『存在と時間』を読む Part.68

  第68節 開示性一般の時間性

 まずこの節では気遣いの具体的な時間的な構造を示すために、気遣いを構成する契機としてすでに示されてきた4つの構造的な契機について、その時間的な解釈の道筋が示されます。第1篇の第5章では、現存在の〈そこに現に〉を構成する契機として、情態性、理解、語りの3つが考察されてきました。しかし、この第2篇の第4章では、開示性を理解、情態性、語りの3つに、頽落という契機がつけ加わっています。というのは、現存在は日常性においては、このような実存論的な構成からは頽落したありかたのうちに存在しているからです。
 気遣いの時間的な構造を示すためハイデガーがとる道は、まず4つの契機を個別に時間的に解釈し、この作業で得られたこれらの現象のそれぞれの時間的な構成が、1つの時間性のうちにさかのぼることを示すことです。この時間性が、理解、情態性、頽落、語りに可能な構造的な統一性を保証するのです。


  (a)理解の時間性

 この項では理解の時間性について、将来、既往、現在化の時間性に応じて、どのような時間的な特徴が存在するかを考察することになります。
 まずは理解の基本的な定義を確認しましょう。理解については第1篇第5章の第31節で、現存在の実存論的な構造の1つであることが確認されました。そして現存在が存在する「〈そのための目的〉のうちで、実存する世界内存在そのものが開示されている」ことが指摘された後に、「この開示されていることが、理解と呼ばれる」と規定されていました(Part.30参照)。
 ハイデガーはこの節ではこれを、次のように言い換えています。

Ursprünglich existenzial gefaßt, besagt Verstehen: entwerfend-sein zu einem Seinkönnen, worumwillen je das Dasein existiert. (p.336)
理解することを根源的に実存論的な意味において捉えるならば、理解とは”現存在がそのつど〈そのための目的〉として実存している存在可能に向かって、投企的に存在している”ということである。

 理解の働きは、現存在がそれに向かって投企すべき固有の存在可能を開示することにあるのです。ですから理解とは、現存在が何かについての実際の知識を持っていることを示すものではなく、現存在が自己に固有の存在可能に向かって投企する可能性を獲得しているということであり、ある実存的な可能性のうちにみずからを保持しているということです。
 投企という営みには、死への先駆のもとで、将来において自己に固有の存在可能を実現することを選択するという「将来」の次元が含まれています。

Dem entwerfenden Sichverstehen in einer existenziellen Möglichkeit liegt die Zukunft zugrunde als Auf-sich-zukommen aus der jeweiligen Möglichkeit, als welche je das Dasein existiert. (p.336)
現存在がある実存的な可能性において投企しながらみずからを理解しているときには、その理解の根底には将来が含まれるのであり、この将来は、そのときどきの可能性に基づいて、〈みずからに向き合う〉こととして、その理解を可能にしているのである。

 みずからの存在可能において理解しながら実存しているというありかたで存在する現存在を存在論的に可能にしているのは、将来なのです。このように投企は根本的に将来的なものであり、理解の時間性は「将来」であることが明らかにされました。
 ここで重要なのは、時間はさまざまな形で時熟しうるということ、本来的な意味での時間として時熟することも、非本来的な意味での時間として時熟することもあるということです。「時間性は時熟し、しかも時間性そのものに可能なさまざまなありかたを時熟させるのである。そしてこれらのありかたが、現存在の存在様態の多様性を可能にするのであり、とくに本来的な実存と非本来的な実存という根本的な可能性を可能なものとするのである」(Part.66)。時間性はさまざまな形で時熟しますが、それがどのような形で時熟するかによって、現存在がどのような存在様態にあるかが示されるのです。あるいは逆に、現存在のさまざまな存在様態に応じて、時間性が異なった形で時熟すると言うこともできるでしょう。
 このような言い方が可能なのは、現存在も時間も「脱自的な」ありかたをするものだからです。現存在の世界内存在としての「気遣い」の構造には、「みずからに先立つこと」という契機がありました。気遣いはこの先立ったものからみずからを理解するという性格をそなえていますが、このような自己の了解が、将来の時間性と現存在の存在様態を規定することになります。

