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「こうなったら人生が最悪なものになってしまう」なんていう “不幸の条件” は少ないに越したことはないよねそれより幸せになれる条件を増やしてこうぜって話

ちょっと考えをまとめておきたいことがあって、書いてみる。

初めに言っておくと、人生の不幸になる条件を増やすより、幸せになる条件を増やしたほうがいいんじゃないかって話だ。

まず下のツイートをご覧あれ。

ちょっとした会話の中で「家族と同じ墓に入るのが心底嫌だ!」って考えを話されたのよな。家族ひいては親族含めた “血族” が憎いらしくて、そいつらと死んだ後まで同じ空間に閉じ込められるのが嫌なんだそうな。

俺も家族とは当事者しかわからないあれやこれやの因縁があるので、しょーじきなところ「嫌だ!」って思いはある。でも、同じ墓に入るのは絶対に嫌だ!ってまでにはならない。

このことを相手に伝えたら、驚かれた。「おまえも同じ考えかと思っていたのに!」って。

そうは言っても幸せにはなりてーんじゃねーの?

奴の考えにはツッコミどころはある。

死んだ後の自分と家族の関係まで考えても仕方ないやろうがってこととかさ。自分の遺骨がどこに行こうが、それを気にする当の自分はもう存在しないんじゃね? ってさ。

仮に死後に自分の意識があるとしても、いつまでも生前のあれやこれやにかかずらってるほどツマラナイことってないじゃん。

そもそもそれなら死んだ意味がない。

せっかく死んだんなら、生きていた時のことなんか忘れたいじゃない。忘れはしなくても、せめて死んでからの自分を楽しみたいじゃない。

などと思ってみたけど、上に引用したツイートでもっとも念を押して言いたかったところは、要するに、家族との関係で思うところはいろいろあるだろうし、譲れない自意識ってのはあるだろうけど、そうは言ったって、結局のところでそういうおまえも幸せになりたいってのが本当じゃねーの? ってことだ。

不幸になる条件より幸せになれる条件を増やそーぜ?

幸せになりたい。そうなるためにどうするかってところもまた人それぞれだろうけど、そこには自覚するしないに関わらず何らかの条件が設定されているのは確かだ。

ならさ、幸せになるための条件は多いほうがいいじゃない。それも、「AかつB」なんて連言的な条件の増やし方じゃなくて、「AまたはB」のような選言的な条件を増やせたほうが、単純に幸せになれる可能性は増える。

幸せなんて言葉があるから不幸も生まれるんじゃないかって考えもあることも承知だが、それでも人が幸せになりたい生きものだって現実があるのも本当だよ。だからさ、思うんだ。

──不幸になる条件を増やすより、幸せになる条件を増やしたほうがいいんじゃないかな。

人間がクソ好きっつったっておまえがクソにまみれる必要なくね?

クリア条件が少数に限定されているより、多様に開放されているほうが楽しい。これはゲームの話だけれど、人生も同じじゃないか? 

受験と出世のラットレースだけが人生の幸福を決めるなら、ヒエラルキーから落ちぶれた人間は幸せになれないのか? そんなんクソだろ?

人間もクソは好きだって事情はあるだろう。「ブルシットジョブ」──被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。(wikiより)──なんて言葉もあるし、そんなクソな仕事もなくならずにせっせと従事してしまう人間ってものを見ればわかるだろうけど、人間はクソが大好きだ。クソにたかるのが好きな虫だ。

だからこそ、少数の人間だけが幸福になるようなクソッタレな価値観にだって必死になってたかろうとする。ハエのように、ウジのように。

話が逸れたようだけど、

自分が幸せだって思える自分自身になれる人生があるとしたら、狭くクリア条件が狭く限定された人生よりも、幸せになれる条件が多様で広く開放されているほうがいいよね。

ラットレースの会場の外やヒエラルキーの照明の外にも、自分の幸せを見つけられる人生のほうがいいよね。押し付けられたクソゲーにイライラするくらいなら、自分で選んだ神ゲーやって脳汁出したいじゃん。

そんなことを言いたかったわけですよ。

気にすること増やして頑なになるって幸せなんですか?

もっかい、ザムザのツイート文を見てみましょか。

友達から血族と同じ墓に入るのが嫌だと言われる。俺はどっちでもいいと言う。驚かれる。同意見だと思っていたらしい。俺も血族に対して悪感情を持っている。けれど同じ墓に入ると最悪人生になると決めつけることは、不幸になる条件を増やすことになるので嫌だ。同じ増やすなら幸せの条件を増やしたい。

ここまで書いてきたところを踏まえると、こういうふうに読み解けるはず。

先祖代々の墓に入ることになったら自分の人生は最悪なものになってしまう。これを自分が不幸になる条件に設定した人生よりも、設定していない人生のほうが不幸になる可能性が少なくて良い。

「こうなったら人生が最悪なものになってしまう」なんていう “不幸の条件” は少ないに越したことはない。

嫌なことを気にして生きる人よりも、何にも気にすることのない人のほうが自由だ。仮に自由を “抑圧されていないこと” だとすれば、死んだ後にまで続く抑圧を想定して、どうしてこの世の生を謳歌できるだろう? それで自分にも他人にも意固地になって頑なになって、それで、それでどんな得があるんだろう?

気にすることが多くて幸せになるためのハードルを上げるのも、カタルシス得られるって意味じゃあ楽しいのかもしれないけどさ、それで不幸だ不幸だって思うくらいだったら「気にしていることリスト」を整理したほうがいいんじゃないかしら。

どのみち、人生は続くんだろうからさ。


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