見出し画像

【意志のために意志を捨て去る】喪神状態のススメ

どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。今回は小説家・五味康祐の時代小説『喪神』を取りあげます。この小説では夢想流という剣術が描かれているのですが、その流派では意志よりも本能を重視するのです。これは欲望を制する克己や勇気などを否定するもので、その点で意志と自由と幸福とを結びつけがちなわたしたちには意外なものだと言えます。この記事ではそんな夢想剣の実態を掘り下げてみます。

この記事で取りあげている本

この記事に書いてあること

  • 小説家・五味康祐の処女作である『喪神』は時代小説であり、剣豪小説である。そこで登場する妖剣・夢想剣の奥義では、克己や勇気、努力などの「意志的なもの」の幻想を捨てて、本能から起こる真の欲望へと向かうことをよしとする。それは無我や無心の域であり、まさに「魂が抜けたような、ぼんやりとした」喪神状態になることなのだった。

  • なぜ意志がマズいのか。それは意志が人を欲深くさせるものだからだ。意志は失敗を恐れさせ、何もないところに不安を嗅ぎとり、観念的に物事を把握しようとる、思い込みの源泉である。いずれも欲を深める志向性ゆえのことであり、リラックスさせるどころか、人を緊張させるものだ。そして本能を粉飾するので、真の欲望を隠してしまうのである。

  • 人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、克己や自己犠牲などの努力に向かう意志であり、それを捨て去ることによって、本能に素直な、真に本来の欲望そのものの状態で生活することができる。その達成された姿が「喪神状態」であり、それは動物のように己の本能由来の欲望に素直になった姿なのでもある。そこには心の平安(アタラクシア)があるのだ。

五味康祐と『喪神』

 時代小説『喪神』は1953年の芥川賞受賞作品である。著者は五味康祐(1921-1980)。日本浪漫派に傾倒し、1946年に保田與重郎に師事する。48年には岡本太郎や安部公房などが参加する前衛芸術グループである「夜の会」に身を寄せていた。
 52年には当時『新潮』──あとで触れるが、この文芸誌は純文学作品の掲載誌である──の編集長であった斎藤十一に原稿を持ち込むなどするも、ボツとなる。しかし同年書いた初の時代小説『喪神』が掲載の運びとなり、翌年に芥川賞受賞の運びとなった。
 当然、次も時代モノをと要求してきた編集者にも関わらず、次作は現代モノを発表した。当人はいまいちノリ気にならなかったのだとか。
 とはいえ、その後は数々の剣豪小説を発表し、同時期に活躍していた柴田錬三郎と共に剣豪小説ブームの火付け役となる。

あらすじ

 隠棲した剣客・幻雲斎は、諸国に名をとどろかせた妖剣の奥義があった。その名も夢想剣。ひとりの若者が夢想流剣術の修業をする。彼が師のもとを立つとき、弟子が師を超える劇的な瞬間が訪れる。

評価

 作家の三田誠広は五味康祐の経歴──とくに前衛芸術グループへの接近──を踏まえて以下のことを述べている。

そういう経緯を見てみると、この作品は一種の実験小説だということがわかります。剣豪小説のスタイルはとっているけれども、これは刀を振り回して闘う剣豪の話ではなく、むしろ仏教的な悟りの境地に到達して、失神しているような状態になることで、条件反射的に相手を斬ってしまうという、何だか幻想的な剣豪の話なのですね。五味康祐はそれ以前に、剣豪の話など書いたことがなかったようです。何か新しいスタイルの文学作品を書いてやろうと模索しているうちに、この奇妙な剣豪のプランを思いついたのでしょう。

(五味康祐『喪神』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!

 三田誠広は超難解な前衛小説として『喪神』を取りあげ、当時の芥川賞受賞における賛否両論の評価の割れ方から、同様に受賞の際に賛否を分かつこととなった円城塔の名前を挙げている。円城塔の評価を参照してみよう。たとえば選考委員・高樹のぶ子はこう評した。

「一見いや一読したぐらいでは何も確定させないぞ、という意思を、文学的な志だと受け取るには、私の体質は違い過ぎる。それが「位相」の企みであると判ってはいるが、このような努力と工夫の上に何を伝えたいのかが、私には解らない。」「にも拘わらず最後に受賞に一票を投じたのは、この候補作を支持する委員を、とりあえず信じたからだ。決して断じて、この作品を理解したからではない。」

(芥川賞選評の概要)