Für die terminologische Kennzeichnung der eigentlichen Zukunft halten wir den Ausdrück Vorlaufen fest. (p.336)
わたしたちは本来的な将来を示す用語として、”先駆”という表現を使いつづけることにする。

 もし現存在が先駆的な決意性において〈みずからに向き合う〉のであれば、この将来の時間が第1義的な、本来的な将来として時熟するのであり、自己に先立って考えられる自己に固有の存在可能から自己を理解することになるでしょう。
 しかし多くの場合、現存在はこのような本来的な存在様態にあるわけではありません。本来的な将来は決意性に即してあらわにされますが、非本来的な将来は日常的な配慮的な気遣いのもとにある非本来的な理解に即してあらわにする必要があります。現存在は気遣いですから、その本質からして非本来的なありかたにおいても〈みずからに先立つ〉ものです。この場合、現存在はそれが配慮的に気遣っている”そのもの”のほうから、みずからを理解することになります。

Das Besorgte aber ist, wie es ist, umwillen des sorgenden Seinkönnens. Dieses läßt das Dasein im besorgenden Sein beim Besorgten auf sich zukommen. Das Dasein kommt nicht primär in seinem eigensten, unbezüglichen Seinkönnen auf sich zu, sondern es ist besorgend seiner gewärtig aus dem, was das Besorgte ergibt oder versagt. (p.337)
しかし配慮的に気遣われるものとは、それがあるとおりに、気遣う存在可能〈のために〉存在している。現存在は配慮的に気遣われたものにおいて、配慮的に気遣う存在として、この存在可能をみずからに向き合うようにさせるのである。現存在は、みずからのもっとも固有で、関係を喪失した存在可能において、第1義的に自己に到来するのではない。現存在は、配慮的に気遣いながら、”自分が配慮的に気遣ったものがもたらすものや拒絶するものに基づいて、みずからを予期している”。

 現存在は「配慮的に気遣われたものにおいて、配慮的に気遣う存在として、この存在可能をみずからに向き合うようにさせる」、このような通俗的な時間概念における時間性は「未来」という名前で呼ばれていましたが、この未来という時間性の特徴は「予期」ということにあります。

Die uneigentliche Zukunft hat den Charakter des Gewärtigens. Das besorgende Sichverstehen als Man-selbst aus dem, was man betreibt, hat in diesem ekstatischen Modus der Zukunft den >Grund< seiner Möglichkeit. Und nur weil das faktische Dasein seines Seinkönnens dergestalt aus dem Besorgten gewärtig ist, kann es erwarten und warten auf ... (p.337)
非本来的な将来は、”予期”という性格をもつ。ひとは、自分が従事していることに基づいて、世人自己として配慮的に気遣いつつみずからを理解するのであるが、それが可能となる「根拠」は、この将来の脱自的な様態のうちにある。そして事実的な現存在が、みずからの存在可能をこのように配慮的に気遣ったものから”予期しているからこそ”、現存在は何かを”期待したり”、〈何かを待ち受ける〉ことができるのである。

 この「予期」と訳した語は、ドイツ語で>Gewärtigen<です。これは「予期する」を意味する動詞>gewärtigen<をそのまま名詞化したものであり、注目すべきは語の形です。上記の引用文では、この>Gewärtigen<の他に「期待する」を意味する>erwarten<や、「〈何かを待ち受ける〉」と訳した>warten auf ...<という語が登場しますが、これらには共通して>warten<という語がその構成に用いられています。動詞>warten<は「待つ、準備する」という意味をもち、これは将来の時間性に基礎をおいている概念になります。端的に言うなら、ハイデガーは、「先駆」と「待つ」ということにおいて、本来性と非本来性を区別しているのです。

Das Gewärtigen muß schon je den Horizont und Umkreis erschlossen haben, aus dem etwas erwartet werden kann. Das Erwarten ist ein im Gewärtigen fundierter Modus der Zukunft, die sich eigentlich zeitigt als Vorlaufen. Daher liegt im Vorlaufen ein ursprünglicheres Sein zum Tode als im besorgten Erwarten seiner. (p.337)
この予期というものによって、何かを期待することのできる地平や領域が、すでにそのつど開示されてしまっているはずである。”将来は、本来的には先駆という様態で時熟するものであり、期待することは、予期に基づいたこうした将来の1つの様態なのである”。そのため先駆には、死を配慮的に気遣う期待のうちよりも、さらに根源的な〈死に臨む存在〉がひそんでいるのである。

