『存在と時間』を読む Part.66

  第65節 気遣いの存在論的な意味としての時間性

 この節は大きくわけて2つの部分で構成されています。第1の部分は、投企の>Woraufhin<の概念を再検討することによって、意味と地平の概念のまとめを行うことです。第2の部分においては、このように総括された意味と地平の新たな概念に基づいて、過去、現在、未来という伝統的な時間概念に代わる本来の時間概念が提起されます。前回予告したように、この節からいよいよ、ハイデガーの時間論が本格的に展開されることになります。

 まずは第1の部分である意味の概念についての考察です。この節のタイトルには「気遣いの存在論的な意味」とありますが、意味とはどういうことでしょうか。意味については、すでに第1篇での理解と解釈の分析において言及されていました(Part.31参照)。

Danach ist Sinn das, worin sich die Verstehbarkeit von etwas hält, ohne daß es selbst ausdrücklich und thematisch in den Blick kommt. Sinn bedeutet das Woraufhin des primären Entwurfs, aus dem her etwas als das, was es ist, in seiner Möglichkeit begriffen werden kann. Das Entwerfen erschließt Möglichkeiten, das heißt solches, das ermöglicht. (p.324)
その際に確認したことは、意味とは、〈あるもの〉の理解可能性が保持されているものだということである。その際には、そのものが主題的かつ明示的にまなざしのうちに入ってくることがない。意味とは、第1義的な投企の〈向かうところ〉のことであり、これに基づいて、〈あるもの〉がそのものとして、その可能性において把握できるようになる。この投企はさまざまな可能性を、それを可能にするものを開示する。

 この投企の「向かうところ」(>Woraufhin<)の概念については第18節において、この概念は現存在と「存在者を出会うようにさせる〈ところのその場所〉」であると同時に、「現存在がみずからを示しながらそこに向かう〈ところのその場所〉の構造が、世界の"世界性"を形成する」ことが指摘されていました(Part.17参照)。この概念は現存在が存在者との出会いと理解を可能にする「地平」のようなものとして、そして理解するための形式的な構造のようなものとして考えられていました。
 この>Woraufhin<には、このように「向かう〈ところのその場所〉」と訳すのがふさわしい場合と、「土台となるところ」と訳するのがふさわしい場合があります。この概念は「地平」を構成するものであるために、投企の〈向かうところ〉であると同時に、そこから折り返すように理解するための「土台となるところ」という役割をはたすのであり、2つの方向性をそなえています。
 Part.17で説明したように、>Woraufhin<は、場所を意味する >wo< という副詞、上の方向を意味する >auf< という前置詞、方向性を示す >hin< という副詞を合成して作られた副詞であり、これらの意味を合わせて考えると「ある上の場所にあるものを目指して」というニュアンスをもちます。現存在があるものについて何らかの判断を下すことができるためには、この地平に向って進んでいく上向きの方向と、そこに到達した後に、その地平に基づいてあるものについて何らかを判断する下向きの方向が必要とされます。この上向きの方向を示すのが「向かう〈ところのその場所〉」という訳語であり、地平に基づいて判断する下向きの方向を示すのが「土台となるところ」という訳語なのです。
 この2つの方向性については例をあげて考えてみましょう。現存在は世界のうちで刀という存在者に出会いますが、現存在はこの刀の理解についてはさまざまな可能性に開かれています。ある人はそれを武器として理解し、ある人はそれを美術品として理解し、またある人はそれを刀鍛冶工房のめじるしとして理解するでしょう。これらの多様な理解は>Woraufhin<によって可能になりますが、これは刀との出会いと理解を可能にする「地平」のようなものとして、理解するための形式的な構造のようなものとして考えられています。まさに戦場にいる人にとっては、刀は戦うという地平において考えられるからこそ武器として理解されるのであり、美術館にいる人にとっては、刀は芸術という地平において美術品として理解されるのです。ここで刀が武器として理解されることにおいては、その人はまず「戦う」という理解のための地平(〈ところのその場所〉)へ向かい、そこへ到達して今度は、この「戦う」ということ(〈土台となるところ〉)に基づいて刀という存在者を武器として理解するのです。
 このように地平としての>Woraufhin<には、判断を仰ぐ基準となる地平の意味と、それに基づいて実際に判断を下す基準として利用する地平の意味があります。この地平は、「〈あるもの〉の理解可能性が保持されているもの」なのです。武器としての刀という判断と同じように、意味を問う営みもまた、2つの方向性をそなえています。1つは、意味を判断する基準として仰ぐ「第1義的な投企の〈向かうところ〉」であり、もう1つは、この〈土台となるところ〉に基づいて判断を下す営みです。「これに基づいて、〈あるもの〉がそのものとして、その可能性において把握できるようになる」のです。

Den Sinn der Sorge herausstellen, heißt dann: den der ursprünglichen existenzialen Interpretation des Daseins zugrundeliegenden und sie leitenden Entwurf so verfolgen, daß in seinem Entworfenen dessen Woraufhin sichtbar wird. Das Entworfene ist das Sein des Daseins und zwar erschlossen in dem, was es als eigentliches Ganzseinkönnen konstituiert. (p.324)
だから気遣いの意味を際立たせるということは、現存在の根源的な実存論的な解釈の土台になっていて、この解釈を導いている投企を追跡し、そこで投企されているものの〈土台となるところ〉を明らかにするということである。この投企されているものとは、現存在の存在であり、それはこの存在を本来的な全体的な存在可能として構成しているもののうちで、この現存在の存在が開示されているのである。