 大雑把に言えば、円城塔が受賞した際の評価は次の形を取る。

ここには何かがある、
さしあたってはその何かはわからない、
けれど、しかし、
人に読まれるだけのナニカはあるのだ。

 三田誠広が五味康祐が受賞した風景を想像して円城塔の名前を挙げたのも、つまりは以上のような “わからなさ” の気配を思ってのことだ。
 しかし、円城塔が芥川賞を受賞した『道化師の蝶』では、選考委員・島田雅彦が「二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。」と評しているように、純文学ではあっても、いわゆる “エンターテイメント小説” とは言えないようだ。
 それに対して五味康祐の『喪神』ではそれはない。こちらは剣豪小説として無難におもしろく読める。ところが、これは純文学作品を掲載する『新潮』に載ったのである。そして純文学の新人に与えられる芥川賞に受賞した。しかし「ふ〜ん、芥川賞獲ったのね」と思って『喪神』を読んでみると、「あれ、ふつーの剣豪小説じゃん」となりもする。
 むろん、純文学作品への期待は人によって異なりもするが、その核にあるものは究極のところで「人間がよく描けている」ことへの深い驚きと納得以外にはない。そして肝腎要に中る《人間》への新理解・真了解に、『喪神』という小説は読者を連れ出し、触れさせてくれるのかが、ここでは問題になる。
 つまり、「芥川賞を受賞した純文学作品」として読むときには、 “単なる剣豪小説ではない” ことにこそ、『喪神』の読者は賭け金を投じなければならないのだ。

夢想流の強さの秘密を探る

 以下、『喪神』に関する記事を書くことになったのは、この短い小説において「意志を超えた本能の生活」が描かれていたからだ。
 作中に登場する剣術・夢想流には、どれだけ意志を恃んだ修業を積んでも敵わない。ふつう言われるところの克己と勇気とによって研鑽されるのではなく、むしろ本能に身を委ねたところにその強さはある。
 この記事では、意志ではなく本能を恃んだ夢想流・夢想剣の強さを検討していく。

夢想流の理念

ここでは幻雲斎が見出した夢想流がどのようなものなのかを、『喪神』の本文中から抜き出すかたちで取りあげ、それにコメントをする形で紹介する。

夢想剣を修めるには…

夢想剣を修めるには、世の修業の考えを先ず捨てねばならぬ。従来の剣術の方法、思慮では奥義を極めることは出来ない。肝要なのは、人間本然の性に戻ることである。即ち、食する時は美味を欲し、不快あらば露わに眉を寄せ、時に淫美し、斯くの如く、凡そ本能の赴くところを歪めてはならぬ。世に、邪念というものはない。強いて求むれば、克己、犠牲の類いこそそれである。愛しえぬ者は憎むがよい。飢えれば人を斃しても己が糧を求むるがよい。守るべきは己が本能である。欲望を、真に本来の欲望そのものの状態にあらしめることである。

(p29-30)

 うえのくだりを読むと、本能に立ち返ることが大切であると説いていることがわかる。ニュアンスとしては英語でいうところの「 Nature 」だろう。その一般的な訳語は「本性・自然」であることを踏まえれば、夢想剣が警戒するものは「意志・文化」になる。または「アタマで物を考えるのではなく、カラダで事に当たれ」と言ってもいいかもしれない。
 しかし、克己心や自己犠牲などではなく本来の欲望そのものの状態であれというのは奇妙に聞こえる。なぜなら欲望はそれ自体で文化的であり、意志の源泉になるのだから。
 ところが、幻雲斎の夢想剣では本能に比類する真の欲望はむしろ自然であり本性の発現だとされているのだ。

世上の剣者は臆病を蔑む…

 世上の剣者は臆病を蔑む、兎角肝の大小を謂う。愚かなことである。臆病こそ人智のさかしらを超えた本然の姿である。臆病は護身の本能に拠る。故に臆病に徹せよ。終始臆病であることをこそ、剣の修業と心得よ。

(p30)

 臆病であることを蔑むのは意志に基づく節制だ。ふつう、これは「情けない」や「男らしくない」などと言われる。しかし夢想流では臆病を蔑む態度をこそ “愚かなこと” だと断ずるのだ。
 臆病であることにこそ人の意志や文化に依拠した “人智のさかしら” を超越した「本然の姿」が発現する。臆病は “護身の本能” の源泉であり、その自体愛の原点に立ち返るからこそ、他を害するよりも前に己を活かすことに重点する剣術の修業になるのだ。
 それゆえ、夢想剣はつねにすでに臆病であることが尊ばれるという。