 この>Gewärtigen<の>warten<という性格については、次に確認する「現在」の時間性にも関係します。とにかくここではまず、理解の時間性は将来であることが確認されました。

 理解の時間性は将来であることが明らかになりましたが、時間性は脱自的な構造をもつものであるために、つねに他の2つの時間的な契機、すなわち既往と現在との関係をそなえているはずです。日常的な配慮的な気遣いは、存在可能に基づいてみずからを理解するのですが、その存在可能は、そのつど配慮的な気遣いの対象となっているものがどのようなものかによって、その日常的な気遣いに応じたものになります。

Der uneigentlichen Zukunft, dem Gewärtigen, entspricht ein eigenes Sein beim Besorgten. Der ekstatische Modus dieser Gegen-wart enthüllt sich, wenn wir diese Ekstase im Modus der eigentlichen Zeitlichkiet zur Vergleichung beiziehen. Zum Vorlaufen der Entschlossenheit gehört eine Gegenwart, gemäß der ein Entschluß die Situation erschließt. (p.337)
この非本来的な将来としての予期に対応するのは、配慮的な気遣い”のもとでの”固有な存在である。これは現-在であるが、この脱自的な様態は、これを本来的な時間性の様態における現在の脱自態と比較してみると、その違いがあらわになる。決意性の先駆に含まれる現在は、決断がそれによって状況を開示する現在である。

 非本来的な将来としての予期に対応するような、非本来的な現在は、「現-在」であると語られています。ふつうのドイツ語で「現在」は>Gegenwart<ですが、この「現-在」とは>Gegen-wart<を訳したものであり、ここでハイデガーが語の要素を強調したのには理由があります。ここで>gegen<は「向き合う」という意味をもち、>wart<は先にみた>warten<にあたり、その派生語である>gegenwärtig<という形容詞は、「現在の、居合わせている」という意味をもちます。このように「現-在」とは「向き合って待ち受ける」というニュアンスをもつ語であり、この意味の現在が非本来的な現在とされているのです。この「現-在(>Gegen-wart<)」が「予期(>Gewärtigen<)」とよく似ていることは明らかですが、そこにこれら2つの契機の非本来的な時間性としての共通性をみてとることができるでしょう。現存在が「配慮的に気遣われたものにおいて、配慮的に気遣う存在として、この存在可能をみずからに向き合うようにさせる」予期に対応する現在、これが向き合って待ち受ける「現-在」ということです。
 これにたいして、本来的な現在は「決断がそれによって状況を開示する現在」です。決意性において現在は、配慮的に気遣われているものに気晴らしをしている状態から取り戻され、本来的な将来と既往性のうちに維持されています。

Die in der eigentlichen Zeitlichkeit gehaltene, mithin eigentliche Gegenwart nennen wir den Augenblick. Dieser Terminus muß im aktiven Sinne als Ekstase verstanden werden. Er meint die entschlossene, aber in der Entschlossenheit gehaltene Entrückung des Daseins an das, was in der Situation an besorgbaren Möglichkeiten, Umständen begegnet. (p.338)
わたしたちは本来的な時間性のうちに維持されている”本来的な現在”を、”瞬視”と名づける。この用語は、積極的な意味での脱自態として理解しなければならない。瞬視において現存在は、状況のうちで配慮的に気遣うことのできるさまざまな機会や事情に出会うのだが、現存在は決断しながら、しかも決意性のうちに”維持されながら”、こうして出会ったものから脱出してゆくのである。

