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制作を理論で問うことに寄せて――あなたの健やかなアートライフのために(2)

筆者の、アート制作に携わる人との付き合いから、制作行為にとって理論とはどのようなものかを考えます。絵画、イラスト、文芸問わず、広く創作活動をしている人のために。
この(2)では制作現場ではアーティストは主体というより媒体になってしまっているという見地から、アーティストは媒体として何を発見しようとしているのかを考えています。
見出し画像は変身をイメージしています。魔女っ娘が変身しているときの背景だと思ってください。
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《主体を媒体化する、あるいは「テクマクマヤコン」》

アーティストにとっての「自分」を理解するのに仏教とユング心理学のおおまかな理解線を敷いてみたが、今度はその線からアーティストがその制作行為において「主体」として立ち上がっているのかどうかについて考えたい。先に答えを記しておくと、それは「主体」というより「媒体」であると表現した方が的確なのだと宣言しておく。

仏教でもユング心理学でも、自分が当然のものとして把握している自分というもの、もしくはその輪郭、つまりアイデンティティは、所詮は見えているだけの領域でしかないと告げる。その奥にある見えていない領域の奥行や深みに比べれば月とスッポンなのである、と(ざっくり言えば)考えられているのは共通している。例えば仏教には瞑想という修行がある。あれはつまりこの現実世界を〝所詮は幻想である〟という事実に還元しようとしているのである。「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言い方があるが、あれは火の熱さも所詮はこの世の幻しに過ぎないのであって、全てが幻想であるという視点を可能にする仏の場を確保しさえすれば、火の熱さも意味をなさないということを示している。他方でユング心理学の方に目を向ければ、無意識の領域の反映として意識的な事柄を把握しようとしている。例えばユングの有名な分析に掛かれば、20世紀後半に掛けて世界中で観測された未確認飛行物体は、人類全体が物質文明の環境下で送る精神生活においてその全体性(統合性?)を失調しつつあったことの、無意識の側からのメッセージだったのだと解釈される。つまり人類の外側からの使者としてイメージされる何者か、それが未確認飛行物体として具現的に現れていたのだ、と。――ここまで書いてみると、人間の意識の奥底もしくは深部を、人間が操作可能な領域であると了解することは困難であることを納得できるのではないだろうか。つまりそこは常に「自然」と呼んで差し支えないような場として了解することができるのではないか。「自然」はわたしたちの手から絶えず、操作不可能なものとして逃れていくのだから。

アーティストの制作現場に〈自己発見〉の欲求を書き込んだわたしたちにとって、アーティストが向き合おうする「自己」が、自然界に属するものかもしれないということに納得してみると、そこには職人というよりもシャーマンのイメージを当て込むことの方が正確であるかのように思われる。ここで前提となるアーティスト像は、技術的に上手いから云々という話や、再現芸術と呼ばれるジャンルで活躍するプロの職人のことではない。それではアール・ブリュット作家ばかりではなく幼稚園児が描く素直な描画を評価することはできない。それは技巧的なものではないのだ。わたしたちがここまで考えてきているアーティスト像というのは、いわば潜在性の表出を賭け金にしている制作行為を、〝させられてしまわされる〟ような人間性を有する存在なのである。

しばしば、芸術作品の意義の説明に「コミュニケーション」という言い方がなされることがある。それは人と人とを繋ぐという意味での「コミュニケーション」なのだろうか? それはしかし芸術作品がそこにあることで展開される空間性のいち側面しか説明していない。それにそのレベルでの「コミュニケーション」であれば、それが芸術作品だからこその意義をカバーしきれない。芸術作品が提供する場において生成される「コミュニケーション」は、むしろ制作行為のなかで発生したアーティストとその「自己=自然」との「コミュニケーション」の記録およびその痕跡なのだ。まず第一に、そこには〝作者としてのアーティスト〟と〝自然としての自己自身〟との対話が描き込まれている。部外者としての鑑賞者は、その当事者としてのアーティストに共感すること、いや、併走していくようにして共感を立ち上げていくことによって、「コミュニケーションとしての芸術作品の鑑賞」は成立することになる。芸術作品の意義として唱えられる「コミュニケーション」とは、そういった類いの「コミュニケーション」なのだ。