心拙き頃は世人の如く臆病を慚じた…

心拙き頃は、世人の如く余も臆病を慚じた。しかし、一日、眼に飛来する礫に或る人の思わず瞼を閉ずるを見て、翻然悟るところがあった、これぞ正然の術であると。飛び来る石を暇あれば躱す。なくば及ばずとも瞼を閉じる──この、及ばぬ瞬きに余は剣の極意を見たのである。爾来、これに類した本能の防禦を余は限りなく見た。守ろうとする意志すらない、これらは間髪の気合であった。故に、意志以前の防禦の境に余は心を置いたのである。世にいう辛酸の剣の修業と孰れが難かりしやは云わぬ。余は、眠れる者が、顔にとまる蠅を追いて知らざるごとく境に護身の極意を得、夢想流を編んだのである。

(p30-31)

 幻雲斎が語るのは、いかにして過去の自分から現在の自分になったのかのエピソードだ。彼は剣の極意を、人が顔に向かってくる石に為す術なく目をつむるその刹那に見せた、ある種の弱さに見出したという。そこには意志がなく、言うなれば、ごく自然に護身を為さしめる意志なき意志の現れ……。
 岸田秀というフロイト学者が『ものぐさ精神分析』という本を書き、そのなかで「人間は本能が壊れた動物である。本能の目的とするところは壊れてはいなくとも、それを実現するための手段が壊れているのだ。」と語った。そして彼は “すべては幻想である” とする「唯幻論」を唱えた。

 岸田秀の語るところを踏まえて夢想流の極意を検討すると、意志以前にある本能は護身の際におのれを表すが、大抵は意志によって粉飾されている。この意志的粉飾こそが唯幻論が説くところの本能の目的を実現するために要請される、壊れた手段を補填するための幻想なのである。幻雲斎が夢想剣の本拠とするのは意志的幻想なのではなく、本能的護身なのだ。

夢想剣の修業

 ここでは夢想剣を修得するためにおこなわれた修業の内容を取りあげる。
 修業といってもすることは “生活” である。小屋に住み、幻雲斎の娘が糸を紡ぐそばで藁を打ち、筵を編む。野山では鳥獣を狩る。たまには白昼で娘を襲ったりもした(これもまた妙齢の男女間における “自然” と言える。)。そんな生活だ。──「しかし、何時からその動作にふいと懶い緩慢が見えはじめ」る。
 修業する主人公ははじめ、自身の変化を快くは思わないようであった。遠くを見つめると、向こうには立派な山があり、かつて意志の力で身を立てようとした自分自身を見つけるような心地になる。ところが、「凛とした彼の眉宇に敗頽の色が漾う如く、いつか、佇むその姿も闇に消え、何日の頃からか、再びは立たなくなった。」とあるように、揚々たる意気は次第に減衰していく。
 ──最終的には無我の境地と言っていいところに到達する。主人公が薪を割っているところに落武者が襲いかかってくるも、まるで意に介さず、そもそも気づいたかどうかさえも怪しいまま、振りあげた鉈で殺されたのは白刃を向けた落武者のほうだったのである。
 そして、読者は次の文を読むことになる。

……しかし、降るが如く、蝉は鳴き、男は見知らず鉈を振っているのである。

(p33)

 それから、ニーチェの「ツァラトゥストラ」よろしく、山を下ってみてはどうかと師である幻雲斎から言われる。修業の次の段階だ。その際の主人公は「感動のない面持」でいて、この直後にこの小説は結末を迎える事になる。

修業から理念へ

ここでは前節に見た夢想剣の修業生活を、幻雲斎が語った夢想流の理念に重ねることで修業によって体得しようとする喪神の奥義およびその真意を探る。

意志由来の欲望と本能由来の欲望

 幻雲斎が説いたのは《意志》ではなく《本能》に起因する護身だった。
 なぜ意志による対応がマズくて本能ならば良いのか。これは言い換えると《頭脳》ではマズくて《身体》ならば良いということだ。つまり、アタマで物を考えるよりもカラダで事に中るほうが良いということだ
 意志が問題になるとき、それは(往々にして不如意な)身体の挙動を制御しようとする欲望の現れでもある。幻雲斎は欲望を肯定しはしたものの、しかしそれは「真に本来の欲望そのものの状態にあらしめること」とあるように、単なる欲望とは違っていることが読み取れる。言うなれば、「意志由来の欲望」と「本能由来の欲望」とがあり、前者は後者を制御したくあるような欲望なのだ。さながら、文明というものが自然をコントロールしたい人間の欲望の発露とその蓄積であるように。
 本能が自然であるとすると、下手に意志することは本能の自然に対して不自然なのだと言ってもいい。人間は常識や観念によって容易に身体を強張らせてしまえる。たとえば面接試験やプレゼン本番で思いどおりにカラダが動いてくれない場合には、アタマのほうにある意志的な都合──失敗したくない!成功したい!──で余計な緊張や葛藤が生じているみたいに。

