後醍醐龍五郎

小説を書いて遊んでいます。タイトルに★→フィクション。それ以外→雑談

後醍醐龍五郎

小説を書いて遊んでいます。タイトルに★→フィクション。それ以外→雑談

マガジン

  • かなり長期にわたり記憶に残りそうな記事

    いい記事だなあ、また読みたいと強く思った記事をここに登録します。

  • アマチュア作家「後醍醐龍五郎」について

    後醍醐氏についてのあれこれを説明します。

  • 短編の森

    短編小説。

  • 長く記憶に残りそうな記事

  • 国語教師

    都内の私立高校で国語教師をやっている人の物語。

最近の記事

フォローに関する雑談

札幌でジンギスカンを食べている後醍醐先生から絵はがきが届きました。 ↓↓↓ 以前は渋谷でバーを経営している林さん、Twitterで有名な深爪さんなどnote界隈で著名な人を次々フォローしていました。今はその方式をやめて、 「フォローされたら必ず僕もフォローする」 というやり方に変えました。フォローを外されたら僕も必ず外します。(笑) 従って、見て頂ければ分かる通り僕のフォロー、フォロワーの数は同じです。 フォローの数を少なく、フォロワーの数を多くすると「え?この人

    • ★山小屋通信(2)

      仙台市の郊外(正確に言うと仙台市ではない)で山小屋生活をしているポン太郎と申します。 我が家には電気がないため皆さんの家庭に当たり前のようにあるであろう冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、照明器具などはありません。車を使うときBatteryからスマホに充電するくらいです。スマホではほとんど通信せず、たまにKindleで本を読む程度です。映画も何本かダウンロードして保存しています。 秋になると太陽が夕方五時過ぎに沈んでしまうため、六時になると真っ暗です。やることがないため僕はさっさ

      • すき、に関する雑談

        札幌のススキノで豪遊している後醍醐先生から絵はがきが到着いたしました。 ↓↓↓ 自分の記事に「すき」を付けられるとうれしいですか? 僕の場合、うれしさ100%とは言えませんね。 ここには他のSNS同様、自分の存在を知らせたいため、記事も読まずに片っ端から新着記事に「すき」を付ける人がたくさんいるからです。一般家庭の新聞ポストに広告を投げ込む行為と同様です。 これはたいへん古典的なマーケティング手法でございます。決して不正ではありません。しかし、すきと言われて舞い上が

        • ★国語教師(44)

          僕は運動部の生徒に絶大な人気があるんですよ。理由は単純で授業中に居眠りしても僕は一切何も言わないからです。さあ寝ろ、僕の話は子守唄だよ、と。(笑) 彼らは毎日遅くまで練習してるんですよ。それぞれが何を目指しているのか知らないがとにかく一生懸命に部活をやっている。だから彼らには休息が必要だ。なので、僕の授業を休息時間と考えてもらって構わない。 このような考えがありますから、僕は居眠りしている部員たちに一切の注意をしません。 そもそも、授業をちゃんと聞いているふりをしてノー

        フォローに関する雑談

        マガジン

        • かなり長期にわたり記憶に残りそうな記事
          0本
        • アマチュア作家「後醍醐龍五郎」について
          24本
        • 短編の森
          29本
        • 長く記憶に残りそうな記事
          100本
        • 国語教師
          44本
        • 読書愛好会
          100本

        記事

          もりやす、なんば

          DeNAの南場という経営者はなかなか優秀でプロ野球のオーナーになるくらい、経済的に成功した人だが僕は彼女の倫理感覚について少々の違和感を持っている。彼女が参加した講演会で僕はその点を質問しようと思ったが場がシラケるのを危惧して質問をやめた。 そのときの質問は、「あなたが提供しているサービスにより、子供がいろんな被害に遭っている、その点をどう思うか?」ということだ。当時、DeNAがリリースしているゲームにより子供が犯罪に巻き込まれている点を彼女がどのように認識しているのか知り

          もりやす、なんば

          note株式会社の努力

          長野県にいる後醍醐先生からまた絵はがきが届きました。かなり迷惑ですが私も仕事なので仕方なく転載いたします。 ↓↓↓ 前回の絵はがきでnote世界の現状分析をすこしだけ行った。隣のハゲおやじの頭髪程度に、ごくすこし。 で、まあ、結論から言うと現状のnote世界はいずれ衰退する。記事でお金が取れない人々が大多数だから、いずれは放置民が大量生産されるのだ。人が来ないデパートのテナントと全く同じだ。 屋台村で場貸しをしてテナント料金で稼ぐというnote株式会社の目論みは残念な

          note株式会社の努力

          noteに関する所感

          長野県で行方不明になった後醍醐先生から絵葉書が届きましたのでご紹介します。 ↓↓↓ noteに記事を書きはじめて数年になるが感想としては「自社製品、あるいはサービスを買って欲しい」「文章を買ってもらい、お金を稼ぎたい」という、いわゆるプロの人が圧倒的に多いな、ということである。 もともとnote株式会社はそのような人に活躍の場を与えたいというのが設立コンセプトだと思うのでこれは当たり前。 だが、こうも思う、屋台村が屋台だらけで、売る人ばかり、買う人がいない。(笑)

          noteに関する所感

          後醍醐通信

          アマチュアの天才小説家、後醍醐先生からお便りが届きました。長野県で鹿を捕獲する活動をなさっているようです。 ↓↓↓ みなさん、長野県は好きですか?僕は大好きです。 ところで、 ↑↑↑ 先生のお便りが途中で終わってるんです。かなり心配です。熊に襲われたのかもしれませんね。 明日の原稿が届かない場合、捜索隊を長野に派遣する予定です。 ではまた。