「自己内対話」という言い方がある。それはアーティストならずとも人間心理の傾向のひとつだろう。「自己内対話」をもじってアーティストの生態を素描するのなら、むしろ「自己外対話」の方が適当だ。しかしこれではふつう言われるところの自他コミュニケーションにしか読めない。なのでより正確を期せばこうだ。「自己外‐内‐対話」。もしくは「自己内‐外‐対話」でも意図させたいところは同じかもしれない。なにせそこでは自分の内側と外側とが、騙し絵的に地続きとなっているかのように、ある段階で状態反転してしまうのだから。自分が外側に表現したものの裡に、自分が表出してしまったものを発見し、それと向かい合う。その点から、アーティストとその作品の関係は、対話しなければならない他者としてよそよそしくもありながら、自分でも知らなかった自己の秘密を開示してくれる母親として親しみあるものでもある。作品とは、アーティストにとって自分よりも自分に近い、自分ではない自分、すなわち他者なのである。精神分析学者のジャック・ラカンの言葉に「外密性」という概念があるが、アーティストにとっての理想的な作品は、そうした外部でありながら内密なものであるような自分、ひいては人間存在の深部を告げ知らせてくれるような何かであって欲しくある、ということになろう。

自己の深部は自分に属していながら自分に属していない。意識と無意識の関係は、それが意識のノートには書き込まれていないにも拘わらず、それが他人からコメントを指摘される可能性に開かれているような記述なのだ。いわばそれは書かれていないという仕方で以て意識のノートに書き込まれている。「きみはそれを書いていないじゃないか! 知らないはずがないだろう」。意識のノートというよりも存在のノートと言った方がいいかもしれない。「自分」も「意識」も「自己」も「主体」も、それらはある存在の側面を描出する言い方なのだから。要するに「存在」という言い方でまとめられるまとまりが、わたしたちの輪郭の全体を包括する言い方となる。

ここまで素描してきたアーティストの制作構制(構制:ある一定のルールとパターンが動作レベルで身についてしまっていること。身体化されている制度)から、アーティストが制作の現場で立ち上げているのは「主体」ではないという理解を引き出せるのではないだろうか。というのも、彼が制作の場で「主体」であろうするのならば、彼が表現するものは単に「企図されたメッセージ」程度でしかなくなる。それは単に彼が表現したかったものに過ぎなくなる。すなわち、剰余の部分としてはみ出てしまっているものが描き込まれているという可能性がそもそも想定されていないのだ。そこには制作のプロセスのなかで体験するものとしての〈自己変容〉への目配せがない。 〈自己変容〉はアーティストにとって死活であるはずだ。なぜなら、それは自分が感じた違和感を回収するということだからである。違和感の感得から回収の流れにおいて、「主体」はなんらかの変化を経ずにはいられない。来るべき未知との遭遇において、彼がまったくの素面でい続けているというのはありえない。わたしたちが描くアーティスト像においては、制作行為は自分固有の違和感と共にあったはずだ。違和感というのは現実感覚に宿る、いわば(性別違和ならぬ)〈現実違和〉の感得であり、そこを原稿や画布のうえで深掘りしていく作業こそ、わたしたちが深掘りしてきたアーティストの制作構制の実態であったはずだ。その場面において「主体」は「主体」として立ち上がりきることができない。素面の主体は何かへと変性するはずだ。先述したように、それが「主体」ではなく「媒体」なのである。

「媒体」というのは「あいだに立つもの」のことで、制作行為におけるアーティストの在り方へと焦点化してみれば、作品へと「自己」の深部における「自然」からメッセージを抽出する存在であることを表現する。それが〈自己表現〉であると言い切れないのは、アーティスト自身が「主体」ではなく「媒体」になっている状態であるからで、そこでは伝えたい何かを抱えているような「自分」は邪魔にさえなる。こう言ってよければ、伝えたい何かを表現しようとすることは写生ではない。写生はたんなる転写ではない。写すことは己れを通して・介してなされるとはいえ、己れをコピーするように写すことなのではない。写生というのは、すべての作品がアーティストの自画像であるという立場においての、アーティスト自身の生(現実でも可?)の本源を写すという意味である。写すべきは生(Live)であって我(Ego)ではない。あるいは我もまたときに生を映してしまうのかもしれないが。アーティストは己れの生からリアルを汲み取るのだ。そのとき意識的主体は抹消とまでは言わないが、弱体化し、代わりにシャーマンが如き存在へと変性し、無意識的媒体が筆を執ってしまっている。これが、「主体」から「媒体」へ、ということの内実なのだ。