意志のマズい使い方

 現代において「意志的なもの」の代表はビジネス系や自己啓発系の言説だろう。
 現代において “奴隷が回すもの” として知られている「PCDAサイクル」がある。Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)を繰り返すことで業務を改善させるための考え方だ。これを行うことで意志(文明)はより効率的に本能(自然)を統治することができるというわけである。
 PCDAサイクルに代表される姿勢において志向されているのは「仕事がうまくいくこと」であったり「夢を叶えること」であったりする。身近なところでは「早起きするためにアラームを掛けること」や「食べないで痩せるダイエット」なども “意志で無理する” タイプの欲望だろう。
 ──こうした “利益” や “効率” を向上させようとする姿勢が「意志由来の欲望」である。
 ただし、代表例としてPCDAサイクルを挙げはしたものの、PCDAサイクルの姿勢そのものが否定的なのではない。肝心なのは “意志で無理する” という点にある。聞き分けのない子をあやすために拳を振りあげるような、自然なものに対する不自然な対応が意志のマズい使い方なのだ
 

意志の幻想、現実の本能

 岸田秀は「すべては幻想である」と唱え、その説をおおよそ次のように紹介した。「人間は本能が壊れた動物である。本能の目的とするところは壊れてはいなくとも、それを実現するための手段が壊れているのだ。
 以上の説を踏まえてわたしは『喪神』を楽しむ視点を次のように説いた。──意志以前にある本能は護身の際におのれを表すが、大抵は意志によって粉飾されており、この意志的粉飾こそが本能の目的を実現するために要請される、壊れた手段を補填するための幻想なのだ
 意志的粉飾とは先に挙げた「意志由来の欲望」から発せられる。そしてそれは「本能由来の欲望」が果たされるための手段を捏造する。夢想流が重視するところは「意志以前の防禦の境」であり、その場所はアタマを働かせる類いの意志活動にはなく、カラダを状況の中に置くことで生じる類いの感覚発動の現場にある。つまり、幻想を振り払って現実を直視せよ。
 

意志という名の憑物

 修業の内容は “自然な生活に身を置くこと” だった。本能由来の欲望──食欲、睡眠欲、性欲を適度に満たす、本然的な生活。これだけ見れば “ただの生活者” にしか過ぎない。しかし『喪神』で描かれている修業生活では、夢想流の理念が実践されていると見るべきだろう。すなわち生活の中にあってさえも意志の働きを減衰させる向きがあった、というふうに。
 夢想剣を修得していく過程の主人公は最終的には無感動になり、半ば自分自身を見失いつつ、歩き方もシャキッとはしておらず、ふらふらで、まるで白痴のようになる。こうした姿は、夢想剣の修業が憑物を落とすように意志的なものを洗浄したかのようだ
 人間の不思議を語る際に、「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」といった、直観的な先後関係をひっくり返した話がある。神経生理学における古典的な発見だ。ここには夢想剣の流儀にも通じるものがある。すなわち、〈悲しいから泣く〉のは《意志》で、〈泣くから悲しい〉のは《本能》の働きに振り分けられる。
 

本能が顔を出すとき

  〈悲しいから泣く〉のは《意志》で、〈泣くから悲しい〉のは《本能》の働きに振り分けられる。
 注意すべきは前者には “悲しい” という意志に由来して “泣く” 振る舞いが起こることだ。別の言い方をすれば、意志することの想定内に泣くことも含まれている。対して、本能サイドの記述として押さえた〈泣くから悲しい〉では、意志由来の “悲しい” は身体的な挙動を通して解放される情報コンテンツになっているのだ。
 〈泣くから悲しい〉。これを本能的と呼ぶには少々補足がいるだろう。幻雲斎は臆病を例に挙げていた。臆病さは内面の状態としては怖く・怯えていることだが、たとえば人間は恐怖体験の最中にあって自身の身体の思いがけない挙動を発見することがある。いわゆる「人間ってのは本当に怖いときには声も出せないんだな」などの感想がそれだ。こうした場面には意志的なものが非意志的なものによって意表を突かれている事態がある。
 つまり、意志が把握している感情がもたらすであろう挙動(意志的な予期)を超えた挙動が起こるところに、非意志的なものである本能が顔を出すのだ。──この線から、〈泣くから悲しい〉においても意志以前・意志を超えたものとしての本能が照明される。
 

