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ずれとしての「わたし」—藤本なほ子の鏡文字

 2021年3月26日金曜日、青山の表参道画廊で開催されていた藤本なほ子の個展「わたしの遺跡を見学する a visit to remains of ʻIʼ」を見に行く。自分がはじめて藤本の作品を見たのは2009年に開催された「遺跡」と題された個展で、そこで展示されていたのは他人の筆跡(ノート・日記・手紙・おえかきちょう・落書きなど)をトレースして書き写した作品だった。その超絶技巧なのかなんなのか全くワカラナイ感じが非常に印象に残った。その後も他人の筆跡を書き写した作品の展示が何回か続き、前回の個展「読まれうるもの」(2018年)では知人から聞き取った話を利き腕でない左手を使って極小の鏡文字で書き起こした作品が展示されていた。そして今回は作者自身の夢日記を「暗記し、目を閉じて、左手で、鏡文字で書きうつしていく」作品が中心になっている。いずれも言葉や筆跡が作品のモチーフとされているが、今回の展覧会ではその素材となる言葉に他者への通路がなく、作者一人のなかで完結しているところが特徴であると言える。展覧会タイトルにもあるように「わたし」というものが今回の作品の大きな柱になっているようだ。自分が記憶する限りでは藤本の展示で「わたし」というキーワードが前景化するのは今回が初めてである。しかし思えば、藤本の作品はずっと「わたし」について考え、作り続けられてきたのではなかったのか。

 そこで自分もまずは「わたし」について自分なりに考えてみることから始めてみたい。

イコールな「わたし」とノットイコールな「わたし」

 一口に「わたし」と言っても、定義の仕方次第で多種多様な「わたし」が想定される。そこでまずは真逆のベクトルをもった二つの定義法について考えてみることにする。ひとつは「わたしは〇〇である」と「わたし」を構成している属性を列挙していくやり方。そしてもうひとつは「わたしは〇〇ではない」と“「わたし」ではないもの”と区別して「わたし」を選別していく方法である。仮に前者をイコール法、後者をノットイコール法と呼ぶことしよう。

 イコール法では「わたしは日本人である」、「わたしは男性である」、「わたしは中年である」、「わたしは画家である」、「わたしは甘党である」、「わたしは相撲好きである」などと自分の属性や嗜好を挙げていくことによって「わたし」の全体像を作り上げていく。しかし当然ながら「わたしではない日本人」は現存するだけで一億人以上存在するし、男性や甘党の数はさらにそれを上回るだろう。条件を増やして絞り込んでいけば「わたし」の精度は高まっていくが、このやり方では唯一の「わたし」にまで到達するのは容易ではない。限定された集団内ならば有効だが、たとえば対象が全人類ともなると自分と同じ条件を持つ別の「わたし」の出現に絶えず怯えなければならなくなる。

 つまりイコール法による「わたし」の定義は唯一絶対的な「わたし」を見定めるためのものではないのだと考えられる。むしろそれは集団への帰属を指向する。「わたしは日本人である」ということを自身のアイデンティティとするとき、それは自分が「日本人」という集団の一員であることを確認し、「わたし」をその集団の持つ属性と一体化させるのである。つまりその場合の「わたし」は「社会的な“わたし”」であると言うことができるかもしれない。自己紹介やプロフィール欄に記述されるのはまさにこの「わたし」である。

 それに対してノットイコール法は個としての「わたし」の特定を目指す。この方法では集団や属性への帰属よりも、むしろその内部における自身の独自性こそを「わたし」の定義とする。イコール法では「わたしは日本人である」が自己のアイデンティティとなるが、ノットイコール法ではたとえば「わたしは日本人だが(大半の日本人とは異なり)日本語が喋れない」ことにこそ「わたし」を見出す。ただしそれが「日本語が喋れない日本人」という集団への帰属を指向するならばイコール法による「わたし」と同じである。ノットイコール法では「わたし」と等しい条件を持つ他者が集団内に存在する限り、唯一の「わたし」に到達するまで、ひたすら他者との差異を求め続けなければならない。