 気遣いについてその意味を考えるということは、この地平のもつ2つの方向性を考えるということです。そのためには「現存在の根源的な実存論的な解釈の土台になっていて、この解釈を導いている投企を追跡し、そこで投企されているものの〈土台となるところ〉を明らかにする」ことが求められます。ここで問われているのは、気遣いの意味を考察するための実存論的な解釈を導いている投企の地平を追跡するという上向きの方向性と、この投企において投企されているものの「土台となるところ」の地平を明らかにするという下向きの方向性です。

Das Woraufhin dieses Entworfenen, des erschlossenen, so konstituierten Seins, ist das, was diese Konstitution des Seins als Sorge selbst ermöglicht. Mit der Frage nach dem Sinn der Sorge ist gefragt: was ermöglicht die Ganzheit des gegliederten Strukturganzen der Sorge in der Einheit ihrer ausgefalteten Gliederung? (p.324)
このように投企されたものの〈土台となるところ〉、すなわち開示され、そのようにして構成されている存在の〈土台となるところ〉は、この存在が気遣いとして構成されることそのものを可能にする条件である。気遣いの意味への問いで問われているのは、”気遣いの分節された構造全体の全体性を、その展開された分節の統一において可能にしているものは何か”ということである。

 上向きの方向性である投企の追跡によって明らかになるのは、「この存在が気遣いとして構成されることそのものを可能にする条件」だということです。下向きの方向性である「土台となるところ」を解明することで明らかになるのは、「”気遣いの分節された構造全体の全体性を、その展開された分節の統一において可能にしているものは何か”」ということです。
 わたしたちは世界のうちで、道具として利用する手元的な存在者にたいしては、「配慮」という気遣いを行使し、実存する他なる現存在にたいしては「顧慮」という気遣いを行使し、眼前的な存在者にたいしては「実証的で科学的に認識する」ためのまなざしで気遣いをしています。存在者についてのすべての経験は、それに対応する存在者の存在について、そのつど多かれ少なかれ見通しよく投企することに基づいているのです。

Das Seiende >hat< nur Sinn, weil es, als Sein im vorhinein erschlossen, im Entwurf des Seins, das heißt, aus dessen Woraufhin verständlich wird. Der primäre Entwurf des Verstehens von Sein >gibt< den Sinn. Die Frage nach dem Sinn des Seins eines Seienden macht das Woraufhin des allem Sein von Seiendem zugrundeliegenden Seinsverstehens zum Thema. (p.324)
存在者が意味を「もつ」のは、それが最初から存在として開示されていて、その存在の投企において、すなわちその〈土台となるところ〉に基づいて、理解できるようになっているからである。存在を理解する第1義的な投企が、存在に意味を「与える」のである。ある存在者の存在の意味を問うということは、存在者のすべての”存在”の根底にある存在理解の〈土台となるところ〉を主題化するということである。

 これらの存在者が「意味をもつ」存在者であるのは、「それが最初から存在として開示されていて、その存在の投企において、すなわちその〈土台となるところ〉に基づいて、理解できるようになっているから」です。どのような存在者にたいしても、わたしたちはすでにその存在者の存在様式と存在者としての性格について、それに基づいて理解するための「地平」を所有しているのです。
 ここにはある種の循環があるのは明らかでしょう。わたしたちが手元的な存在者をそのものとして理解することができるためには、そのものを手元的な存在者とみなすことを可能にする「地平」をすでに所有していなければなりません。しかしこの「地平」は、わたしたちが世界において生きるうちで体得していくものであり、しかもそのようにしてわたしたちがまなざしを「向ける」ことで体得した「地平」が、やがてはこの存在者の意味を理解するための「土台」となるのです。ですから、上向きのまなざしにおいて「地平」に到達することができるのは、すでにこの「土台となるところ」としての地平に基づいて、すでに判断が下されていたからなのです。
 この地平に向かう営みは、現在において行われるものですが、この「向かう」という方向性は時間的には未来を目指したものです。そしてこの未来に向かう志向が実現するためには、この未来に存在するはずの「地平」がすでに過去においてわたしたちにとって、判断の土台となっていなければならないはずです。このように、「向かう」地平は未来としての性格をおび、「土台となる」地平は過去としての性格をおびているのですが、未来に向かうためには過去を土台としなければならないのです。こうして、「地平」のこのような循環的な性格は、存在論的には時間的な性格をおびていることがわかります。

 ハイデガーは気遣いの「意味」を問うことによって、地平としての>Woraufhin<の概念に含まれる2つの方向性を明らかにしながら、そこに時間的な性格をみいだすことになりました。そこでこの節の後半部分では、このような気遣いの時間的な性格について考察することになります。
 気遣いの本来的で根源的なありかたが先駆的な決意性であることは、すでに確認されてきました。この先駆的な決意性とは、現存在が「死への先駆」によって、自己に固有の存在可能に向き合うことを決意することですが、これが可能であるのは、現存在が実存する存在者であるからです。

Dergleichen ist nur so möglich, daß das Dasein überhaupt in seiner eigensten Möglichkeit auf sich zukommen kann und die Möglichkeitin diesem Sich-auf-sich-zukommenlassen als Möglichkeit aushält, das heißt existiert. Das die ausgezeichnete Möglichkeit aushaltende, in ihr sich auf sich Zukommen-lassen ist das ursprüngliche Phänomen der Zukunft. (p.325)
これが可能になるのは、”そもそも”現存在はみずからにもっとも固有な可能性において、みずからに向き合うことが”可能である”からである。現存在は〈みずからをみずからに向き合うようにさせながら存在する〉ことにおいて、その可能性を可能性として保持しているからであり、すなわち実存しているからである。この卓越した可能性をしっかりと保持し、その可能性のうちにおいてみずからに〈”向き合うように”させる〉存在であることが、”将来”という根源的な現象である。

