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まちがいさがし

※この記事にはグロテスクな表現があります


なぜ医者になったのか。

それは、高校2年の時に床屋で読んだドクターコトーに感銘を受けたからだった。

僕は昔から人に影響を受けやすかった。

小さい頃は親から実家を継ぐように言われ、それが当たり前で大事な事だと信じて生きていた。

そんな僕にはドクターコトーは衝撃的であり、医者という仕事の素晴らしさを知った。自分もこんな風に誰かを助けたい。人の命を救って、誰かに感謝されたい。自分にはこの仕事しかない!これが自分の天職なのだとさえ思った。

そんな一身で高校の2年の夏から猛勉強を開始して、なんとか国立の医学部に合格したのだった。

その頃の僕は辛い学生生活を未来の自分を妄想する事で耐えていた。

僕は立派な医者になって、周りから先生ありがとうございました!と感謝されて、難しい手術もこなして、あの先生の右手は神の手だ!と言われる。

そんな将来を妄想して自分を保っていた。



時は経ち34歳になった俺。

一昨日の事だった。俺は解剖室に入る前に自分の格好をチェックするために鏡を見て思った。

えっ、誰?このお肉屋さんか魚屋さん?

手術着の上から魚屋さんが着てるようなビニールの寸胴の前掛けをして、長靴を履き、顔はガスマスクとゴーグルをして手袋は二重。

解剖室に入ると納体袋に入った腐敗が進んだご遺体が運び込まれてくる。

俺の専攻が腐敗が進行したものや、損壊が酷いご遺体だから仕方ないけど…それにしても…学生の頃に描いていたものと何もかもが違っていた。

この遺体を解剖したところで感謝されるわけでもなく、命を助けていただいてありがとうございます!なんて言葉もない。

優秀な助手や看護師に囲まれて、さすがです先生!なんて言葉があるわけでもない。

あるのは、必死にウジ虫やハエを観察している僕に若い刑事が、これで何が分かるんすか?というどーでもいい質問だけ。

何かが違う。

思ってたのと違う…。

難しい手術で活躍するはずの神の右手は…今や溶けかかった脳を取り出しスライスしたり、臓器を取り出してみたりと…悪魔の右手になってしまった気分だ。

最近の俺は、人の死に対して免疫ができてしまったと感じる事が多い。遺体に対して何も思わないし、珍しい死因であれば、論文のネタになると喜ぶ自分がいる。今俺が住んでいる部屋は事故物件で、たまに不思議で奇怪な事が起きる。しかし、それを特に怖いと感じる事も無い。そんな自分がちょっとだけ嫌だ。




最近、俺は思う事がある。

俺にもし恋人がいて、その恋人が自分の彼氏は医者なんだと誰かに自慢する。その自慢された人たちは、俺が思い描いた命を助ける医者を想像するだろう。彼氏もそんな医者を想像しているかもしれない。

だけど、現実は魚屋さんスタイルで遺体を診るだけ。命を救っているわけでもない、医者とも言えない医者なのだ。


今、バイトで入っている消化器内科での仕事をしている時だけ、俺はまともな医者になった気分だ。

そんな卑屈な気持ちで、恋人に自分の仕事を誇る事ができるだろうか。



そんな事を最近ずっと考えていた。答えは出てないけど。

でも、間違いか正解かなんてどうでもいいのかもしれない。これじゃなきゃいけないと強く思うだけでいいんじゃないかなと。

菅田将暉のまちがいさがしを聞いて、影響を受けやすい俺はそう納得した。


今日のnoteはまとまりがない、なんかただの愚痴をダラダラ書いてるだけになってしまった気がする。

こんな時は…新大阪の温泉に行って、若いリーマンの裸を拝むか、ウリ専でイケメンリーマンを指名するか…とにかくストレスを発散させないといけないと思うだけ。






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