 そう考えていくとノットイコール法による「わたし」の定義はかなり特殊なもののようにも思えるが、しかし我々は日常的にそれを行っている。とくに小数の集団における自身の役割や存在意義について考えるとき、我々は無意識のうちに他の構成員にはない自身の特殊性を探している。イコール法が集団や属性に自己を一体化させることで「わたし」の安定を図るのに対し、ノットイコール法では他者との違いこそが「わたし」を揺るぎないものとするのだ。

 ノットイコール法による「わたし」の例のひとつとして、絵や文章といった自身の創作物のなかに見出す「わたし」が挙げられるだろう。自分の表現のなかに感じる「わたし」の存在は、何かの集団や属性へと帰属する「わたし」とはあきらかに違う。それは他者の表現や標準からの差異として認識される。表現活動において個性というものが重視されるのは、このことと関係するのだろう。逆に標準からの逸脱が許されず、ひたすら基準への合致のみが価値を持つ場合は、そのことで得られる属性(「絵が、文章が、歌が、ダンスが“上手い”」)の獲得こそが目的にされているのだと考えられる。ある表現が上手くなる(=標準からの逸脱が少なくなる)ことで獲得される属性は、イコール法の定義による「わたし」へと繋がる(たとえば「わたしは絵が上手い」=「わたしは絵描きである」といったふうに)。その場合の「わたし」は社会的な「わたし」として通用する「わたし」だ。それとは逆に表現の“なか”に見出す「わたし」は、自己紹介やプロフィール欄には記載不能な種類の「わたし」なのである。

規定される「わたし」と表象される「わたし」

 ノットイコール法による「わたし」の定義は唯一絶対的な個としての「わたし」を指向する。しかし「唯一絶対的な個としての“わたし”」ということ自体がなかなか深い問題を孕んでいる。それについて哲学的に考察していけば果てしないことになってしまうだろう。そこでここでは敢えて即物的に考えてみることにする。つまり社会生活を営んでいく上で「個としてのわたし」を特定する方法はいくつか存在する。たとえば犯罪捜査などでも使われる指紋やDNA鑑定などがそれに当るだろう。ではそこで導き出される「わたし」とノットイコール法によって見出される個としての「わたし」はどう違うのか。少なくとも自分の場合、自身の表現のなかに「わたし」を見出すように自分の指紋の文様に「わたし」を感じることはまずない。DNAの配列を見せられても同じだろう。それは行政府から機械的に割り振られたマイナンバーとさして変わるものではなく、個人の識別には役立っても、そこに「わたし」を感じるのは困難なのだ。

 しかしたとえば自分の顔ならどうだろうか? 顔認証は指紋認証と並んで最近のスマホではロック解除の標準手段である。精度としては顔認証よりも指紋による識別のほうが高そうに思えるが、しかし「わたし」への親和性は指紋よりも自分の顔のほうがはるかに高いように感じる。それは何故か? ひとつは指紋による個人の特定が日常生活においてはせいぜいスマホのロック解除くらいに留まるのに対し、顔の見分けは他者の識別手段としてそれこそ生まれて間もない頃からずっと行い続けているからではないだろうか。ただし他人の顔の識別とは異なり、自分の顔は鏡や写真を使わないかぎり見ることができない。鏡に映った自分の顔や写真のなかの自分の姿に違和感を覚えるとき、それは自分の抱いている「わたし」のイメージとの違いに戸惑うのだろう。それに対して自分の指紋を眺めて「わたし」のイメージとの相違に当惑することはない。それは指紋によって判別される「わたし」が外から規定される「わたし」であるのに対し、自分の顔は他者からの識別記号であるのと同時に、自身の内にある「わたし」を表象するものだという意識があるからではないか。

