「絵画」とマテリアル―小山維子の紙の絵
2023年10月21日土曜日、調布で5回目の新型コロナウイルスワクチン予防接種を済ませた後、府中まで足を延ばしてLOOP HOLEで開催されていた小山維子の個展「In Molt」を見た。この作家の個展を見るのは、これが二回目である。前回、2021年にSprout Curationで見た「衝突/抱擁」では、出品作はすべてキャンバスに描かれた油彩画だった。今回の展示の特徴は、紙を支持体として描かれた作品のみで構成されていることである。
作品はフレームには入れずに、すべて壁に直貼りされている。紙の作品の直貼り展示は難しい。厚みがあり、モノとしての存在感の強いキャンバス作品と比べて、ペラペラの紙の展示はどうしても軽く見えてしまうからだ。展示されている絵のサイズも小さく、そのほとんどは長辺が30cmにも満たない大きさだ。点数もそれほど多くないので、住居用マンション一室ほどの広さしかないLOOP HOLEの空間で見ても、作品の展示されていない白壁の面積のほうがはるかに目立つ。ギャラリーのドアを開けて中に入った瞬間、そのあまりのあっけない感じに「なんだ、これだけのものだったのか…」と一瞬ガッカリしかけたくらいだ。
しかし、この展示がとても良かったのだ。一見するとスカスカで軽い展示にも見えるのだが、その場に身を置いてみると空間の緊張感が心地よく感じられる。作品の選択と配置に細心の注意が払われていることが理解され、見れば見るほどに味わいが増してくる。スカスカに見えた空間が、なんとも言えないような豊かさに満ちていることに気付くのだ。そして、そのとき自分が思ったのは「これこそまさに“絵画”的体験だな~」ということだった。
「絵画」という言葉は面白い(そして、難しい)。「絵画」の英訳はpictureだが、同時にそこにはpaintingの意味も含まれる。pictureは「絵」全般を意味するが、paintingはなによりもまず「paintされる絵」であり、そのイメージにもっともよく当てはまるのは、やはり油彩画だろう。絵画をそれが表象するもの(イメージ)と、キャンバスや絵の具などそれを組成する材質とに分けると、pictureは前者に、paintingは後者の意により近い。美しい景色を見て「絵画のような光景だ!」と嘆息する場合はピクチュアレスク(picturesque)なのでpictureの意だろう。それと比べると自分が言う絵画的体験の「絵画」はpainting寄りだ。しかしそれを「painting的な体験」と言い換えると意味が通らなくなるのでイコールではない。pictureとpaintingの中間、もしくはpictureでもpaintingでもないところに自分が感じる「絵画」は存在するように思われる。
これはもともとペインティングが日本固有のものではなく輸入物であることとも関係するのかもしれない。「絵画」という語にはpaintingとは異なる余剰の(または拡張した)意味が籠められている(より正確に言えば、籠めることが“できる”)。それは一つの定義に固定しない、意味のズレによってのみ表現される感覚であり、思想なのである。そしてこの国で活動するペインターや、ペインターに限らず「絵画」にこだわり、それをテーマとして制作をしている作家の作品のなかに、「絵画」の語の余剰の意味に当たるような要素や意識を見出すことがある。それはペインティングの本流である西洋からのズレでもあるのだろうが、ときとしてズレこそが物事の本質を穿つ役割を果たすのだ。「絵画」というpictureやpaintingとは完全に重ならない語を持つことは、絵やペインティングの本質に近付くことへのよすがにもなるのではないだろうか。
小山維子の絵の魅力も、そうした「絵画」の語の持つズレによる拡張性と重なるように思われる。紙を支持体とした絵はペインティングではなくドローイングであるという認識が一般的だろう。作者本人が今回の出品作は「ドローイング」ではなく「紙の絵」であるという発言をしているが、まったくその通りだと思った。通常の「ドローイング」のイメージとは少しズレるのである。しかし紙に水彩、パステル、色鉛筆などで描かれた絵は、油彩画のイメージの強い「ペインティング」ともまたズレる。そしてそのズレにこそ「絵画」性の源があるように思える。