《深部が顕現する、あるいは「化身的自己同一性」》

わたしたちは、大抵の場合〈ひとつごと〉として認識しているものを、その都度アスペクトおよびパースペクティブを変えて表現してきた。「自分」という言葉だけでも「意識」「自我」「自己」「主体」「存在」「自然」、はたまた小宇宙という言い方さえした。そこまでこだわってきたのはひとえにそれが、わたしたちが自覚していない豊穣な価値を有しているということをどうにか表現しようとしてきたからである。それらは人間における「自分」が人間界のものであるという理解から、それが実は自然界に属するものとの繋がりを有したものであるという了解を導こうとするためのロジックなのであった。図式的に言えば〔『意識・自我』‐『後意識・自己・前無意識』‐『無意識・自然』〕という連環を描ける。もう少しすっきりとしたものにすれば〔『自我』‐『自己』‐『自然』〕となる。言うまでもなく、「自我」の方が人間界で、「自然」の方が自然界ということになる。
冒頭でのミナコさんの発言を再び引いてみよう。

「つまりね、あたしたちは現実を生きているわけだよ。その現実のなかで違和感を覚えてしまう。その違和感を言語を通して作品にしていく。自分が感じた違和感がその作品にうまく表現できたときに、そのときにリアリティが立ち上がるんだ」

アーティストの欲望が、自分の現実に感覚的に立ち現れている違和感の正体を発見しようとすることにある、とわたしたちは捉えた。あるいはそれはあくまでも〝仮り置き〟なのかもしれない。とはいえアーティストが制作行為をするとき、そこに何かが現れていると捉えるのは、その制作に、その作品に、驚き、ときに慄けるような芸術家としての健全さを表現するのには相応しいはずだ。

「アーティストの欲望」とわたしたちは留め置いたばかりだ。同時に、その手前では「媒体」であるとはどういうことなのか、ということについて掘り進めたばかりだ。くだんのミナコさんが言うように〝言語を通して〟わたしたちも考えている。「アーティストの欲望」を、わたしたちは〝アーティストが媒体である〟という見地からまた深掘りしていこう。

欲望というのは「主体」に属する。制作する「自分」の内部にあると感じられるものだ。しかし、「媒体としての自分」と言うときには、そこで感じられる欲望が自らのものではないようなものとして理解される。例えば憑依のように、何かが「自分」を通して欲望しているのを感じる――そのように記述した方が的確であるような消息がある。例えば母胎に胎児が蠢くように、動作の主語が純粋に「自分」に掛かってくるのではなく、何かと共に生きているような、何かに駆り立てられて〝しまわされている〟ような感覚。そして現実。リアリズム。欲望が「主体」に掛かってくるのだとして、「媒体」において発現している欲望は何か。それは「欲動」なのだ。何かに衝き動かされて行動する、という言い方があり、それをそのように言わしめる感覚的な現実がある。「欲動」。

「欲動」とは「自分」ではなく何かが主語になっている。例えば英語で「雨が降る(It rains.)」というときの〝 It 〟のような、〝何か〟が、アーティストの「自分」を通して顕現するのである。それはやはり「自分」から「自然」へと通じる回路の存在を告げていて、逆から言えば、「自然」から「自分」へと通じる通路の実在を実感させるものなのである。

ミナコさんの発言に戻れば、違和感と向き合うことが秘鑰になる。その時点では感覚はあくまでも、「自然」に通じるかもしれない部分的な感じという意味で、「患いの感じを覚える」とでも表現しえるような、いわば〈患部感覚〉に留まるのかもしれない。しかしその違和感は「欲動」としてのメッセージなのであって、その「欲動」によって衝き動かされて制作行為に向かい、喜望峰が如き〈自己発見〉の条件になるのが、自身の〈深部感覚〉を伴って/に向けての制作という一事に掛かっている。深部というのはもちろん、界面として『自我‐自己』の奥底にある、深界としての『自己‐自然』のことである。以上の違和感の感得から深部感覚への抵触を伴う(単に結果であるところの作品があればよいのではなく)一連の制作プロセスを、〈欲動顕現〉と名付けられるだろう。そこでは媒体としての「自分」が主体的・能動的にというばかりでもなく、受身的・受動的にというばかりでもないような仕方で以て、いわば「主体的であるかのように行為させられてしまっている」あるいは「そうせざるをえないにもかかわらず自由であるような行為」としての〈中動態〉的な姿勢で以て制作へと取り組んでいるのである。