 たしかに人間の顔にはそのひとが送ってきた人生の痕跡が刻まれているのかもしれない。もっとも顕著な例は加齢による容姿の変化だ。顔の皴に苦労が刻まれると言われたりもする。さらに表情によって感情が表現されるように、人相がそのひとの性格を表すともされる。もちろんそこには指紋による個体判別のような正確さは見込めないが、しかし我々は指紋やDNA鑑定で特定される「そのひと」とは違った意味の「そのひと自身」が人の顔には表れると考える。他者からの識別記号=象徴性ではなく、人生の痕跡性や内面の表象性。個体としての「わたし」の特定に役立つのはその前者だが、自身の表現のなかに見出す「わたし」と親和性を持つのは後者によって表される「わたし」のほうだろう。外から規定される「わたし」ではなく、内から表象される「わたし」。その場合の「わたし」とはいったい何なのか。

筆跡のなかの「わたし」

 ところで指紋やDNA鑑定と並んで、筆跡も犯罪捜査や法的な場で個人を特定するために使用される手段のひとつである。その精度のほどはわからないが、筆跡が個人を特定するのに利用できるという事実自体が興味深い。その場合に特定される「個としてのわたし」は指紋によって判別されるものと同じだろうが、同時に筆跡は教養の程度や性格など「人となり」も表すとされる。たしかに先天的に付与される指紋とは異なり、後天的に形成される筆跡には人生の痕跡や人柄が反映されるのかもしれない。実際、自分は幼稚園児並みに字が汚いのだが、この粗雑で幼稚な筆跡は自分という人間の幼稚さやイーカゲンさをよく象徴しているように思える。そしてもし自分が幼い頃から整った字が書けるよう自制し訓練を重ねてきていたならば、おそらく単にきれいな字が書けるようになっていたというだけでなく、もっとまともな人生を送り、ここにいるこの「わたし」自身がもっとちゃんとした人間になっていたような気がしてならない。その意味では筆跡には自分という人間の形成要素が凝縮されているのだとも言える。

 しかし身体の一部である指紋や顔と違って、筆跡は変更が容易である。自分の送ってきた人生をいまさら変えることはできないが、整ったきれいな字ならばこれから訓練を重ねれば書けるようになる気がする。では「整ったきれいな字が書けるようになったわたし」は今ここにいる「わたし」とは別の「わたし」なのだろうか? しかし五十過ぎてから訓練してきれいな字が書けるようになったからと言って、既に凝り固まってしまった人間性までがいきなり変化するとは思えない。筆跡の変更と人間性の変化では難易度が釣り合わないのだ。ならば筆跡のなかに表れる「わたし」とはいったい何なのか?

 他人の筆跡をトレースする藤本なほ子の過去の作品は、まさにこの問題を扱っていたのだと考えられる。他者の言葉をその人の筆跡で書き写すことは、その人物の「わたし」を追体験する行為であると言える。その行為の意味するところは理解しやすい。しかし問題はその結果として生まれる「トレースされた筆跡」だろう。そこにはいったい誰の「わたし」が籠められているのか? 書かれている言葉自体は素材となった筆跡の主によるものなので、それを読むものはそこにオリジナルの筆跡の持ち主の「わたし」を見ることができるだろう。しかし手書きのトレースにはオリジナルからのずれもある。しかも展覧会ではそれが藤本の作品として提示されている。ということはその筆跡のなかには書写者兼作品の作者である藤本の「わたし」も含まれているはずだ。つまり一つの筆跡のなかに複数の「わたし」が混濁している。

 そして今回の個展である。先にも書いた通り今回の藤本の作品は他者による言葉や筆跡を素材としていない。材料となるのは作者自身の夢日記である。「わたし」の考察において夢はやっかいな代物だ。現代の科学でも夢についてはまだわかっていないことが多いという。睡眠中に見る夢が自身の無意識を反映したものだとすれば夢こそが真の「わたし」の投影であると言えるのかもしれないが、意識主体の「わたし」から見れば自分のコントロールの及ばない夢はとても「わたし」であるとは思えない。そんな夢を夢うつつのまま記述した夢日記とはいったい何なのか。内省の記録か、オートマティスムの創作物か、はたまた無意識の客観写生か?