無邪気な子ども、白痴のような大人

 夢想剣の修業の結果、白痴のようになった。しかし精神病や狂人とは違い、日常生活は送るのに差し支えはない。また、その姿に大志を抱けといった若い風情はなく、意欲や活力などの気配さえない。言うなれば意志の濃度が薄く、あるいは意志というものが “抜けて” いる
 話はズレるようだが、子どもは無邪気だ。子どもを「可愛い」と言うときには、子どもの “大人にはない素直さ” への評価が含まれている。この場合の「素直さ」とは何か。それは「我を張っていないこと」であり、「頑固ではないこと」であり、「頑張っていないこと」である。あるいは、こう言ってもいいだろう。「意志決定の主体が不在であること」、と。
 では、子どもは何に対して  “無邪気” であり、 “素直” であるのか。それこそ意志ならぬ意志としての《本能》ではないだろうか。子どもにはまだ常識や規範などの意識がインストールされ(きっ)ておらず、それゆえに大人がそうであるような論理的思考や合理的判断などが通用する相手としてみなされないでいる。しかし学習の過程を通じて社会化されていくと、我慢や節制、営利などを意識するようになり、素直ではいられなくなる。嘘をついたり屁理屈を言う子どもに「可愛くない」と評するのはそのためだ
 子どもの “無邪気さ” や “素直さ” を考慮しつつ、ここで言いたいことは、意志ならぬ意志の現れとして「子どもの意志」があるならば、大人が一度インストールした意志を手放し、意志ならぬ意志であるところの本能に近づいたときに見せる姿こそが「白痴のようになる」なのではないか、ということだ。
 

意志を忘れて本能に遊ぶ夢想状態

 別の言い方をしてみよう。
 この記事では「意志由来の欲望」と「本能由来の欲望」とを分けた。前者は我慢や節制、営利などの目的を持つ「社会化された意識」を指し、後者では私私俺俺僕僕と言うような “我欲めいたもの” ではなく、おのずと立ち現れる “応ずるべき要求” である。この二種の欲望の後者──本能由来の欲望に忠実になることが、白痴めいた “ある種の夢想状態” に繋がるのではないか。
 以上のことを踏まえると、夢想剣の修業生活における意志的なものの洗浄は次のように語ることができる。
 ──生活の中で生じる要求のひとつひとつに無心になれるか。迷いがなく、没頭できるか。禅宗に日常の立ち居振る舞いのすべてが修業であるとする考えがあるが、それに似ている。ただし、それが努力であってはならない。意志を手放すのは目的ではなく結果なのだ。その結果に向けて “頭を使う” のではなく、あくまで “体が動く” ようにするのである。注意したいのは「体が動く」というのは言葉の文字通りの意味であり、「向きを変えてやること」や「姿勢を直してやること」を指す。そして、その方向の先には “意志を忘れて本能に遊ぶ夢想状態” がある
 いかがだろうか。
 

「喪神」のタイトル

ここでは『喪神』のタイトルが「喪神」であることの理由を検討する。

「喪神」の意味と内容との関連

 「喪神」という日本語はgoo辞書だと次のように説明されている。
1 魂が抜けたように、ぼんやりすること。放心。「落胆―する」
2 意識を失うこと。気絶。失神。「落雷のショックで―する」

(goo辞書)

 以上の「喪神」の言葉の意味はこの記事で確認してきた小説『喪神』の内容とも重ねられるだろう。
 『喪神』では剣術・夢想流の奥義の修得がある種の身心脱落という形で描かれているのだから。意志ではなく本能に由来する真の欲望に身を委ねることができるようになる。そのための過程が幽霊のように憑依した意志の浄霊であり、“喪神” のプロセスなのだから
 