 本来的な現在にある現存在は、先駆的な決意性によって、死へと先駆することで、自己に固有の存在可能に立ち向かっているのであり、ハイデガーはこのような現在を「瞬視」と呼んだのでした。「決意した現存在は、頽落した状態からみずからをまさに取り戻しており、ますます本来的に、開示された状況への〈瞬”視”〉のうちで、〈そこに現に〉存在しようとしているのである」(Part.66)
 この瞬視の特徴を理解するためには、「今」の概念と比較するのがわかりやすいでしょう。すでに考察してきたように、「今」は時間について考えるときにわたしたちがもっとも理解しやすい考え方です。今には3つの重要な特徴があります。第1の特徴は、「今」は刹那の瞬間として他の瞬間とは切断されていることです。時間とは「今」のこの瞬間であり、この瞬間が一瞬後にはかつての「今」としての過去になり、その瞬間に、それまでいまだ来らざる未来の「今」であった瞬間が「今」となるのです。これらの今は独立した現在の瞬間であり、過去や未来の今とは独立した点のような瞬間です。
 第2の特徴は、この点のような瞬間としての等質な「今」が連続することで、時間の流れが構成されることです。この考え方では、時間とはこの点としての「今」の連続で構成されていることになります。このような「今」は、「今、今、今」とたえず更新されながら、無限に続いていくように思われます。
 第3の特徴は、この「今」の瞬間において、すべてのものが現前していることです。わたしたちは今この瞬間に自分の眼の前に存在しているものをまざまざと見ることができます。そしてそれらの存在者が現に存在することを確信できます。しかし過去においては、これらの存在者がそもそも存在していたのかどうかは、それほど確実なことではなくなりますし、未来においては、これらが存在するかどうかを確信することはできないでしょう。
 これらの特徴を要約すると、次のようになります。

Das Jetzt ist ein zeitliches Phänomen, das der Zeit als Innerzeitigkeit zugehört: das Jetzt, >in dem< etwas entsteht, vergeht oder vorhanden ist. (p.338)
〈今〉とは、時間内部性としての時間に属する時間的な現象であり、何かが「そのなかで」発生し、過ぎさり、あるいは眼前的に存在すると言われるような〈今〉である。

 このような「今」としての現在は、本書の時間論の枠組みでは非本来的な現在の時間であり、これは「現在化」と呼ばれますが、ここには注意が必要でしょう。というのは、以前の節ではこの語が本来的な時間性を示す語として登場していたからであり、これが少々混乱をまねきがちであるからです。

Im Unterschied vom Augenblick als eigentlicher Gegenwart nennen wir die uneigentliche das Gegenwärtigen. Formal verstanden ist jede Gegenwart gegenwärtigend, aber nicht jede >augenblicklich<. (p.338)
本来的な現在としての〈瞬視〉と区別して、非本来的な現在を”現在化”と呼ぶことにしよう。形式的に理解するならば、すべての現在は〈現在化するもの〉であるが、すべての現在が「瞬視的」であるわけではない。

 第65節において現在化は、将来、既往性と並んで本来的な気遣いの意味であるとされていましたが、ここでは「非本来的な現在を”現在化”と呼ぶことにしよう」と語られています。現在は本来的なものであれ非本来的なものであれ、「向き合う」という性格をもっています。このことは、同じ節で「現存在が”存在者として”一般につねにすでにみずからに向き合うように到来している」と指摘されていました。現存在は先駆的な決意性においては、みずからにもっとも固有な存在可能に向き合い、そこからみずからを理解しているのであり、この将来と既往に規定された現在が「瞬視」と呼ばれます。それにたいして日常的な現存在は、みずからに固有の存在可能からみずからを理解することはせず、配慮的に気遣うもののほうからみずからを理解していますが、これは予期という脱自態における非本来的な理解なのであり、これに対応する現在が「現在化」と呼ばれています。現存在は本質的にまず頽落存在として「現在化」において存在していますが、この状態から先駆的な決意性によって本来性へと目覚めることで、「瞬視」において存在するようになります。現在化としての現在は、非本来的で瞬視を欠く非決意的な現在化なのです。ですから、本来的な現在にも「向き合って待ち受ける」ことの現在化がそなわっているのであり、ハイデガーが以前の節でこの名前で呼んでいたのにもそれなりの正当性があったのです。これが「すべての現在は〈現在化するもの〉であるが、すべての現在が〈瞬視的〉であるわけではない」という意味であり、これ以後現在化と呼ばれるものは、特別な指示がないかぎり非本来的な時間性のことであると注意しておきましょう。

Sofern aber das uneigentliche Verstehen das Seinkönnen aus dem Besorgbaren entwirft, heißt das, es zeitigt sich aus dem Gegenwärtigen. Dagegen zeitigt sich der Augenblick umgekehrt aus der eigentlichen Zukunft. (p.338)
非本来的な理解によって投企される存在可能は、配慮的に気遣うことのできるものに基づいて投企される。すなわち非本来的な理解は、現在化するものから時熟するということである。これとは反対に、瞬視は本来的な将来に基づいて時熟するのである。