 さらに藤本はほとんど忘れていたという夢日記の内容を再度暗記し、目を閉じて、左手で、鏡文字によって書き写している。それらの処置にはオリジナルの夢日記に含有されている(かもしれない)「わたし」をろ過しようとする意図が見て取れる。目を閉じる、利き腕でない手を使用する、鏡文字で書くといった作業は、通常のスタイルで書いた場合にその筆跡のなかに表れてまう「わたし」を排除するために行われているのだろう。いちど暗記してから書くのは、オリジナルの夢日記に含まれる「わたし」をそれを再現する現在の「わたし」と混濁させるための措置なのだと考えられる。その結果として生まれた筆跡に、はたして「わたし」は含まれているのか? 含まれているとすれば、それはいったいどの「わたし」なのか?

「わたし」と「作品」

 執拗に鏡文字で書かれた藤本の再現夢日記を見るものは思うかもしれない。「なぜここまでしなくてはならないのか?」と。ここで重要となるのが、それらが藤本の作品として提示されていることである。しかしこと藤本に関しては「作品」の概念も自明なものではない。たしかに画廊で開催される個人名を冠した展覧会に展示されているのだから、それは「作品」であるに違いない。しかし他の多くの作家の制作物とは異なり、藤本の作品には「これは藤本なほ子の作品である」と断言することを躊躇わせるような何かがある。おそらくそれは藤本の作品における「わたし」の混濁と関係するのだろう。つまり作者の「わたし」が籠められたものが作品であるという通常の「作品」のイメージに微妙に狂いが生じるのだ。

 考えてみると藤本の作品は常に「なにか」になってしまうことから逃れようとしていたように思える。他人の筆跡をトレースした作品は、オリジナルのなにか(ノート、日記、手紙など)から半ば変容し、半ばはそこに留まっている。それを見るものはオリジナルの素材を認めるべきか、それとも藤本の作品をこそ見るべきなのか、戸惑いを覚えることになる。読めない文字による作品は、言葉の機能を放棄しつつも、なおかつそれが言葉である限り解読の可能性を持つという点において、見るものを宙ぶらりんの状態におく。

 2009年の個展以来、断続的に自分は藤本の展示を見ているが、違和感というか「これは違うのではないか?」と思ったことも何度かあった。ひとつは筆跡をトレースする支持体として美術作品に使われるような高級な厚くて良い紙が使われ始めたときであり、もうひとつは専門家による劇的な照明が展示に使われたときだ。紙のほうはともかく、照明に関しては今回の展示でもまだ若干の違和感が残った。思うにそれらに対して自分が否定的な見解を抱いたのは、そのことによって藤本の作品が「なにか(=美術作品)」に見えてしまうことを嫌ったからだろう。しかし作者としてもそれは決して美術作品然とさせるための措置ではなかったに違いない。むしろそれらは作品を自分が見知らぬ異物へと変貌させるための装置だったのではないだろうか。「なにか」になってしまうことから逃れること。その点において藤本の制作の態度は一貫している。

 では、なぜ「なにか」になってはいけないのか。それは「なにか」になってしまうと、そこにずれがなくなるからだ。そして「なにか」とのずれのなかにしか藤本の表現はないのである。「作品」にならないことでしか作品になりえない作品もある。藤本の作品はまさにそれだろう。

 そして、それは“「わたし」ではないもの”との差異としてしかあらわれない「わたし」とよく似ている。そのどちらも「わたし」の、そして「作品」の謎にもっとも近接した場所にある「わたし」と「作品」なのだ。その二つの相似は、それらを追い求め続けることの意味を自分に思い起こさせる。それはいかなる意味にも着地することなく、あらゆる意味から遠ざかる無意味な探求のなかでしか見出すことができない、そんな種類の「意味」なのである。


*展示情報
藤本なほ子「わたしの遺跡を見学する a visit to remains of ʻIʼ」
会期:2021年3月22日–27日
会場:表参道画廊
住所:東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウムB02
URL:http://omotesando-garo.com/link.21/fujimoto.html

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