 この「死へと先駆ける」時間性は「将来(>Zukunft<)」です。

>Zukunft< meint hier nicht ein Jetzt, das, noch nicht >wirklich< geworden, einmal erst sein wird, sondern die Kunft, in der das Dasein in seinem eigensten Seinkönnen auf sich zukommt. Das Vorlaufen macht das Dasein eigentlich zukünftig, so zwar, daß das Vorlaufen selbst nur möglich ist, sofern das Dasein als seiendes überhaupt schon immer auf sich zukommt, das heißt in seinem Sein überhaupt zukünftig ist. (p.325)
 ここで「将来」とは、”まだ”「現実的な」ものになって”いないが”、これから”存在するようになる”今のことではない。現存在がみずからのもっとも固有な存在可能において、みずからに向き合うようになることが、〈到来すること〉なのである。先駆によって現存在は”本来的に”将来的なものとなるのだが、それは現存在が”存在者として”一般につねにすでにみずからに向き合うように到来しているからであり、みずからの存在において一般に将来的なものであるかぎりにおいて、その先駆そのものが可能となるからである。

 この将来は「”まだ”「現実的な」ものになって”いないが”、これから”存在するようになる”今」としての「未来(>Futur<)」ではありません。このドイツ語>Futur<は未来についての一般的な用語であり、英語の>future<にあたります。これは未来においてありうる今を指す言葉であり、今からみて「いまだあらざる今」という意味です。これに対して、「訪れる」を意味するドイツ語の動詞>kommen<を語源とする>Zukunft<の概念は、たんにまだ訪れていない今ではなく、今後の特定の時間において〈到来すること〉がありうる瞬間という意味をそなえています。上記の引用文中で「到来する」と訳した動詞は>zukommen<ですが、これが>Zukunft<と語の形が似ているのは、「将来」という時間的な契機から捉えられているからであり、ハイデガーはそれを強調しているのです。
 この将来の概念においても、存在論的な解釈に固有の循環性がみられます。現存在は「みずからの存在において一般に将来的なものであるかぎりにおいて、その先駆そのものが可能となる」のですが、現存在が「”本来的に”将来的なものとなる」ことができるのは、すなわち現存在が自己の固有性に向けて先駆けることができるのは、「現存在が”存在者として”一般につねにすでにみずからに向き合うように到来しているから」なのです。

 先駆的な決意性は現存在を、その本質からして〈負い目ある存在〉として理解します。このように理解するということは、現存在が実存しながらこの〈負い目ある存在〉をひきうけるということ、〈無であること〉の被投された根拠として存在するということです。

Übernahme der Geworfenheit aber bedeutet, das Dasein in dem, wie es je schon war, eigentlich sein. Die Übernahme der Geworfenheit ist aber nur so möglich, daß das zukünftige Dasein sein eigenstes >wie es je schon war<, das heißt sein >Gewesen<, sein kann. (p.325)
しかし被投性をひきうけるということは、現存在は”みずからそのつどすでに存在していたありさまで存在する”ということ、すなわち本来的に”存在する”ということである。しかし被投性をひきうけることが可能となるのは、将来的な現存在がみずからのもっとも固有な「みずからそのつどすでに存在していたありさま」で、すなわちみずからの「既往」において”存在する”ことができる場合にかぎられるのである。

 ハイデガーは通俗的な時間概念としての「過去(>Vergangenheit<)」と対比する形で、本源的な時間概念としての「既往(>Gewesen<)」と「既往性(>Gewesenheit<)」の概念を提起します。>Vergangenheit<というドイツ語は、「過ぎ去る」を意味する>vergehen<という動詞から派生した名詞で、「すでに過ぎ去った時」という無規定な概念です。しかし>Gewesen<という概念は、「かつて存在していた時」という意味で、現在と密接な関係がある概念です。この既往(>Gewesen<)という語は、過去に存在したことや過去に経験したことが、その人や事物の本質(>Wesen<)をつくるという意味で、現在の現存在をつくりだした無時間的な過去の時間における経験の総体を意味することができる言葉なのです。

Nur sofern Dasein überhaupt ist als ich bin-gewesen, kann es zukünftig auf sich selbst so zukommen, daß es zurück-kommt. Eigentlich zukünftig ist das Dasein eigentlich gewesen. Das Vorlaufen in die äußerste und eigenste Möglichkeit ist das verstehende Zurückkommen auf das eigenste Gewesen. Dasein kann nur eigentlich gewesen sein, sofern es zukünftig ist. Die Gewesenheit entspringt in gewisser Weise der Zukunft. (p.326)
現存在が一般に〈わたしは既往で”ある”〉という形で”存在している”場合にかぎって、現存在はみずからに”戻り来たりつつ”立ち戻るというありかたで、将来的にみずからに向き合うように到来することができるようになる。本来的に将来的であることで、現存在は本来的に”既往しつつ存在する”のである。もっとも極端で固有な可能性へと先駆することは、もっとも固有な既往へと、それを理解しながら〈戻り来たりつつ立ち戻ること〉である。現存在は将来的であるかぎりでのみ、本来的に既往的に”存在する”ことができる。既往性は、あるありかたで将来から生まれるのである。