『喪神』の時代

ここでは小説『喪神』が発表された当時の戦後日本の社会状況を想像し、『喪神』が描いた意志的なもののマズさを重ね合わせてみる。

芥川賞を受賞した頃の日本

 『喪神』が発表された1952年当時の日本は敗戦から7年の時が経っていた。高度成長時代の曙光が見えだし、70年代における国際社会への華々しき返り咲きに向けて社会は動き出していたのである。
 欧米からは集団主義的とされた教育勅語の撤廃に象徴される戦後民主主義への移行は、同時に、群れた大衆から個人としての目覚めを促すものだった。じっさいには日本人は集団主義だったわけではないという指摘もある(高野陽太郎)が、戦後の日本をまなざす上で1946年に英語で書かれた『菊と刀』(R・ベネディクト)の影響に日本人自身がさらされなかったということはあるまい。いわゆる「日本人は集団主義的で、アメリカ人は個人主義的である」といった言説は、それまでの価値観を一変させられることとなり(「天皇陛下万歳」から「ギブミーチョコレート」)、戦前から戦後への過渡期にあった日本人の自意識にとっては鮮烈なものがあったはずだ。ちなみに、『菊と刀』の日本語訳での流通は1948年である。
 戦後日本の復興と発展は一種の欧米化と並行していた。それはひとつの側面として、それまでの集団主義的なものから個人主義的なものへの移行だったのである。共同体意識よりも個人の意識を助長ないしは増長するものとして戦後民主主義を指弾した論者(福田恆存など)もいる。こうした個人化のプロセスが共同体の解体を促したのは確かで、民主主義と共に発展した資本主義への適応は個々人を分断することにもなった。分断された孤独な個人は広告的・政治的なストラテジーに対して弱い。言い換えれば、イメージによってかんたんに踊らされる群れと化してしまう。だからこそ、個人社会は大衆社会でもある
 

意志を邪念とみなした凄み

 前節で押さえた戦後日本社会の概略から見て、『喪神』が書かれた時期を次のように素描することを可能にする。
 ──70年代の国際社会への返り咲きに向けた戦後日本の復興期には、「自分も他人もいち個人として尊重されねばならない」とする個人主義や、「具体的な係わり合いの中で人は個人になれる」とする実存主義が跋扈していた。それらには意思尊重と自己主張といった意志を恃む姿勢があり、この路線の先には後に人々に蔓延するニヒリズム(虚無主義)の時代を胚胎しているのだ
 さて、上述した時代情景のなかで五味康祐の『喪神』が芥川賞を受賞した理由を見るとすれば、意志的なものに頼った生き方の限界を剣の奥義として提示してみせたところにあると言える。意志の力によって追いつき追い越せと頑張らねばならないとする風潮にあって、克己や自己犠牲などの成功・成長のための努力を “邪念” とさえ呼ぶのだから、作中に描かれた夢想剣の技もさることながら、小説が提示した言説として凄まじいものがある
 ようするに、「個人主義が大衆社会化に向かう舵をとるのは意志的なものを恃んだ結果なのではないか」ということだ。その路線では本能を忘れて意志に忠誠を誓う、病んだ個人が生まれる。そうではなく、本能由来の欲望に忠実となる道が同じ個人主義にはあって、その道とは社会や世間などの集団のなかで我を忘れるのではなく、個人が個人の生活のうちに意志的なものを手放していくことなのである。それはある種の “丁寧さ” とも言い換えられるだろう。
 これは現代でマインドフルネスやヨガなどが流行する向きにも重ねられる。意志には雑念がつきまとう。情報社会となって久しい現代には、情報のインプットもアウトプットもその流れはあまりに激しい。だからこそ心を空っぽにする身体的訓練が要求されるのだ。『喪神』ではその空っぽ──空虚のうちに本能由来の欲望を見出すのである
 

喪神、神を捨て去る、動物になる

ここでは『喪神』のタイトルである「喪神」およびその内容に関連させ、意志に頼らない本能の状態を検討する。参照点としてマイスター・エックハルト澁澤龍彦の言説を取りあげ、改めて喪神状態が示唆するところを見ていく。

神のために神を捨て去る

 ドイツの神学者であり(実践的というより思弁的な)神秘主義者として知られるマイスター・エックハルトがいる。生い立ちや思想の細かな紹介は省くが、彼のよく知られた言葉に次のものがある。

人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである。

(シラ書第24章第30節)[説教12])

 トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』よろしく、エックハルトは神の子であるキリストに倣って生きることを信仰目標に設定する。上に引用した説教はキリスト教信者の理想であると同時に、キリスト自身がお手本として提示した宗教者の理想型なのだ。後半にある “神のために神を捨て去る” のくだりがそれである。
 簡潔に解きほどくと、〈神のために〉とは “神を信仰すること” であり、〈神を捨て去る〉には “神への依存をやめること” なのだ。すなわち、神への信仰のために神に縋ることをやめる。キリストという現象にあっては「神の子」自身がそれをやってのけたのである。
 父なる神が同時に子でもある、キリストという特異な現象において、キリストという人物は神の身分でありながら、僕の身分になり、そして人間へと零落してみせた。つまり、神でありながら神の身分を捨てて顕現したのである。子であるところの人のために。これがキリスト教のもっとも根本にあるハートフルエピソードだ。
 エックハルトが説くのは以上のキリストの姿勢が、「人が捨て去ることのできる最高にして究極のもの」を示しているという点である。着眼したいのは、キリストが人のために捨て去り、人が神のために捨て去れる “最高にして究極のもの” だ。──この記事ではそれを《意志》であると考えている
 

お手本としてのキリスト

 エックハルトの教説をふたたび引用する。

人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである。

(シラ書第24章第30節)[説教12])

 前節で人が神のために捨て去れる “最高にして究極のもの” を《意志》であると読んだ。この線からすると、エックハルトが読んだキリストは意志を下降評価し、それに対して、一種の喪神状態への評価を説いているものとなっている。五味康祐の『喪神』でも意志に属するものを総じて下降評価し、喪神状態であることを持ち上げていたのだ。
 『喪神』で夢想流が目指したのは剣の強さであり、キリスト-エックハルトでは「すべてが与えられる」ためである。しかしどちらも意志が伴うわけではなく、結果として授かるものだ
 キリスト-エックハルトに寄せて考えれば、キリスト教では天国が目指される。そこには永遠がある。つまり「すべてが与えられる」わけだ。この逆を考えてみよう。すべてが与えられている状態は満ち足りていて、何も欲しがる必要はない。欲しがるという働きは意志的なものだ。天国には意志的なものはない。ようするに、意志そのものが天国の外側に属するものとなる。
 キリスト自身、意志を抜く姿勢を実践している。『ピリピ人への手紙』において、キリストは、神の身分でありながら自分を無にすることによって、僕である人間と同じ身分になった(2:6,7)。これはひとつのお手本である。キリストはその場面で “有としての自分の意志” を、持ちはしなかったのだから。そしてキリストが見せた手本は『喪神』における夢想剣と通じるところがある。
 

欲望を肯定するキリスト

 すべてが与えられる天国の扉を開ける鍵もキリストの姿そのものだとすると、その鍵が自分というもの──意志を捨てることなのだと考えられる。この “意志を捨て去る” ことによって天国への扉は開き、永遠を手に入れられる。なぜなら、何かへと志向する意志がなければすべての不満足がなくなり、満足しかなくなるのだから。
 しかしながら、キリスト教と夢想流とでは共通して「意志由来の欲望」こそ否定しているものの、「本能由来の欲望」に対しては対照的である。修道院生活などで実践されているところがまさしくそれで、祈りと労働のなかで節度と制限を課されることになる。これは夢想剣における食欲、睡眠欲、性欲の自然な表出を肯定した修業生活を思えば月とスッポンだろう。
 とはいえ、小説家ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』でも取りあげられている、キリストであるイエスがマグダラのマリアと結婚して子供を設けたという説を思うと、キリストという存在にも本能由来の欲望を肯定する向きはあったのではないだろうか

 エックハルトが唱えた以下の文言は “意志を遠ざけつつ本能を肯定する向き” にも読めはしないだろうか。

人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである。

(シラ書第24章第30節)[説教12])

 そして、たとえば、こんなふうに書けはしないだろうか。──人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、克己や自己犠牲などの努力に向かう意志であり、それを捨て去ることによって、本能に素直な、真に本来の欲望そのものの状態で生活することができる
 以上の意志由来の欲望を停止して本能由来の欲望を恃んで生活する状態は、『喪神』で描かれているような無感動な人物に近づいていくに違いない。
 

動物的な生は禁欲か、快楽か

 『道徳の系譜』…だったろうか。かつて哲学者ニーチェは、キリスト教的な「禁欲的な生き方」に固執するのか、それともデュオニュソス的な「美や快楽を追求する生き方」を選ぶかを世に問うた。(デュオニュソスとはギリシャ神話の “やりたいほーだい” な神様のことである。)禁欲主義か、快楽主義か。

 翻訳家であり随筆家でもある澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』ではそれぞれが禁欲主義と快楽主義とを謳った、古代ギリシャにおける「ストア学派」と「エピクロス学派」の代表が出会った場面が紹介されている。ゼノンエピクロスである。弟子たちが見守っていると二人は対立を深めるどころか意気投合したという。
 ──澁澤龍彦はこれを「自然と調和して生き、なにものにもわずらわされない平静な心の状態、すなわちアタラクシアに達することを求めていた」(p56)点で共通していたからだと説いている。アタラクシアとは “心の平安” のことである。