《アートライフ・オブ・アーティスト、あるいは「わからないでいることの倫理」》

ここに至るまでに確認してきた議論を検証するために、現実の深部を指向する者たちの証言を検討してみることにしよう。

「自己を、もっともよく理解しているのは自分である、と思うのは、一種の幻想に過ぎない。むしろ、人間にとって自己とは永遠の謎とほとんど同義であり、生きるとは、己れという解明不可能な存在に、可能な限り接近しようとする試みだと言った方が現実に近い。それが現実であるならば、自分よりも自分に近い他者という存在も空想の産物ではなくなる。」(若松英輔)

「私にとって創作活動の表現で重要なことは、悲観的に人間を描写することではなく、人の複雑で神秘的な意識や夢に迫り、日常的に埋没している自らの潜在的意識と出会うことである。人間の無意識には、一貫して険悪な重低音とも言うべきノイズが流れている。その重低音に耳を傾けるためには、非日常的な意識が生まれている場所に到達しなければならない。そのとき見ている夢をいかに描写できるかという点が僕の表現には不可欠だ」(デヴィッド・リンチ)

「エンディングを考えて映画を作ったり、誰かに語ってもらうために絵画を描いているのでもなく、自らの潜在的な感覚や意識と出会うために作品制作しているのだ」(デヴィッド・リンチ)

とくに、わたしたちは次の証言を気に入る。

「美しい絵画や美しい彫刻を実現するために私は作ったりしない。芸術は見るための手段にすぎない。どんなものを眺めても、一切が私を乗り越え、驚かせるので、自分が何を見ているかということが私には正確にわからない。あまりに複雑なのだ。だから見えるものを少しでも理解しようと思えば、何も考えずに試みなければならない。まるでレアリテ[リアリティのこと:引用者注]というものはいくら幕をめくってもたえず幕の後ろに隠れているようなものだ。幕をめくるとさらに別のものがあらわれる……つねに別のものがあらわれる。それでも私は、毎日進歩しているという気がする。錯覚かもしれない。しかしそういう気がすればこそやれる。まるで生命の核心をいつの日か捉えうるはずだといわぬばかりにね。そこで《もの》が遠ざかることを知りながら続けているわけだ。私とモデルの間にある距離はたえず増大する傾向をもっている。近づけば近づくほど《もの》は遠ざかる。それは鼬ごっこのようなものだ。」(アルベルト・ジャコメッティ)

 
おおむね、補足はいらないだろう。アーティストが己れに隠されているかのようにしてある、現実において感覚している何かを発掘してみようとする姿勢を解説しているものとして、上に引用した証言を了解することができる。発掘という言い方を用いたが、それは正しく造形なのである。ドーナツのイメージを参照すれば、制作行為というのは穴を見ずに、輪っかを作ることなのだ。しかし穴をまったく無視するのではない。ドーナツには穴が必要である、とすれば、ドーナツを作るためには穴に注意を向けてしまうということもある。しかしそれはよろしくない。アーティストの制作というのは穴の存在をどこかで感じながらもその穴への縁取りを作ることなのだから。見ることと感じることは違う。そして穴とは、上に引用したジャコメッティの証言で言えば、《もの》なのだ。

ジャコメッティが言う《もの》とは何か。それは同じくジャコメッティが述べている「自分が何をみているのか」ということのわからなさを裏打ちする概念である。

エマニュエル・レヴィナスという哲学者がいる。彼は芸術の基本的な役割を「対象そのものの代わりに対象のイメージをさし出すことである」と述べる。どういうことか。わたしたちは「主体」の名の下に、対象と呼ばわることのできる事物を、それが〝どのようなものであるのか〟〝どういった用途が考えられるのか〟といった実用性の視線で以て意味化し、概念化する、そのことによって、それらを親しみ深いものとして了解する。そうした視線で以て眺められる事物的対象は、一個の主体に帰属することで、それが対象そのものであることをやめ、対象のイメージへと身分をやつすことになる。つまり、それは主体にとっての有用性という意味によって脚色されたものになるのだ。その意味で対象であるはずのイメージは非対象という身分を名受けることになる。つまりイメージ化の原則により《もの》は《もの》であるままには、わたしたちの現実には現われないのだ。