 ハイデガーはこの既往については、これを構成する4つの要素を指摘します。「負い目ある存在」、「被投性」、「既往と本質の深い関係」、そして「既往と将来との密接な関係」です。
 まず第1の要素である「負い目ある存在」についてです。「負い目あり」ということは、存在することにおいて、いくつかの意味で〈無であること〉を刻印されているということです(Part.59参照)。これは世界の状況のうちに投げ込まれた無力な存在者としての現存在を指摘するものであり、わたしたちは世界内存在として、つねに過ぎ去った時間に生じている「負い目」を背負っているのです。
 第2の要素は「被投性」です。わたしは自分の意志とはかかわりなしにこの世界に投げ込まれるようにして誕生してきましたが、この誕生という出来事の被投性が、わたしの既往の存在をつくりだしました。誕生した後のわたしは、さまざまな意味でみずからの選択において決定を下してきたのであり、わたしが今このような人間になっていることには、わたしの過去の選択が大きな役割を果たしています。そしてこの選択においてわたしは、考えられるかぎり可能なその他の存在可能を否定してきたのであり、ここにも現存在の〈無であること〉が見出されるのです。現存在は、「みずからのもっとも固有な存在を根底から意のままにすることが”決して”でき”ない”」のであり、「この”〈ない〉”は、被投性の実存論的な意味に含まれている」のです(同パート)。
 第3の要素は、「既往と本質の深い関係」です。このように世界のうちに被投されて実存する現存在は、いくつもの意味で〈無であること〉という性格を刻印されています。そしてこの被投的な存在者であることは、現存在がすでにそれまでの生涯において世界のうちに生きてきたことによって可能となります。この〈無であること〉は、現存在の過去によって規定され、可能になっているのです。現存在がこのような「被投性をひきうけることが可能となるのは、将来的な現存在がみずからのもっとも固有な〈みずからそのつどすでに存在していたありさま〉で、すなわちみずからの〈既往〉において”存在する”ことができる場合にかぎられる」のです。すでに確認されたように、ハイデガーは過去という語ではなく、既往という語を選んでいます。それは過ぎ去った時間としての過去の意味ではなく、現存在の本質をつくりだすような被投性の根拠としての既往の意味を重視するからです。
 第4の要素は、「既往と将来との密接な関係」です。現存在はこのように被投性をひきうけるときに、それまでの生涯の既往を同時にひきうけているのですが、この被投性をひきうけることが可能となるのは、「現存在は”みずからそのつどすでに存在していたありさまで存在する”ということ、すなわち本来的に”存在する”」のでなければなりません。このように〈本来的に存在するありかた〉は、先駆的な決意性によって初めて可能になります。そしてこの先駆的な決意性のもとで生きることこそが、将来というありかたです。
 先駆的な決意性のもとで、将来的に生きることによって、現存在は現在において自分の既往を被投性として本来的にひきうけることができるようになるのです。「現存在は将来的であるかぎりでのみ、本来的に既往的に”存在する”ことができる。既往性は、あるありかたで将来から生まれるのである」。このようにして、現在と将来と既往との根源的な結びつきが確認されたのです。

 先駆的な決意性は、そのつどの〈そこに現に〉の状況を開示しますが、それによって実存は行動しつつ、事実的に環境世界のうちに手元的に存在するものを、目配りのまなざしで配慮的に気遣います。

Das entschlossene Sein bei dem Zuhandenen der Situation, das heißt das handelnde Begegnenlassen des umweltlich Anwesenden ist nur möglich in einem Gegenwärtigen dieses Seienden. Nur als Gegenwart im Sinne des Gegenwärtigens kann die Entschlossenheit sein, was sie ist: das unverstellte Begegnenlassen dessen, was sie handelnd ergreift. (p.326)
状況において手元的に存在しているもののもとで決意的に存在すること、それは行動しながら環境世界に”いあわせているもの”と出会うようにさせるということであり、これはこうした存在者を”現在化させること”によってのみ可能となる。現在化させるという意味での”現在”としてのみ、決意性は本来の決意性になる。これは行動によって把握すべきものに、それを歪めることなく出会わせるということである。

 上記の引用文で登場する語>Gegenwärtigen<は、「現在」を示す標準的なドイツ語>Gegenwart<という名詞を動詞化して作られた用語であり、「現在化」と訳します。これは瞬間としての「今」ではなく、将来から既往を含む形で、先駆的な決意性の時点である「現在」へと「戻り来たりつつ立ち戻る」という運動性を強調する言葉として選ばれています。
 先駆的な決意性は、自分の「死への先駆」のもとで、もっとも固有な存在可能に直面しようと決意するのですが、この決意はつねに「現在」の瞬間において行われます。上記の文中では、「現在化させるという意味での”現在”としてのみ、決意性は本来の決意性になる。これは行動によって把握すべきものに、それを歪めることなく出会わせるということである」とされています。
 この現在の時間については、後に別の概念によって把握されることになりますが、この段階では「現在化」という動詞が現在の時間概念として捉えられています。

 このようにして将来、既往、現在化で構成される時間は、既往をひきうける形で被投性をひきうけながら、死へと先駆しつつ将来から現在にいたる先駆的な決意性の時間として解釈することができます。

Zukünftig auf sich zurückkommend, bringt sich die Entschlossenheit gegenwärtigend in die Situation. Die Gewesenheit entspringt der Zukunft, so zwar, daß die gewesene (besser gewesende) Zukunft die Gegenwart aus sich entläßt. Dies dergestalt als gewesend-gegenwärtigende Zukunft einheitliche Phänomen nennen wir die Zeitlichkeit. Nur sofern das Dasein als Zeitlichkeit bestimmt ist, ermöglicht es ihm selbst das gekennzeichnete eigentliche Ganzseinkönnen der vorlaufenden Entschlossenheit. Zeitlichkeit enthüllt sich als der Sinn der eigentlichen Sorge. (p.326)
決意性は、将来的にみずからに戻り来たりながら、みずからを現在化しながら状況のうちにもたらす。既往性は将来から生まれるものであり、そのことによって、既往した(むしろ既往しつつある)将来が、現在をみずからのうちから〈去らせる〉のである。このように〈既往しつつ現在化する将来〉として統一されている現象を、わたしたちは”時間性”と名づける。現存在は時間性として規定されていることで初めて、すでに述べたような先駆的な決意性という本来的な全体的な存在可能を、みずからに可能にするのである。このように”時間性こそが、本来的な気遣いの意味であることが明らかにされたのである”。