そう考えると、出品作が通常のドローイング作品のようにフレームに入れて飾られるのではなく、むき出しのまま壁に直貼りされている理由もよくわかる。通常の紙作品の展示フォーマットに落とし込んでしまうと「ドローイング」との距離(ズレ)がなくなってしまうからだ。もろい素材である紙はキャンバスやパネルとは違って、そのまま壁に貼って展示するには適さない。しかしあえてキャンバスに描かれた絵と同じ扱いをすることによって、そこにはズレが生じる。支持体となる紙の種類も重要だ。描画用の「いい紙」を使って描いた絵はなく、小学生が使う工作用紙や、衣料品の型崩れ防止用の板紙など、本来は絵を描くためではない紙のほうがメインである。和紙に描いた絵もあるが、日本画用などのいわゆる絵を描くための専用の和紙ではないように思われる。紙のかたちは正方形のものが目立つが、それもドローイングよりもペインティングに使われることのほうが多い形状だろう。
その結果として、展示では必然的に紙の物質感(テクスチャー)に敏感にならざるを得なくなる。それぞれの支持体の紙に対して描画材がどのような付きかた(乗りかた)をしているかを見るようになる。その視線(意識)はドローイングに対するものというよりも、むしろペインティングの鑑賞でマチエールを味合う感覚と重なっている。紙に描かれたドローイング的な絵に、ドローイングではないペインティング的な妙味を見出すこと。そのズレにこそ自分は「絵画」を感じるのではないだろうか。
自分が小山維子の名を知ったのはTwitter(現X)のタイムラインで偶然見かけた彼女のデジタルドローイングによってだった。デジタルツールでは「イメージを作る」のは簡単でも、「絵を描く」のは難しい。「絵」を描こうとしても、その簡便性から気が付くと単に「イメージ」を作っているだけだったりする。しかし小山のデジタルドローイングは「イメージを作る」ためのCG制作とは対極的な、「絵を描く」ことそのもののように見える。交通機関利用中にiPhone内アプリで描かれるというその制作方法が関係しているのかどうかわからないが、簡単そうに見えて実はかなり稀有なことをしているように思われる。
小山のデジタルドローイングに感じる「絵画」性は、絵画制作における「筆の置きどころ」にある。絵を描く際、どこで完成とするべきか、その止めどきは重要な問題である。しかし、全ての絵においてその重要度は一様ではない。描く前から完成像が想定されているような絵では、それほど問題にはならないだろう。そうした絵よりも、「筆の置きどころ」のタイミングが作品の出来栄えを左右する絵のほうが「絵画」性が高いと自分は考える(事前に完成イメージが定まっている絵はpainting性よりもpicture性が強いのだと言える)。もうこれ以上は描けない、これ以上描くと絵が壊れてしまうというそのタイミングの見極め、その緊張感こそが絵画を「絵画」たらしめる独特の緊張を生み出すのだ。
しかしデジタルツールによる描画は、それとはまったく相容れない。「描きすぎた!」と思ったらundoしてやり直せばいいだけだからだ。描画の途中で分岐して、バリエーションを作ることも簡単である。「絵」になるギリギリの緊張感などとは、まるで無縁なのだ。デジタルでは「イメージを作る」は容易でも「絵を描く」のが難しいのは、そのためである。しかし小山のデジタルドローイングでは、それができているように見える。つまりそれらの絵に感じる「絵画」性は、ペインティングとのイメージ的な相似ではなく、painting(絵を描くこと)の本質がそこに見出せることにこそ拠っている。ここでもデジタルという材質や技法的な違い(つまりズレ)が「絵画」の本質を炙り出しているのだ。
ところで、「絵画」的体験は見るものに何をもたらすのだろうか? 「In Molt」展の展示を見ていて思ったのは、それは「豊かさ」なのではないかということだった。もっと正確に言えば「豊かさ」に気付くための鋭敏さである。緊張感に満ちた展示空間のなかで、工作用紙の表面に引かれたパステルの線の微細な厚みまでが感じられるような、その感覚。AIを始めとして、時代の潮流はただひたすら「便利さ」のみに向って突き進んでいるが、そのことで犠牲になっているものは「豊かさ」ではないか。もちろんそこで言う「豊かさ」とは、物を無尽蔵に使い捨てていく大量消費社会のそれではない。世界に潜み見過ごされている微細な感覚、それを味わい、楽しみ、愛しむこと。そうした「豊かさ」こそが、今もっとも軽んじられ、損なわれ続けているものなのではないだろうか。小山の紙の作品の「絵画」の感覚がもたらす豊かさから、そんなことをも考えさせられた。
*展示情報
小山維子「In Molt」
会期:2023年10月5日–28日
会場:LOOP HOLE
住所:東京都府中市美好町1-1-18 石川ビル202
URL:http://studioloophole.com/2023/09/oyama/