 瞬視の概念の特徴は、この非本来的な今と対比して考えることができます。第1の特徴として、瞬視は、時間性の脱自的な構造のもとにあります。「今」は孤立した点的な時間でしたが、瞬視される「現在」は、先駆的な決意性のもとで、将来における死の瞬間から、これまでの現存在のすべての経歴としての既往に基づいて、現在の瞬間に立ち向かう時間的な契機です。瞬視としての現在は、そのうちに将来と既往を含んでいるのであり、それらから「点」のように孤立しているわけではありません。
 第2に、「今」は無限に連続する点的な時間でしたが、瞬視はこのような時間性の脱自的な構造のもとで、将来や既往と密接に結びついた構造のもとにあります。瞬視のもとでは、将来から独立した現在、既往から独立した現在を考えることはできません。瞬視は自分の死の瞬間という将来の時点から現在へと立ち帰ることで初めて可能になる瞬間です。そのため瞬視の時間性は「今」の連続のように無限に続くことはありません。現存在にとって時間はつねに有限なのです。「瞬視は本来的な将来に基づいて時熟する」のです。
 第3に、「今」とは違って瞬視においては、さまざまな存在者は現存在にとってたんに現前するものではありません。先に、「瞬視において現存在は、状況のうちで配慮的に気遣うことのできるさまざまな機会や事情に出会うのだが、現存在は決断しながら、しかも決意性のうちに”維持されながら”、こうして出会ったものから脱出してゆくのである」と指摘されていました。

>Im Augenblick< kann nichts vorkommen, sondern als eigentliche Gegen-wart läßt er erst begegnen, was als Zuhandenes oder Vorhandenes >in einer Zeit< sein kann. (p.338)
「瞬視において」は、何ものも現前することはない。瞬視は、本来的な意味での現-在であり、手元的にあるいは眼前的に「ある時間の中で」存在しうるものを、”初めて出会わせる”のである。


 次に、理解における既往と過去の違いについて、まずは本来的な既往から考えてみましょう。本来的な時間の脱自態にある現存在は、死への先駆によって自己に固有の存在可能に向けて投企します。この自己に固有の存在可能に向けて投企することは、みずからに向き合うようにすることであり、これはもっとも固有な自己に、みずからの単独化において被投されている自己に戻って来るということです。現存在が決断しながら、すでにみずからがそうである存在者を引き受けることを可能にするのが、本来的な既往性になります。

Im Vorlaufen holt sich das Dasein wieder in das eigenste Seinkönnen vor. Das eigentliche Gewesen-sein nennen wir die Wiederholung. Das uneigentliche Sichentwerfen auf die aus dem Besorgten, es gegenwärtigend, geschöpften Möglichkeiten ist aber nur so möglich, daß sich das Dasein in seinem eigensten geworfenen Seinkönnen vergessen hat. (p.339)
現存在は先駆においてみずからを”取り戻し”、もっとも固有な存在可能を”先んじて反復させる”。このように本来的に既往的に”存在する”ことを、わたしたちは”反復”と名づける。これにたいして非本来的な自己の投企では、現存在は配慮的に気遣っているものを現在化して、そこから汲み取ってきたさまざまな可能性へと向けて、自己を投企するのである。しかしこうした投企が可能となるのは、現存在がみずからにもっとも固有な”被投された”存在可能のうちで、みずからを”忘却している”からである。

 先駆的な決意性における既往のもとで現存在は過ぎ去った既往を「”反復”」するのです。これが本来的な既往としての反復です。
 これにたいして非本来的な理解における通俗的な時間概念の過去はどのようなものでしょうか。過去には3つの重要な特徴があります。第1に過去は既往と比較して、すでに述べてきた「今」と「瞬視」の違いと同じような違いをそなえています。まずこの過去は、今連続の系列において、すでに過ぎ去った「今」です。
 第2にこの過去は「今」連続の点としての性格をそなえており、どれも独立した過去の「点」として等質なものです。さらに過去は、直線的に伸びた時間の流れにおいて無限に遡ることができるものです。
 第3に過去には、忘却という重要な性格があります。この「忘却」が、非本来的な既往性だとハイデガーは指摘するのです。