 「既往した(むしろ既往しつつある)将来が、現在をみずからのうちから〈去らせる〉」というのは、現在は既往と同様に、将来から生み出され現在にされるということです。これまでみてきたような「〈既往しつつ現在化する将来〉として統一されている現象」は、「”時間性”」と名づけられます。ところで意味とは、「〈あるもの〉の理解可能性が保持されているもの」のことでしたが、根源的な気遣いとして先駆的な決意性は、将来、既往、現在化によって構成される時間によって可能となるのですから、この時間性こそが「”本来的な気遣いの意味”」だということになるでしょう。
 これにたいして通俗的な時間の理解における未来、過去、現在という時間は、この本来的な時間性の派生的な現象と考えることができます。これらの概念は、非本来的な時間の理解から生まれてきたものなのです。
 このような通俗的な時間性の概念と比較して、将来、既往、現在化という本来的な時間性の概念が提起されてきたのですが、これから、これらの本来的な時間性の概念の背後にある根源的な現象について、具体的に考察する作業が必要とされます。

 まず問われるのは、現存在の根本的な存在機構である気遣いは、時間性とどのような関係にあるかということです。気遣いは、〈(世界内部的に出会う存在者の)もとでの存在として、(世界のうちで)すでにみずからに先立って存在すること〉でしたが、この表現は3つの要素で構成されています。「~のもとでの存在」と「~のうちですでに存在すること」と「みずからに先立って」です。これらの要素が時間的な性格をおびているのは明らかですが、これまではそのことが明確に規定されてきませんでした。
 まず「みずからに先立って」ということが将来に根拠をおいているのは、これまで考察してきたことから、たやすく理解できるでしょう。そして「~のうちですでに存在すること」が、既往を根拠とすることも明らかです。わかりにくいとすれば、「~のもとでの存在」ですが、これは現存在が現在において日常性のうちに頽落して存在することを告げるものであり、これは現在化の働きにおいて可能になると考えることができるでしょう。
 ただし注意が必要なのは、通俗的な時間概念のように、時間を一本の無限の直線のように考えて、今という瞬間の前に、かつては今でしたが、すでに過ぎ去って過去となった時間があり、その先にこれから訪れて今となるべき未来の時間があると考えてはならないということです。このような誰にでもわかりやすい時間概念は、線形的な時間概念を表現しています。線形的な時間概念は、未来をこれから今になる時間、過去をかつての今だった時間と考えるものですが、すると時間というものは、「今」を中心として、その「今」が瞬間的に直線に沿って前に移行しつづけるものだと考えることになります。
 そうだとするとすべての時間は「今ここに」現前する時間が、瞬時に未来に向けて移動することで、今を過去とし、未来を今とする時間であると理解することになるでしょう。

Die Sorge wäre dann begriffen als Seiendes, das >in der Zeit< vorkommt und abläuft. Das Sein eines Seienden vom Charakter des Daseins würde zu einem Vorhandenen. (p.327)
その場合には気遣いは、「時間のうちで」現前し、経過するような存在者として把握されることになるだろう。すると現存在という性格の存在者の”存在”は、”眼前的に存在するもの”になってしまうだろう。

 このようなことは不可能ですから、線形的な時間概念は、気遣いの時間的な意味を捉えるにはふさわしくないのです。

 現存在は実存する存在者であって、このように「眼前的に存在するもの」ではありません。現存在を根源的な時間性から理解するならば、第1の「みずからに先立って」の「先立って」ということは、「死への先駆」への決意性として気遣いを遂行する現存在が、自分のもっとも固有な存在可能へと向かってみずからを投企するということです。

Das >vor< und >vorweg< zeigt die Zukunft an, als welche sie überhaupt erst ermöglicht, daß Dasein so sein kann, daß es ihm um sein Seinkönnen geht. Das in der Zukunft gründende Sichentwerfen auf das >Umwillen seiner selbst< ist ein Wesenscharakter der Existenzialität. Ihr primärer Sinn ist die Zukunft. (p.327)
「先」とか「先立って」ということは将来を示すが、その将来は、現存在にとってみずからの存在可能が”重要な意味をもつ”ようなものとして存在することを、そもそも可能にしている将来なのである。「みずから自身のために」へ向けて、みずからを投企することは、”実存性”の本質的な特徴であり、この投企は将来に基づいているのである。”実存性の第1義的な意味は将来なのである”。

 このようにしてこれから訪れる将来の時間は、現存在にとっては先駆的な決意性を可能にする条件なのであり、「”実存性の第1義的な意味は将来なのである”」と言えるのです。すなわち将来は、現存在の存在の実存性を告知する時間です。
 さらに第2の「~のうちにすでに存在すること」の「すでに」ということは、現存在の歴史的な存在者としての既往的な性格を示す被投性と事実性を意味します。

Imgleichen meint das >Schon< den existenzialen zeitlichen Seinssinn des Seienden, das, sofern es ist, je schon Geworfenes ist. Nur weil Sorge in der Gewesenheit gründet, kann das Dasein als das geworfene Seiende, das es ist, existieren. (p.328)
同じように「すでに」ということは、”それが存在している”かぎりは、そのつどすでに被投的なものである存在者の実存論的で時間的な存在意味を示すのである。気遣いが既往性を根拠とするものであるからこそ、現存在は、みずからそうである被投的な存在者として実存することができる。