 澁澤によれば禁欲主義では自然との調和を一種の緊張の姿勢に見出し、快楽主義ではリラックスした姿勢に見出す。つまり「なんのこれしき」という姿勢をとるか、「まあいっか」といった姿勢をとるかの違いだ。前者では意志の力で意志を忘れ、後者では本能の力で意志を忘れる。どちらも心の平安を求める点では同じだ。
 『快楽主義の哲学』ではそのタイトル通り快楽主義を称揚する。澁澤は上述の快楽主義の姿勢を「動物的」と表現する。そのあり方は人間の本能、人間の欲望に忠実であることだとし、次のような書き方をしさえするのだ。

けちくさい形式的な道徳や、空虚な理想論などにまどわされず、すいすいと快楽の海を走っていく軽快な舟の姿を想像してください。古めかしい道徳は、暗礁です。こんなものに乗りあげたら、たいへんだ。欲望という、美しい灯台の光だけを目標にしていればよい。

(快楽主義の哲学、p60-61)

 もちろん、動物は禁欲的ではなく、ニーチェの問い──キリスト教的か、デュオニュソス的か──には、『快楽主義の哲学』は「デュオニュソス的であれ」と答えるだろう。
 

本能への素直、動物への羨望

 『喪神』で描かれる夢想剣の達人の域では「喪神状態」になる。これは本能に接近して動物状態になることだろう。ある種の道を極めた達人が達するという領域が「無我の境地」と呼ばれるが、ここで言われている “我” こそ “意志” であり、そしてエックハルトが捨て去るものとして挙げた “神” なのではないか。そして快楽主義が目指すアタラクシア(心の平安)にこそ幸福があるとすれば、それはまさに「我のために我を捨て去る」であり、「意志のために意志を捨て去る」であり、そして「神のために神を捨て去る」となるのではないだろうか
 喪神とは “神を喪っている” 状態である。少なくとも意志は幽かなものになっている。そうなったときに迫り出してくるものこそ本能なのだろう。本能とは “本来の能作” なのかもしれない。つまり、生命が環境に対して働きかける本来のありかた。動物のような、そんな、ありかた。
 夢想流のように本能へと向かうならば、それは決して無欲でありはしないだろう。かといって俗世間的な煩悩にまみれた “欲深い” とも言えまい。その深さこそが自然体であることを阻害することになるのだから。夢想剣ではむしろ身体表面部における “咄嗟の反応” に注目する。言うなればこれは “欲が浅い” 。もしものときに次に自分はどう行動しようかと考え込んでしまうことこそ不自然であり、自然体として振る舞うには直感によらねばならない。さながら、動物のように。だからこそ、さながら魂が抜けたようにぼんやりとする、「喪神」する必要があるのである。
 本能に素直になる。意志を半ば失いながら。喪神とは一種の幸福なアタラクシア状態だ。喪神者は、子どもがそうであるように、常軌を逸しているのではない。ただ、知らないでいる。意志するということを。人が意志するようになったとき、それはどこか素直ではないのだ。本能に。だからこそ人は動物を羨望する。
 

まとめ

 意志を持て。それは個人に突きつけられる義務のようなものだ。しかし持たねばならないと脅迫される当の「意志」が本当に自分自身の意志表明として相応しいものなのかどうかには、往々にして疑念が持てる。誰かに吹き込まれたものではないのか、自分は洗脳されているのではないのか。ふつうであれ、常識的であれという呪縛に囚われてはいないのか。──この点で「意志を持つこと」は胡散臭い。
 この記事では五味康祐の『喪神』を取りあげた。時代小説でありながら、剣の極意を描くために本能由来の欲望へと注目する。そこでは欲望を制する克己や勇気などの「意志的なもの」を否定しているのだ。そして否定し、本能へと立ち返るために描かれるの修行は、「自然体の生活を送ること」なのである。
 自然体の生活を送る過程は、意志を持つ誰もが素直ではいないことに由来した、素直になりゆく過程だと言えよう。わたしたちは素直ではない。どうやら。
 『喪神』で描かれる “意志を捨て去る” プロセスは本能への素直さを取り戻すことなのだ。──これは、意志頼みの人生への導きの書なのかもしれない。

関連資料


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?