ジャコメッティが「見る」ということに驚くのは、レヴィナスが言うところの非対象的なものであるイメージと対象そのものとしての事物との、弁証法的連環を思い描くとよい。弁証法的連環というのは要するに、ジャコメッティが証言しているところの「進歩」のことで、それというのは彼が「レアリテ」と記している事物のリアリティを、見るというそのことによって《もの》を覆っているヴェールをまくるように更新し続ける営みから、常に新たな《もの》との距離感に触れていると感じるものを指し示す。――この感じること、それもまたリアリズムであるということは言を俟たない。ジャコメッティはまた次のような証言を先に引用したくだりの後に続けて発言している。

「仕事をするごとに私は一時もためらわず、前日にやった仕事を壊す心づもりができている。日毎に私にはさらに遠くが見えるという感じがするからだ。本当は私は仕事をしている間に自分が感じる感覚のためにしか仕事をしていない。それに後で、もっとよく見えれば、仕事を離れたときに現実がいささか違って見えれば、結局のところ、タブローにあまり意味がなくとも、タブローが壊されても、私自身はともかく得るところがあったわけだ。新たな感覚を、これまで感じえなかった新たな感覚を私は得たのだから。」(アルベルト・ジャコメッティ)

古代ギリシャの哲学者ソクラテスの哲学公理である〈無知の知〉という姿勢がある。その公理は自分が何も知ってなどいないということを知っている(ゆえに知ろうとする)――ということを含意している。これはアーティストの制作態度にも十分適用させられる。アーティストはわからないのである。「自分」というものも、「自分」を制作へと駆り立てる何かについても。そして「自分」が何を制作してしまったのかさえ。彼の作品すら彼にとっては最も近しい謎なのだ。人と人はわかりあえないと言うときの自他の境界が断絶しているように、アーティストとその作品のあいだにおいても自他関係が見出せる。むしろ自分が鑑賞者に向けて自らの名を署名可能なものとして造形してしまったがゆえに、それは「自己」の外部に立ってしまっているとも言える。いわばそれは自分の内部から汲みあげたものでありながら、自分の外部にあらしめたことによってよそよそしくなってしまっている。上に引用した若松英輔の証言は、そうした「自分よりも自分に近い他者」の実在を告げている。さらには同じく上に引用したデヴィッド・リンチが証言している〈自己発見〉もまた、ソクラテスの哲学公理である〈無知の知〉込みでのアーティストのアイデンティティを表現したものとして了解できるだろう。

ボードレールの日記の冒頭に、次のような一節がある。「神が存在しないとしても、宗教は、依然として尊いものであり、浄いものである。/神は君臨せんが為には、存在すら必要としない唯一の存在である。」〔『火箭』(Fusées, 1887))わたしたちは詩人ボードレールの赤裸な告白に、芸術制作の実像を結ぶことができる。ジャコメッティが《もの》と言ったそれを、アーティストは追い求める。あたかも、青い鳥を探すチルチルとミチルのように。チルチルとミチルと、アーティストが違っているのは、青い鳥はチルチルとミチルに見つけられたものの、アーティストが探し求める《もの》は影としてしか現われないということだ。ボードレールが宗教をその根拠としての神の実在抜きにして、その尊さを持続させえると書き記したように、アーティストは芸術をその根拠としての《もの》の実在抜きにして、その至高性を表現するのだと信じているに違いない。あるいは、信じていなくとも、制作せずにはいられない。

以上を踏まえて、わたしたちはアーティストの芸術公理を、半ば戯れに宣言してみることにする。

非知の知――アーティストにとり、《もの》が知ること能わざりし対象なのだと知りながら、それゆえにこそ、それに対して存在としての輪郭(造形)を与えようと試みるために、彼は制作を行う。


<続>


参考資料
・アルベルト・ジャコメッティ『私の現実』矢内原伊作・宇佐美英治編訳(1976)
・エマニュエル・レヴィナス『レヴィナス・コレクション』合田正人編訳(1999)
・エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳(1996)
・カール・グスタフ・ユング『空飛ぶ円盤』松代洋一訳(1993)
・映画『デヴィッド・リンチ:アートライフ』パンフレット(2018)
・藤田一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する』(2016)
・向井雅明『ラカン入門』(2016)
・若松英輔『小林秀雄 美しい花』(2017)


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