 「すでに」とは、「”それが存在している”かぎりは、そのつどすでに被投的なものである存在者の実存論的で時間的な存在意味を示す」ものです。現存在が既往しながら存在しうるものであるかぎり、「みずからそうである被投的な存在者として実存することができる」のです。

Es >findet sich< immer nur als geworfenes Faktum. In der Befindlichkeit wird das Dasein von ihm selbst überfallen als das Seiende, das es, noch seiend, schon war, das heißt gewesen ständig ist. Der primäre existenziale Sinn der Faktizität liegt in der Gewesenheit. (p.328)
現存在はつねに被投された事実として「みずからをみいだす」のである。現存在の”情態性”において、いまなお存在しているこの自分が、すでに存在してきたこと、不断に既往的に存在していたもので”ある”ような存在者であることに、突然にみずからによって襲われるようにして気づくのである。事実性の第1義的な実存論的な意味は、既往性に含まれるのである。

 既往は現存在の存在の事実性を告知するのです。このように、気遣いの構造を示した定式は、「先」と「すでに」という表現によって、実存性と事実性の時間的な意味を告示しているのです。
 第3の「~のもとでの存在」についてはどうでしょうか。

Dagegen fehlt eine solche Anzeige für das dritte konstitutive Moment der Sorge: das verfallende Sein-bei ... Das soll nicht bedeuten, das Verfallen gründe nicht auch in der Zeitlichkeit, sondern andeuten, daß das Gegenwärtigen, in dem das Verfallen an das besorgte Zuhandene und Vorhandene primär gründet, im Modus der ursprünglichen Zeitlichkeit eingeschlossen bleibt in Zukunft und Gewesenheit. Entschlossen hat sich das Dasein gerade zurückgeholt aus dem Verfallen, um desto eigentlicher im >Augenblick< auf die erschlossene Situation >da< zu sein. (p.328)
これにたいして気遣いを構成する第3の契機である〈~のもとでの頽落的な存在〉には、このような時間的な告示がみられない。ただしこれは、頽落が時間性に基礎づけられていないことを意味するものではない。現存在の”頽落”は、手元的な存在者と眼前的な存在者への配慮的な気遣いであり、これは”第1義的には現在化”に基づいたものであって、この現在化は根源的な時間性の様態にあっては、将来と既往性のうちに”閉じ込められた”ままであることを示す。決意した現存在は、頽落した状態からみずからをまさに取り戻しており、ますます本来的に、開示された状況への「瞬”視”」のうちで、〈そこに現に〉存在しようとしているのである。

 「~のもとでの存在」は、「〈~のもとでの頽落的な存在〉」を意味するものですが、そこには明示的には時間的な性格は示されていません。しかし先駆的な決意性が「死への先駆」によって決意する際には、現在の時点において自分が頽落していることについての明確な意識が必要とされます。現存在は頽落にあっては、「手元的な存在者と眼前的な存在者への配慮的な気遣い」のうちに、本来的な存在を見失って、自己を喪失しています。先駆的な決意性は、「開示された状況への〈瞬”視”〉のうちで、〈そこに現に〉存在しようとしている」のであり、そこに本来的な現在としての「現在化」の時間が訪れるのです。
 この「瞬”視”(>Augenblick<)」という概念は、「瞬間」を意味する>Augenblick<という語から、まなざしを示す>blick<だけを強調して作られた概念であり、先駆的な決意性のもとで、現在化の瞬間において本来的に存在することを選択することを意味する概念です。以下ではこの意味での>Augenblick<という語は、瞬視と訳し、通常の意味で使われている場合には、瞬間と訳すことにします。

 これまで確認してきたように、時間性は、実存性、事実性、頽落を統一することができるのであり、これによって気遣いの構造の全体性が根源的に構成されます。この時間性は、気遣いを構成する契機が寄せ集められることでまとめられるものではなかったように、将来、既往性、現在化という契機が集まることで合成されるようなものではありません。

Die Zeitlichkeit >ist< überhaupt kein Seiendes. Sie ist nicht, sondern zeitigt sich. Warum wir gleichwohl nicht umhinkönnen zu sagen: >Zeitlichkeit ,ist‘ - der Sinn der Sorge<, >Zeitlichkeit ,ist‘ - so und so bestimmt<, das kann erst verständlich gemacht werden aus der geklärten Idee des Seins und des >ist< überhaupt. Zeitlichkeit zeitigt und zwar mögliche Weisen ihrer selbst. Diese ermöglichen die Mannigfaltigkeit der Seinsmodi des Daseins, vor allem die Grundmöglichkeit der eigentlichen und uneigentlichen Existenz. (p.328)
時間性はそもそもいかなる”存在者”で「ある」のでもない。時間性は存在するのではなく、みずから”時熟する”のである。それでもわたしたちは「時間性は気遣いの意味で〈ある〉」とか、「時間性はこのように規定されて〈いる〉」と表現せざるをえない。それがなぜなのかは、存在の理念と、「である」一般の理念を解明しなければ、理解できるようにはならない。時間性は時熟し、しかも時間性そのものに可能なさまざまなありかたを時熟させるのである。そしてこれらのありかたが、現存在の存在様態の多様性を可能にするのであり、とくに本来的な実存と非本来的な実存という根本的な可能性を可能なものとするのである。

