜2024年3月 営業部部長兼経営補佐☆
☆2023年10月 FP2級取得📚
◇2024年4月〜
・First end株式会社 CMO
・株式会社エヴィスクリエイション


☑️目標の立て方
☑️分析の仕方
☑️組織の作り方
などなど、経験と結果から基づく根拠を基に発信します!

🍀好きな言葉🍀
「置かれた場所で咲きなさい」
「優れるな異なれ」
・・・表裏一体の言葉の意味。そこには「どの角度から物事をとらえ、考え実践するか」。推測ばかりではなく、やるしかない。これがスタート。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?