          ★山小屋通信

          以前「山小屋生活」というタイトルで僕の生活に関する簡単な文章を書いた者です。その後、もう少し何か書いてみたいと思いました。なぜか? 暇なんです。(笑) すみませんがもう少しだけお付き合いください。 仙台市内に元妻が住んでいまして、別れた後も仲は決して悪くないんですよ。毎月一回、食糧支援してくれます。果物とか、お菓子とか。 彼女は僕の生活を詳しく知っていますので何が足りないか非常に良く理解できるんでしょうね。毎回総額二千円くらいのプレゼントですが僕は彼女の優しい気持ちを

          ★山小屋生活

          僕は65歳で定年退職し、わずかな年金で暮らす計画でした。退職金は1000万くらいでしょうか。できるだけ退職金には手を付けず何らかのバイトと年金で暮らそうかな、と。 サラリーマン時代からの夢がありまして、それは人里離れた山で暮らすことです。45歳のときに離婚し、二人の子供は独立したので同居家族はいません。 仙台市郊外に「山小屋10万円」という物件がありましたので早速見に行きました。敷地が200坪で小さな小屋が一つ。僕はこの土地が気に入りましたので購入しました。 一番近いス

          僕の履歴書(10)

          祖父への憎悪は祖父が病死したとき完全に消えた。今は懐かしく祖父の顔を思い出します。 祖母への憎悪は、祖母が脳卒中で身体不自由になったとき、かなり弱まった。母に対して感謝の気持ちを持って暮らしている姿を見て憎しみが限りなく弱くなった。 小学生の頃、台所に、皿に乗った卵焼きがありました。ん?これ、どうしたの?と母に聞いたら、母は何も答えませんでした。 翌日もその卵焼きがありました。僕はもう一度母に聞きました、これ?なあに? 母は苦い顔をして説明を始めました。祖母さんに出し

          僕の履歴書(10)

          ★極道学園(544)

          海上病院で過ごす毎日は食べて寝て、執筆して、海をながめる。たまに他者と雑談。実に単純で穏やかな日々だ。身体に開いた三つの穴は塞がりつつあり、今は痛みもほとんどない。寝返りするときチクチク痛むくらいだ。主治医の千葉先生は俺の頑丈な肉体を褒めていた。 昨日は直子先生が見舞いに来てくれた。園児たちの手紙持参だ。 「こうちょうせんせい、はやくよくなってね」「せんせいにあいたいです」「せんせいが、はやくよくなるように、かみさまにおいのりしてます」 俺は先生ではないのだが職員たちは

          ★極道学園(544)

          僕の履歴書(9)

          僕は31歳のとき、勤務先のボンクラ社長に引退を迫り会長に棚上げして、僕が社長になりました。小さなソフトウェア企業です。ボンクラ社長が積み上げた負債は一億以上。 僕がなぜこの会社の社長になろうと決めたのかという経緯はまたの機会に語りますが、まあとにかく、僕は赤字会社の社長になったのです。社員は五名くらいかな。 毎月毎月資金繰りがたいへんで、銀行との交渉など、いろいろ難儀な仕事がありました。父はお金で苦労している僕に度々適確なアドバイスをしてくれたのです。お金も貸してくれた。

          僕の履歴書(8)

          父に対する不満は、祖母が自分の妻(僕の母)を日常的に虐めているのに一切その問題を解決しようとしないこと。まあ夫婦間ではいろんな会話があったと思いますよ。でもそれは僕ら子供には伝わってこないから分からないことです。 もう一つ。両親の寝室には父が銀行から貰った勤続25年の表彰状が誇らしげに飾ってあったのです。幼い僕はそれを見るたび、「同じ会社にずーっといる、無能な人」と思っていました。僕がなぜそのような思想になったのか、きっかけは全く覚えてないのですが、父は無能、これが僕の評価

          僕の履歴書(8)

          僕の履歴書(7)

          母は昭和初期生まれの女性の中では比較的長身。色白、美人。母を見た男性の大半は「綺麗な人だな」と思ったのではないか。 一方の祖母は低身長、色黒。容姿はごく普通。 祖母はもしかしたら母の容姿に嫉妬していたのかもしれないなあ。 あとは相性ですね。双方、たいへん気が強い、簡単には引かない。 僕は幼少期、そのようなことを想像することができませんでした。ただただ、祖母を憎んだ。無知が憎悪を生み出したと言えるかもしれません。 さらに言えば母は祖母がカチンと思うようなことをいっぱい

          僕の履歴書(7)

          僕の履歴書(6)

          中学生のころ祖父が病死。二十歳のころ祖母が脳卒中で身体不自由。僕が家庭内で憎んでいた人々にいろんな変化が生じました。その変化に呼応して、僕の、彼らに対する憎悪も弱まりました。母に対して完全に従順になった祖母を見て、僕は一定の満足感を得ました。 残る憎悪対象は父親です。僕は父を軽蔑していました。最も大きな理由は家庭内の冷たい戦争、つまり、祖母による母親への陰湿な虐めを放置したこと。家長として、家庭内平和維持に関する努力が全く見られない。僕は父に強い不満を持っていました。 帰