 ここではこの時間性についての重要な謎が語られています。それは「時間性はそもそもいかなる”存在者”で〈ある〉のでもない」こと、「それでもわたしたちは〈時間性は気遣いの意味で〈ある〉〉とか、〈時間性はこのように規定されて〈いる〉〉と表現せざるをえない」ことです。ハイデガーがなぜ時間性は存在者ではないと考えるのかは、ここでは語られていません。しかし、もしここで時間性を存在者だと考えると、存在の意味への問いを時間性によって仕上げようとする試みは、おそらく果たされることはないでしょう。というのも、現存在の存在である気遣いは時間性によって可能となるのでしたが、時間性が存在者だとすると、この時間性を可能にするさらなる地平が必要になるからです。その場合、現存在の存在の意味が時間性として解明されたとしても、今度は時間性の存在の意味を解明する必要が生じることになり、場合によってはさらにその意味を、またその意味を、というように果てしない作業を遂行することになってしまいます。
 ところがわたしたちは時間性について「ある」という存在の言葉を使ってきました。時間性は存在者ではないはずなのに、「ある」という言葉で語られるのが「なぜなのかは、存在の理念と、〈である〉一般の理念を解明しなければ、理解できるようにはならない」とされています。ここでこの問題を解決することはまだできないのです。
 上記の引用文で注目すべきは、「時熟」という言葉です。「時間性は存在するのではなく、みずから”時熟する”のである」。この>zeitigen<という言葉は、辞書的な意味では「(効果などを)もたらす」とか「熟する」という意味をそなえています。時間(>Zeit<)が時間そのものとして訪れる(もたらされる)というほどの意味であり、ハイデガーはこの言葉を時間性が本来の時間として成立することを示すために使います。これはいわば「時間が時間する」ということであり、同語反復的な言葉遣いです。時熟は、時間がそれにふさわしい意味での時間となることを示すための用語です。
 「時間性は時熟し、しかも時間性そのものに可能なさまざまなありかたを時熟させる」のであり、現存在はさまざまなありかたで時間のうちで時熟します。「これらのありかたが、現存在の存在様態の多様性を可能にするのであり、とくに本来的な実存と非本来的な実存という根本的な可能性を可能なものとする」のです。ということは、時間は本来的に時熟することも、非本来的に時熟することもありえます。時熟とは、将来や未来、既往や過去、現在化と現在のように、時間性のさまざまなありかたをもたらすものなのです。

 通俗的な時間性が未来、過去、現在という形をとるとすれば、根源的な時間性は将来、既往、現在化というありかたをすることが確認されてきました。線形的な時間の様態では、時間とは始まりの終わりももたない純粋な〈今〉の継続ですが、根源的な時間性の3つは、静的で線形的な時間の様態ではなく、つねに時熟しつづける時間の動的な様態です。

Zukunft, Gewesenheit, Gegenwart zeigen die phänomenalen Charaktere des >Auf-sich-zu<, des >Zurück auf<, des >Begegnenlassens von<. Die Phänomene des zu ..., auf ..., bei ... offenbaren die Zeitlichkeit als das εκστατικόν schlechthin. Zeitlichkeit ist das ursprüngliche >Außer-sich< an und für sich selbst. Wir nennen daher die charakterisierten Phänomene Zukunft, Gewesenheit, Gegenwart die Ekstasen der Zeitlichkeit. (p.328)
将来、既往性、現在は、「みずからに向かって」「~に立ち戻って」「~に出会わせる」という現象的な性格をそなえている。〈~に向かって〉〈~に〉〈~のもとで〉という現象は、時間性が端的に脱自的な性格のものであることをあらわにしている。”時間性は根源的な脱自そのものなのである”。わたしたちはそこで、すでに特徴づけてきた将来、既往性、現在という現象を、時間の”脱自態”と呼ぶことにする。

 根源的な時間性においては、「将来、既往性、現在は、〈みずからに向かって〉〈~に立ち戻って〉〈~に出会わせる〉という現象的な性格をそなえている」のであり、ここにその動的な様態をみてとれます。
 そこにはつねに「脱自」という性格がそなわっています。この「脱自」と訳したドイツ語>Außer-sich<は、「外に」を表現する>außer<と、「みずから」を意味する>sich<から構成されている語であり、自分の外部にあるものによって規定されるということを意味します。〈~に向かって〉〈~に〉〈~のもとで〉という現象は、それぞれ自分の外部にある「~」を目指したものであり、「時間性が端的に脱自的な性格のものであることをあらわにしている」と指摘することができます。ですから「将来、既往性、現在という現象を、時間の”脱自態”と呼ぶ」ことができるでしょう。

 このように「今」の継続としての静的で線形的な時間概念と比較すると、時熟する根源的な時間概念は動的なものですが、この根源的な時間概念については、いくつかの重要な特徴が確認できます。
 第1の特徴はすでに確認したように、この根源的な時間概念は、時間が直線的に「流れる」のではなく、「時熟する」ということです。時間性は将来、既往、現在化という3つの時間的な契機の相互的な関係においてしか規定されず、そして現在において時熟する時間は、将来と既往の時間的な契機との関連のうちにおいて、初めて本来の現在の瞬間としての「時間になる」、すなわち時熟します。
 この時熟する時間という動性が、実存する現存在のありかたにふさわしいものであることは明らかでしょう。わたしたちは「今」を生きていますが、この「今」における存在は、将来においてなすべきことに規定されています。刀匠が”今”刀を製作するとき、それは依頼人のために刀を作って将来のある時点で渡すためであり、それは過去における依頼人との約束によってなさねばなりません。現在の「今」は、こうした未来の予定と過去の約束や経歴によって初めて可能となり、初めて実現されます。
 わたしたちのすべての瞬間における行為は、このような将来と既往との関連の網の目において行われているのであり、これを線形的な時間のなかの1つの孤立した時点における行為のように考えることはできません。すでに気遣いの構造における〈先〉と〈すでに〉という表現によって、実存性と事実性の時間的な意味が告示され、現在化は現存在の頽落の時間的な契機であることが確認されてきましたが、これは気遣いの構造が時熟する根源的な時間性によって規定されていることを示すものです。
 第2の特徴は、この将来、既往、現在化という時間的な契機はすべて、脱自的な構造をそなえており、これらは時間の脱自的な契機であるということです。
 第3の特徴は、時間の脱自態を考察する際に、ハイデガーはつねに将来から考察を開始していることです。それには2つの重要な理由があります。まず現存在の気遣いというものは、基本的に将来に向けて行われるものです。自分の健康に気遣うときにも、自分の仕事に励むときにも、基本的に自分の将来の生活と幸福を目指して気遣いが遂行されます。過去に配慮するときにも、「今」だけを感じて瞑想するときにでさえも、その配慮は自分の将来のためであることが多いでしょう。
 さらに現存在の実存は、良心の呼び掛けに応じて、先駆的な決意性をもとうとすることによって確保されますが、この先駆的な決意性とは、わたしだけの死に向かって、わたしが将来へと向けて先駆することを選択することであり、これは将来の時間的な契機によって初めて可能になることです。
 このことから、次のように結論できます。