Die Ekstase (Entrückung) des Vergessens hat den Charakter des sich selbst verschlossenen Ausrückens vor dem eigensten Gewesen, so zwar, daß dieses Ausrücken vor ... ekstatisch das Wovor verschließt und in eins damit sich selbst. Vergessenheit als uneigentliche Gewesenheit bezieht sich hiermit auf das geworfene, eigene Sein; sie ist der zeitliche Sinn der Seinsart, gemäß der ich zunächst und zumeist gewesen - bin. (p.339)
この忘却という脱自態(退き)は、もっとも固有な既往”に直面した”退却であり、しかもみずからを閉鎖しながらの退却であるという性格をそなえている。この〈~に直面しての退却〉は、退却する〈そこから〉を脱自的に閉ざしてしまい、同時にみずからをも閉ざしてしまうのである。こうして非本来的な既往性である”忘却”は、被投されたみずからに固有の”存在”との関係のうちにある。これはわたしがさしあたりたいていは既往しながらも、”存在している”その存在様式の時間的な意味である。

 このように理解は日常性にあっては、過去において起きた出来事を「忘却」しがちですが、死への先駆においては、既往という時間的な出来事を「反復」するのです。そもそも非本来的な存在様態にある現存在は、現在にあってもみずからを忘却していますが、それは自分の被投的なありかたに直面しないですむようにするためです。「この忘却という脱自態(退き)は、もっとも固有な既往”に直面した”退却であり、しかもみずからを閉鎖しながらの退却であるという性格をそなえている。この〈~に直面しての退却〉は、退却する〈そこから〉を脱自的に閉ざしてしまい、同時にみずからをも閉ざしてしまう」。この自己忘却のうちにある現存在は、「配慮的に気遣っているものを現在化して、そこから汲み取ってきたさまざまな可能性へと向けて、自己を投企する」という散漫な状態にあるのです。

 このようにして将来と現在化する現在と既往という時間の契機における「先駆、瞬視、反復」という本来的な脱自態と、未来と現在と過去という派生的な時間の契機における「予期、現在化、忘却」という非本来的な脱自態が明らかにされました。最後に、これらの本来的な時間性と非本来的な時間性における時熟のありかたをまとめてみましょう。

Das vergessend-gegenwärtigende Gewärtigen ist eine eigene ekstatische Einheit, gemäß der sich das uneigentliche Verstehen hinsichtlich seiner Zeitlichkeit zeitigt. Die Einheit dieser Ekstasen verschließt das eigentliche Seinkönnen und ist sonach die existenziale Bedingung der Möglichkeit der Unentschlossenheit. Obzwar sich das uneigentliche, besorgende Verstehen aus dem Gegenwärtigen des Besorgten bestimmt, vollzieht sich doch die Zeitigung des Verstehens primär in der Zukunft. (p.339)
”忘却的で現在化する予期”は独特な脱自的な統一を形成するのであり、非本来的な理解は、その時間性においては、この統一にしたがって時熟するのである。これらの脱自態の統一は、本来的な存在可能を閉ざしてしまうのであり、それによって決断しないでいることの可能性の実存論的な条件となる。非本来的で配慮的な気遣いによる理解は、配慮的に気遣われたものを現在化することによって規定されているが、理解の時熟は第1義的には将来において遂行されるのである。

 頽落している現存在の非本来的な理解は、「”忘却的で現在化する予期”」という脱自的な統一性によって可能になります。ところがこうしたありかたにある現存在も、先駆的な決意性において死へと先駆けることによって「みずからを”取り戻し”、もっとも固有な存在可能を”先んじて反復させる”」ことができるようになります。ハイデガーはここでは明示してはいませんが、本来的な時間性のもとにある現存在は、反復することでみずからを取り戻しながら先駆することで、現在における瞬視を実現するという統一にしたがって時熟することになるでしょう。
 通俗的な時間理解のもとにある現存在は、未来を予期し、現在を「今」と知覚し、過去を忘却しています。これにたいして本来的な時間理解のもとにある現存在は、将来へと先駆し、既往を反復し、現在化する現在の瞬間を瞬視しているということになるでしょう。


 (a)項における理解の時間性の考察は以上になります。次回、情態性の時間性を考察する(b)項に移ります。

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