Die ursprüngliche und eigentliche Zeitlichkeit zeitigt sich aus der eigentlichen Zukunft, so zwar, daß sie zukünftig gewesen allererst die Gegenwart weckt. Das primäre Phänomen der ursprünglichen und eigentlichen Zeitlichkeit ist die Zukunft. (p.329)
根源的で本来的な時間性は、本来的な将来から時熟し、将来的に既往しながら、そこではじめて現在を呼び起こすのである。”根源的で本来的な時間性の第1義的な現象は、将来である”。

 現存在は将来から時熟する時間性を生きることで、初めて本来的に実存することができるとされています。時間的な契機のうちで将来を重視するというのはハイデガーの時間論の重要な特徴であり、後に現在という時間的な契機を重視するヘーゲルの時間論が検討される際に、この問題は改めて考察されることになります。
 第4の特徴は、このように自分の死へ先駆するということは、自分の「終わりに臨む存在」を生きることを意味しているということです。先駆的な決意性の重要な特徴は、自分の死の時点から自分の生を眺めるということ、自分の生の有限性へのまなざしが重視されることにあります。もちろん通俗的な時間性の概念においても、人間の生の有限性は当然のこととして前提されています。しかし時間性の概念が直線的に伸びる時間であるかぎり、この直線そのものは無限のものとして想定されています。人間はいわば未来に向けて無限に伸びる直線のうちの1つの有限な区画を生きるものとして想定されているのです。
 この通俗的な時間性の概念は、わたしたちに強く訴えるところがあります。というのは、わたしは死んだ後にも世界は存続しつづけるでしょうし、わたしの家族も友人も生きつづけ、彼らの時間はなおつづくだろうと思われるからです。わたし自身がもはや現存在しなくなっても、時間はなおもつづいてすすんでいくと考えることは、一見すると誰にも否定できないような正しさをそなえているように思えます。しかし重要なのは、このように時間をあたかもすべての人を超越したところから眺めるような視線が、どこにその正しさの根拠をもっているかということです。これは誰でもないひと、すなわち世人のまなざしから個々人の固有の生の「終わり」を眺める視線なのであり、このように考えたいと思う誘惑は、通俗的な時間了解がわたしたちに不断に押しつけられているために生まれるものなのです。
 気遣いの実存論的な構造から考えて重要なのは、自分の生の有限性を覚悟した「死への先駆」によって、自分だけに固有な存在可能に向かって決断を下すことであり、これは時間を無限に伸びる直線のように考える視点からは下すことのできない決断です。通俗的な時間了解が時間を無限であると考えることは、先駆的な決意性によってあらわになる根源的な時間性にかかわるものではなく、その派生的な様態なのです。先駆的な決意性の意味である時間性は、追い越すことのできない死に規定された終わりのある有限的な時間性なのであり、この〈終わりのある〉本来的な時間性から、〈終わりの”ない”〉”非”本来的な時間性が時熟することができるのです。現存在の存在を実存としてふさわしく把握するならば、根源的な時間は〈終わりがあるもの〉であることが確認できるのです。
 以上確認してきた特徴をまとめて、次のように語られています。

Die bisherige Analyse der ursprünglichen Zeitlichkeit fassen wir in folgenden Thesen zusammen: Zeit ist ursprünglich als Zeitigung der Zeitlichkeit, als welche sie die Konstitution der Sorgestruktur ermöglicht. Die Zeitlichkeit ist wesenhaft ekstatisch. Zeitlichkeit zeitigt sich ursprünglich aus der Zukunft. Die ursprüngliche Zeit ist endlich. (p.331)
根源的な時間性についてのこれまでの分析を、次のテーゼで要約しておくことにしよう。時間は根源的に、時間性が時熟したものであり、このようなものとして時間は、気遣いの構造が構成されることを可能にする。時間性は本質的に脱自的である。時間性は根源的には、将来から時熟する。根源的な時間は〈終わりのあるもの〉である。


 気遣いを時間性として解釈する作業は、現存在の根源的で本来的な全体存在を視野にいれながら、最初の数歩を踏み出したところです。今後の課題は、現存在の意味は時間性であるというテーゼを、現存在という存在者についてこれまで確認されてきた根本機構の具体的な内容に基づいて、検証することになるでしょう。


 第65節は以上になります。後半、紙幅の関係で少々早足になってしまいました。何かご不明点やご意見があれば、お気軽にコメントしていただければと思います。次回もまた、よろしくお願いします。

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